大 黒 天 (C)2004 RayLand

                  おん まかきゃらや そわか

 大黒天という名称のもとになったインドの神は、ヒンドゥー教起源の神であり、梵語で摩訶迦羅(マハーカーラ)
と呼ばれます。帝釈天・毘沙門天(多聞天)などと同様に仏教の天部に所属する神で、忿怒神・戦闘神・夜叉神でした。
マハー(大いなる)カーラ(黒い)で、漢訳して大黒天または大黒神という。
それが仏教に採りいれられ、悪鬼と戦う勇猛な護法の軍神となりました。

 大黒天は庶民に親しまれている一般的な姿としては、狩衣姿に、円形の低いくくり頭巾(いわゆる大黒頭巾)を
かぶり、肩に大きな金嚢(袋)をかけ、右手には打ち出の小槌を持ち、2つの米俵の上に乗って、福徳円満の顔を
している。時には、使わしめとして白鼠(大黒鼠)を配することもありますが、これは大黒様が豊饒の神ということで
米を食べる鼠を管理している事を表しているそうです。また鼠は多産なところから、豊饒の神にそえられたという
説や、大黒はその名の通り、黒い色ですので、陰行五行説から、黒は五行では北、よって子の方角から鼠が使
わしめとして登場することになったという説もあるようです。

 大黒天に関する記述は『大孔雀明王経』や『仁王経』、『大日経疏』などに見られます。
それによればこの神は不老不死の秘薬を持っており、自分の血肉を与えると、それに応じてその秘薬を
分け与えてくれるという神でした。しかしその神に対峙した時に、恐れたりあるいはだまそうとしたりすれば、
たちどころにその者の生命を奪ってしまう真に恐怖の神でした。

 『大日経疏』第10、荼吉尼(だきに)の真言によれば、仏陀が荼吉尼を除こうと大黒天をつくり、その調伏を命じた。
大黒天は、 荼吉尼天を呼んで叱り、「お前は人を食う。だから自分もお前を食ってやる」と言い、荼吉尼を飲み込ん
でしまった。荼吉尼は恐れ入って、すぐさま降伏した。以来、 荼吉尼天は人は勿論もこと、一切の肉を口にしなかっ
たとあります。荼吉尼天を降伏させるほどの忿怒神でありました。

同時に、『大孔雀明王経』の中では「大黒天は戦闘の神」と説かれています。


[お姿]

 お姿は、色は蒼黒い凶悪な形相で、1面3目2臂(「臂」は腕のこと)、1面3目4臂、1面3目8臂、三面6臂
など色々あるようです。また姿勢なども、座像や立像、剣を持つもの持たないもの、金嚢(金の袋)を肩にした
立像、金嚢を左手に持つ半跏(はんか)の像など色々あります。

 三面大黒天像の場合、右は毘沙門天(宝冠刑)、左は弁才天(宝冠形)、正面の大黒(烏帽子形)で、
それらを一体の像にまとめ、左前手に宝珠、右前手に剣、左第2手に鑰(やく)(笛)、右第2手に棒、左第3手に鎌、
右第3手に三叉戟を持ち、俵2俵の上に立つものもあるようです。

日本に伝えられてからの大黒天に見られる仏教の神の名残としては、打手の小槌は古い時代の像では
宝棒になっている事です。現在でもこの小槌には如意宝珠の模様が描かれております。


[信仰]

この神を日本に伝えたのは伝教大師最澄とも弘法大師空海ともいわれます。
すでに平安朝の初期から天台・真言の両宗では守護神として祀られており、例えば天台系の諸寺院では、
庫裏に神王の形で嚢を持つ像を安置する風が生じてきました。

 また日本に渡来してから、寺院専属の厨房の神から出て広く一般民家でも信仰されるようになり、
その性格も食物や財宝ばかりでなく、五穀豊穣及び招福開運のめでたい神として、特に農家や商家で喜ばれ、
恵比寿とともに、恵比寿大黒と併称されて親しまれました。

 その他に、大黒天の信仰を民間に流布した人々としては、陰陽師の流れを汲み、大黒舞を行いながら
全国各地を巡り歩いた出雲大社の下級神人と称した人達や、京都悲田院の4ヶ寺に所属する垣戸(かいと)
(下級神人)が、大黒天の姿を模して面を被り、頭巾をつけて、正月に門口を訪れ、祝詞(のりと)を述べ、
米や銭を乞い、お札を配って全国各地を巡りあるいたことも大きくその普及に寄与したといわれます。

 このように大黒天は、七福神の代表格として、恵比寿神とともに、広く民衆から信仰されてきました。


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