チャクラについて     
                    隆蓮房さまの解説です

すごく大雑把ですが、まず簡潔に対応表を書きます。
勿論、厳密に対応しているわけではありませんが。

(インド)  (チベット)  (漢訳) 
プラーナ    ルン      風(「息」と訳される事も。でも「気」とは訳されない)
ナーディー   ツァ      脈管
チャクラ    コルロ     輪
ビンドゥ    ティクレ    心滴 ← 菩提心の象徴


多分、単純なミスだとは思いますが、チャクラは「プラーナのようなもの」ではありません。
むしろ「プラーナが集まる場所」ではないでしょうか?

気は、まあプラーナのようなもので、チベット語だと「ルン」と言います。

プラーナの流れる通り道がナーディー、チベット語だと「ツァ」です。
漢訳では「脈管」とされていますが、現代解剖学では「脈管」というと血管とリンパ管のことになってしまいますので注意です。

チャクラはチベット語で「コルロ」、漢訳では「輪」「脈輪」ですね。
(厳密に言うとsktの「チャクラ」だと「輪」だけなんですが、後期密教の生理学的な身体のチャクラ:コルロのことは「脈輪」と訳す事が多いです)
現代語訳では「神経叢」と訳されているものもありますが、解剖学用語にも「神経叢」というものもあり、同じ単語ですが全く別物ですから注意が必要です。
(でも、ごっちゃに解説されている本も見かけます。ナーディーと神経には某かの関連はあるのかもしれませんが、解剖学用語の「神経叢」は全く違うものです)
寧ろ、内分泌腺と関係が深いのではないかと言われています。


ずっと前に四部医典(ギュー・シ)のルン(読み授け)を受け、ダライ・ラマの主治医であったラマにも教えを受けました。
また、後期密教ではこれらの概念が欠かせないので、ティ(伝授)には必ず出てきますし、修行でも観想が必要になります。
一応、鍼灸師の免許を持っていますし、某旧帝大でアーユルヴェーダの勉強もさせていただきました。

しかし、純仏教的な概念と漢蔵印伝統医学的概念を統合したような本は見たことがありません。
ですので、理解した範囲内ですが、私なりに少々書いてみます。

ナーディーもしくはツァと呼ばれるものが、漢方の「経絡」かというと、どうも違うようなのです。
漢方はやっぱりアーユルヴェーダとは別物なんですよね。
インドは中華思想に組み込まれていませんから、当然といえば当然なのですが。
でもチベット医学は漢方とアーユルヴェーダをうまく折衷して、仏教というスパイスで濃い味付けがなされています。

さて、経絡は気の流れで、14の大きな流れと小さな流れが沢山あります。
これは西洋解剖学で物質的に存在が確認されているものではありません。
では、理論的な哲学的なもの(机上の空論)に過ぎないのかというと、日本人医学者が真面目に研究して経絡の存在を確認している書籍が出版されています。
日本ではあまり知られていないかもしれませんが、中国ではセンセーションを巻き起こしたそうです。

さて、ツァはチベット医学的にはもっと色々な概念が含まれています。
微細なエネルギー(風:ルン)の経路・血管・神経だけでなく、筋肉や腱のようなものもツァです。
このうち風の経路であるツァを特に「霊的脈管」と訳す事があり、これは全部で84000本あるそうです(一切経の数と同じですね)。
もっとも、ツァが運ぶものは、血液のような実在のものと、生理学的に実証されないもの(一部のルン)と、その両方を運ぶツァもあります。
たとえば、血を循環させるエネルギーはルンなので、すべての血管はルンの脈管を含んでいる、というような具合です。
それから、独特なものに、ティーパ(胆汁)のエネルギー脈管、ぺーケン(粘液)のエネルギー脈管というのもあります。
同様に、ルンの概念もとっても広く、風(霊的エネルギー)・息・活力・神経エネルギー・精神エネルギーなどもすべてルンという言葉で表現されます。
このような広い意味でのルンは「気」と近いような感じを受けます。

ちなみに、アーユルヴェーダでは、消化管や血管や尿路・リンパなどの経路はスロータスといい、直訳すると「管」になります。
なにがしかの物質を循環させる管というような意味合いで13種類あります。
一方、脈診するときの「脈」はナーディーと言いますので、ツァはナーディーとスロータスをも含む概念ですね。
アーユルヴェーダのナーディーは72000本あるといわれています。
密教の修行でイメージするツァに限っては、ナーディーにほぼ相当していると思われます(スロータスの部分も無視しているわけではありません)。
もし、インドに密教が残っていたら、アーユルヴェーダの説くナーディーは違ったものであったかもしれません。


とりあえず、ナーディーとツァのことをまとめて漢訳で「脈管」としますね。
このうち、重要な脈管は3本あります。
中央脈管とその左右に一本ずつです。
後期密教では、身体が宗教観念的なものと生理学的なものがごちゃまぜにイメージされています。
たとえば、中央脈管を通るのは精液です(そんなわけはないのですが、これは実際の精液というよりは、観念的な精液=菩提心ということではないでしょうか)。
左の脈管は大便だそうで、これは直腸が左側にあるからですね、きっと。

チャクラは中央脈管上に6つまたは7つあります。
エネルギーセンターのようなものです(上述の「神経叢」という表現は誤解を招くので避けますね)。
各センターは、色や形(場所によって弁が様々な数の蓮華の形)や種字や象徴がそれぞれ違います。
ヒンドゥー系のタントリズムの本などで見たことはありませんか?

西洋生理学的な説明を試みたものに、リードビーターの「チャクラ」という本がありまして、
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A9/dp/4892030236/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1214647635&sr=8-1
何とチャクラが見える人が画家に描かせたという不可思議なチャクラの絵が掲載されています。
ただし、この図では、チャクラは中央脈管上に整列してはいません。
この本には少々問題点もありますから、それを踏まえた上で参考にする分には面白い本だという程度です。
そもそも西洋医学的に全て説明できるわけが無いのです。
土台が全く違うのですから。

山崎泰広先生の「阿字観」という本にも少し対応表が乗っていたような気がします。

一方コルロは一般的には5つでして、五仏に対応しています。
チベットの医学は密教にダイレクトにつながっているので、密教徒としては学びやすく整理整頓されている感じを受けます。
後期密教では脈管の色形やコルロの形・種字などを明瞭にイメージして行う行が多いです。
経典にはコルロは○葉の蓮弁などというように、場所によって異なる花弁を持つ蓮華のイメージという事になっています。
でも、蓮弁というよりは、傘の骨のような感じで教えを受けましたので、私はそのように実践しています。
(骨の本数や傘の向きは、コルロによって異なります。)
経典によってはコルロが6つになっているものもあり、これは曼荼羅の仏が五部から六族に変化して追加されたのかな〜と単純に思っておりますが、後で調べておきます。


余談になりますが、チベット式の五体投地礼するときなども、通常は上半身に3箇所のチャクラをイメージしますが、
一箇所増やして4箇所にイメージする事もあります。

そういえば、日本の真言密教の五処加持も、すご〜く特殊な行法では、一箇所場所をチェンジします。
ですから、身体の重要な場所は実際には6つあるのかもしれないと思っています。
でも、日本は5という数字にこだわるので、チェンジせずに一箇所増やして六処加持にするということをしないのかもしれません。
六大という観念はとても重要ですが、五大ほどには普及していない(?)ような気がしませんか。← 実に勝手な憶測です。

ニューエイジ系のサイケデリックなアーティストの「聖なる鏡」という画集に、脈管とコルロと経絡と経穴(ツボ)が描かれた絵があります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BA%E2%80%95%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E9%8F%A1-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC/dp/4309901174
(ちなみに、経穴はアーユルヴェーダでは「マルマ」です。断末魔の「末魔」の語源です)
インド・チベットと中国の似て非なるエネルギー的な身体を一つの人体で表そうとしている、ユニークな絵です。
しかし、いくつかの絵は、経絡の流注が明らかに間違っていますので、ご注意ください。
(多分、あとで誰かに指摘されて直したのでは? 新しい作品では直っていますから)


すごく大雑把ですが、簡潔に対応表を書きます。
勿論、厳密に対応しているわけではありませんが。

(インド)  (チベット)  (漢訳) 
プラーナ    ルン      風(「息」と訳される事も。でも「気」とは訳されない)
ナーディー   ツァ      脈管
チャクラ    コルロ     輪
ビンドゥ    ティクレ    心滴 ← 菩提心の象徴

仙道にも似たようなもの(気が集まる場所)がありますね。
修行法もちょっと似ています。
でも左右脈管のようなものはありません。

最後になりますが、「身体の中心部」というのは上述の中央脈管のことをイメージされているのだと思いますが、
サンスクリット文学で「身体の中心」というと「おヘソ」のことになります。
サリーから覗くくびれの中央に存在するということでしょうかねえ?
女性のプロポーションの美しさを称えて「美しい体の中心を持つ者」などというように形容されます。