密教ではマクロコスモス(宇宙・大日如来)とミクロコスモス(自己・人間)とは本質的に一つであるという


 インドのみならず、古代西域諸国ともつながる文化の中で、宇宙・天体・星にその神秘性と人間存在を重ね合わせた発想は、古来よりどの文化圏にも、また思想や信仰にもみられるものである。仏教が生まれ、発展を遂げるインド文化のおいても、古代ヒンズー文化の中に、根強く「人間の身体が宇宙そのものである」という考えがあった。紀元前6世紀以前のウパニシャドのなかに、ブラフマンという宇宙の根源と、個人に内在する統一原理であるアートマンとが、同一視され、一体ととらえる世界観が、仏教以前からあった。
 また、大乗仏教でも、マクロの世界とミクロの世界との同一性、あるいはその対応関係について、いろいろな説がとなえられ、「煩悩即菩提」とか、「俗諦即真諦」。「法」と「法性」。「如来蔵」もまた、しかりである。

 仏教では、もともと人格神を認めていないが、大乗仏教の時代になると、四方仏・十方仏が想定され、それらの仏に礼拝がなされるようになる。また、ジャータカにも見られるように、釈尊以前にも過去仏がいて、人々を救済するという信仰もあらわれる。また、菩薩の不思議な働きが、神話的な色彩を鮮明にして物語られる。4世紀ころには、ヒンズー教の隆盛に、仏教経典にも、さまざまな神が現れて、大乗仏教の中では、超越的な性格の仏や、生活の中の神格が出てくる。大乗仏教の大きな特色である、全ての者がもともとブッダになる性質を備えているという教えが、六波羅蜜を説き、日常に実践することを説く。さらに、密教では、「即身成仏」という瞑想を主体とした実践が、大きな比重を占める。

 日本において、空海はその著『即身成仏義』で、人間存在の中に絶対を見つける原理を説いた。それは、まさにミクロとマクロの一体化を理論的に裏付けるものといえる。本尊と行者という相対する二つの存在が、本質としては一である、二でありながら一になりうるということを、「六大説」をよって説き明かした。

 空海は、地、水、火、風、空、識の六大を、宇宙の六種の象徴と見る。もともと五大は、『大日経』にある。それは五種の字、五種の形、五種の色をもち、さらに行者の体の五か所と対応する。そこに、空海が識大としての行者を加えた。
 『即身成仏義』の頌に「六大無礙にして常に瑜伽なり」とある。

金岡友秀の現代語訳『即身成仏義』訳「宇宙の六つの力(六大)は、たがいに入り混じって(無礙)、しかもつねに統一(瑜伽)されている。」つまり、「六大とは、物理的・生理的に把握されるものの本性であるのみならず、真実の世界における実体(法界体性)ででもある。」と説く。「真実世界の本性である「六大」によって成り立っている身体は、自分と他人というように表面的には区別されても、その本質は同じですから、彼此のちがいを越えてさしさわりもさまたげもなく、たがいに溶け合い入りあって、相応一致し、つねに変わりなく、この活動変化のすがたのままにありつづけています。ですから頌に、『六大無礙常瑜伽』というのです。」と説明する。
 六大は法界を体とするものよりなった身、仏身。つまり、マクロコスモスである。とともに、行者の身体(ミクロコスモス)でもある。ともに、同じ六大からなるのである。

 本来大乗仏教では、煩悩と菩提、身と心、色と心、真諦と俗諦、一と多、理と事など二元的に相対立する概念を挙げて、本質は一であることを説く。これを、「一如」、「不二」という。つまりは、自我意識を否定し、「無我」を説く。対立する概念をなくせば、自分も他人も本来は一体であると捉える。そこに、「慈悲」の本質もあると言える。
 さらに、密教は瑜伽行唯識派系の思想の影響をうけ、「瑜伽」にその大きな意味を持たせている。「瑜伽」とは、金岡氏によると、「本来ヨーガということばは心身の統一・一致を意味し、心と身・自己と外界、精神と物質などの不統一・不調和・乖離に悩んできた人間が、座禅などの精神統一・心身一如の修行法によって、ついに「安心立命」の境地に至ることをいう。」と解説している。
空海が繰り返し主張するのは、ミクロとマクロの世界の本質的な一体化を、その「瑜伽」の行を通じて直観することによってこそ、「即身成仏」が可能であり、密教の密教たるゆえんであるといえよう。



※参考文献 『密教』松長有慶   岩波新書
      『仏教入門』高崎直道 東京大学出版会
      『即身成仏義』金岡秀友 太陽出版
      『密教入門』大栗道栄 すずき出版