仏教の文学

 要約日本の宗教文学 13篇 立松和平 監修 という本が出ました。
 ちょうど私は、仏教がキーになっている文学を探しているときに、とても
 タイムリーでした。

 そこで、その要約をご紹介しようと思います。
 わたしも随分まえに読んだ本がほとんどで、そのポイントだけでもと思います。

 『五重塔』 幸田露伴
   江戸谷中の感応寺の五重の塔を建てた名工「のっそり十兵衛」と師の源太
   「飛天夜叉王」の嵐に釘一本緩まない塔。

 『高野聖』 泉鏡花
   高野聖が体験した、色欲に溺れた薬売りの話。「陀羅尼」を一心に唱えて救われる。

 『野菊の墓』伊藤左千夫
   時代に押しつぶされた若い二人の悲恋物語。最後まで清らかに愛した野菊のごとき
   民さんの死が、まわりの人たちを目覚めさせる。

 『こころ』 夏目漱石
   寺の息子Kと私が、下宿の娘を同時に恋し、やがてKは自らの命を絶ってしまう。
   人の深奥に潜むエゴイズムに、メスをいれ「即天去私」という漱石の思想があらわれている。

 『山椒大夫』 森鴎外
   安寿と厨子王が、母と生き別れ苦しい日々のなか、地蔵菩薩の信心に母とめぐり合う。

 『出家とその弟子』 倉田百三
   雪の日に親鸞たちが宿を借りに来たが、その家の主人が荒れて小さな阿弥陀さまを壊した。
   親鸞の子供善鸞が恋をして、親鸞最期まで許されなかった。最期に「仏を信じるか?」の問に
   「分からない」と答え、「それでよい」と息絶えた。

 『ある僧の奇跡』 田山花袋
   荒れ果てた寺にやってきた若い僧が、当世の倦怠思想から脱却し、目覚め不思議な力に
   よって多くの信者を集めていく。

 『恩讐の彼方に』 菊池寛
   大分県耶馬渓の「青の洞門」。強盗殺人の罪を重ねた男が、出家し一人で岩盤をくりぬいて
   いく。やがて人を動かし、敵討ちの少年まで動かしていく。「観世音菩薩」の功徳。

 『杜子春』 芥川龍之介
   金も仕事もない青年が、仙人に課せられた試練にまけ、母に対する孝の念を思う。
   しかし、それによって本来の生きる意味を理解する。戒とはなにか。

 『海神丸』 野上弥生子
   嵐に漂流する4人の船乗り。やがて二手に別れ、飢えと疲労の中阿修羅となったひとりが
   人肉を食べようと、殺人を犯す。究極の犯罪真理。罪とはなにか。

 『ビルマの竪琴』 竹山道雄
   戦争末期、一人の兵が竪琴をうまくし、隊を救ったりしたが、多くの同胞の死に、やがて
   僧となり帰国を断念する。自己の幸福と他者の冥福を祈ること、愛とはなにか。

 『足摺岬』 田宮虎彦
   死に場所を求めやってきた足摺岬で、80過ぎの遍路や宿の人たちに身もこころも洗われ
   救われていく私。遍路の身の上話は、重すぎた。「同行二人」。生きるとはなにか。

 『ちゃん』 山本周五郎
   火鉢職人の重さん。生活苦からこころ荒れるが、家族に迷惑だからと家を出ようとする。
   すると子供たちが、みんな付いてこようとする。「みんなとうちゃんの子だもん。」

 以上13篇です。いままでにわたしがHPでご紹介した数篇の小説がありますが、
 おもしろい本をみつけましたので、一度お読みください。

■森鴎外『寒山拾得』 ■『愛染明王』中里介山

 日本の文学が、仏教的発想を抜きにして成り立つものでは、ありません。
 今一度、いろいろな本を読んで、日本の宗教観を見直すことが大事だと思います。

監修の立松和平も挙げているが、インド最古の詩集『ダンマパダ』(『法句経』)第138

七仏通戒の偈

「諸悪莫作」
        様々な悪い行いをしてはならない
「衆善奉行」
        多くの善い行いをしなさい
「自浄其意」
        心は自ずから清浄なものになっていく
「是諸仏教」
        これが諸々の仏の教えである

 これは『七仏通戒の偈』といわれるもので、一偈の中に仏教の要旨を簡潔に現しています。
 「七仏」とは、お釈迦様から過去へさかのぼった七代の仏を指しており、「久遠の昔(過去七代の仏さま)から連綿と受け継がれてきた」という深い意味があります。
 「通戒」というのは「略した戒(戒律)」ということで、例えば五戒(殺生をしない、盗みをしない、不倫をしない、偽りを語らない、酒に溺れない)十戒、二百五十戒など、戒律には細目が色々あるが、それらのすべてを言い含めたものです。

自ずから浄めていく命(ある僧侶の話)

「心は自ずから清浄なものになっていく」 私たちには、自ずから浄めていこうとする命がそもそも具わっているということです。
 例えば、自然界には自浄能力が秘められています。私たちが日常使用して流す汚水は、その大部分を自然界の「自ずから浄めていく命」が綺麗にしてくれているのです。水の中には、無数のバクテリアを始め数多くの生物種が存在し、微妙な生態系システムを築いてこの命を作り出しています。人間の作った浄化槽や下水道のシステムも、根本部分は自然界の自浄能力を利用しているに過ぎません。
 人の体には自然治癒力が具わっています。ちょっとした擦り傷や切り傷は、舐めていれば治ってしまします。病気や怪我を根本的に治すのは、私たちの体(精神も含めて)そのものであって、医者や薬はそれを補っているに過ぎません。「自ずから浄めていく命」、自然治癒力としかいいようのないものが病を治す。これは最先端を行く臨床医師の指摘するところです。
 「自ずから浄めていく命」は私たち自身にも秘められています。挫けても立ち直れる力。辛いこと苦しいことを受容する力。そして、真理に目覚めようとする力。すべては本来具わっている「自ずから浄めていく命」の現われです。周囲の人や環境によってある程度は助けられたとしても、最終的には、誰にも代わってもらうことの出来ない部分です。

 あたりまえのことをあたりまえにできる。あたりまえに流れて行く、日々の時間に充実を見出すことが、どんなに素晴らしいことかと思います。

「清き心になりぬれば 道體本源自清浄」

    清らかな心になりさえすれば、私たちの心は自ずから清浄であることに気付く

「この身このまま瑠璃光の 浄土に住める人ぞかし」

    この身はそのまま、瑠璃光の浄土の真っ只中にいる

 『薬師如来本願和讃』の中にも、全く同じことが説かれています。心が本当に自ずから浄められていくとき、何処で何をしていても、そこが薬師浄土の真っ只中です。日常あたりまえのところにあるもの。本当の安心は、そこを離れて何処にもありません。

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