チベット仏教

 チベット仏教は、インド仏教をその最終段階に至るまで学んだ後継者であり、密教に限っても、「無上瑜伽の修法」を忠実に継承しているといわれる。チベットの仏教者たちは、密教を仏教実践の根幹とし、密教と一般大乗及び律との総合的な把握に努力を払ってきた。また、民族宗教であるボン教的な色彩も含め持っている。

 チベット仏教は、6-7世紀のソンツェンガンボ王の時代から始まる。チベット初の統一国家として、ネパールと唐から王妃を迎え、641年ラモチェ寺を建てたが、まだ自国の僧侶がいない時代であった。

 8世紀後半チデツクツェン王の時代に入り、『金光明経』の招来など初期チベット仏教に大きな影響を及ぼした。除災・護国・正法治国の思想として、呪術的な機能が護国思想と共通したのである。しかし、チベット土着の神々との抗争が起こり仏教の定着にはまだ時間が必要であった。そこで王は、インドの僧シャーンタラクシタを招聘したが、彼は当時のチベット王室仏教の路線として、十善をはじめとする顕教の法を説いたが、それもボン教の反対で退散せざるをえなかった。また、当時は崇仏、排仏と貴族の抗争も激しく、次のティソン・デツェン王は、北インドからパドマサンバヴァを呼ぶ。密教の大家として、彼の密教の呪力により、土着の信仰(ボン教)の神々を調伏し、支配下に置くことで結合し下層階級に信仰され、やがてニンマ派を形成する。王は、仏教の国教化、僧侶の養成を目指し、779年に僧院(サムイェー寺)を建立し、盛大な法要と興仏誓約の石碑を立て、「試みの六人」(初の僧団)を出家させた。下層階級の密教の呪術やボン教に対抗して、貴族仏教を擁護し、中央集権的な政治体制の確立を目指した。さらに仏教が盛んになっていき、経典がチベット語に翻訳され、自分たちの言葉で仏教を学んでいく。息災法・増益法は貴族的封建体制維持に利用したが、降伏法・呪詛法は制限され、当時インドで興隆した無上瑜伽タントラ等は、制限・禁止された。
また、792-794年には、カマラシーラ(インドの僧)と摩訶衍が対論しカマラシーラが勝って、中国(唐)からの仏教よりも、インド仏教が主流になっていく。しかし、次のチデソンツェン王の時代には、経論目録「デンカルマ」が編纂され、「大日経」等の密教経典やダラニなどが編纂されるが、瑜伽部に属する経典はほとんど入っていない。

 815年チツクデツェン王(レパチェン)の時代に、唐との争いがおこり、841年レパチェンが暗殺され、ランダルマ王になり、仏教教団への支援は全面停止されて、以後100年以上にわたり仏教不毛の時代がある(ランダルマの破仏)。

しかし、下層階級の間では、脈々と呪術的な密教は生きていた。初期のチベット仏教は、文字どおりその時代の王が主体者であり、貴族の抗争も含めて、「王室仏教」の時代といえるであろう。

 9-10世紀前半には、中央チベットでは仏教がすたれたが、東北チベットや高地の西チベットでは、仏教が生き残っていた。10世紀終わりには、10人の若者が東北チベットで「戒」を受けてくる。西チベットのガリ三国の王イシェーウー王が、24(21)人の若者をインドに派遣して、瑜伽タントラの根本経典『金剛頂経』や、『秘密集会タントラ』を学ばせようとした。しかし、2人しか帰ってこなかった。その中の一人が、リンチェンサンポである。10世紀後半リンチェンサンポは、大翻訳官であり、多くの寺院や仏塔を建てた。また、1042年、インドからの僧アティーシャを招聘。後伝期のチベット仏教は、現世利益を求める民衆との結合とインド仏教の趨勢である「無上瑜伽タントラ」を中心に、チベットの氏族集団の支援を受けて、教団の基礎を確立していった。11世紀、多くの宗派が形成されたが、いずれも初期には密教を基本的な立場にしていたが、密教・顕教・戒律の融合連携に苦悩し、やがて顕教化・戒律化していく。

13世紀、モンゴルがチベット全土に支配権を及ぼし、クン氏出身のサキャ・パンディタ、甥のサパンによって、教団全盛期を迎える。14世紀初頭、学匠プトンがあらわれ、「プトンの仏教史」やチベット大蔵経を編纂する。14世紀中葉、モンゴルが衰退し、中国明朝とともにカーギュ派が、勢力圏を拡大、その後ツォンカパのゲルック派が栄えた。厳格な戒律主義・独身主義を宗風にしている。三乗併存の意義づけは、彼の成果である。一方、サキャ派系のカルマ派が対立し抗争をひろげる、17世紀前半ゲルック派が政教両権を手中に納める。

 ゲルック派のダライラマ五世は、観音菩薩の化身として、ポタラ宮に君臨し、その後300年間「ダライラマ政権」が続き、現在のダライラマ14世まで続いている。

中国(清)の皇帝は、チベット仏教の信者であり、北京紫禁城の中には、チベット仏教の仏堂が多くあった。1911年、辛亥革命で、清朝が滅び、1949年には中国の内戦で、中華人民共和国ができた。その支配下で、1959年チベットで反乱がおこり、チベット亡命政府(ダライラマ14世)はインドに亡命。インドのネルーは、ダライラマにダラムサラという土地を与え、チベット難民とともに、わずかにチベット仏教を守っている。本国のチベットは、1965年西蔵(チベット)自治区として、社会主義的改革が進んでいる。


※参考資料
 『密教史概説の手引き』高野山大学
 『密教の歴史』松長有慶 平楽寺書店
 『密教』松長有慶 岩波新書
  2013年度大学開講講座「密教史(前期)」奥山直司先生の講義
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