恵比寿


 恵比寿は、海の幸をもたらす「寄り神」として漁民の信仰を集め、狩衣に風折烏帽子を冠り、
右肩に釣竿、左小脇に鯛を抱えて座した姿で描かれ、漁業、商売繁盛、交易の神様と言われ、
その顔は、エビス顔と言われるような笑顔を湛えた尊顔である。

大黒天とともに、恵比寿大黒と併称され、福神の代表格であります。
夷三郎大明神という言葉もありますが、これも恵比寿の事である。

 一般的には、恵比寿は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の第3子・蛭子尊(ひるこのみこと)が
「えびす様」になったと言われています。母親は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)といわれている。

蛭子尊は、今で言う身体障害者だったらしく、3歳まで足が立たなかったらしく、
そのため伊弉諾尊と伊弉冉尊が相談し、天磐樟船(あめのいわくすふね)という
葦の舟に載せて放棄してしまいましたが、摂津国西宮の浦に漂着し、そこで祀
られて、恵比寿神となったというのです。

学者の間では、恵比寿様も純粋な日本の神様ではなく、来訪神、漂着神ではないかと考える人もいるようです。

 そもそも恵比寿そのものが、異邦人を意味することばなのです。夷は、解字するとわかりますが、
大(両手両足をひろげた人の意味)と弓からなります。つまり弓を射るため足を広げて踏ん張り、
手を大きく広げて弓を引き絞っている人間の形を表しています。

古代中国東方の弓を引く異民族をさした言葉でした。また戎も、戈(ほこ)と鎧(十は、亀の甲の異形で鎧)の
意味で、古代中国西方の異民族をさしました。

和語で、異民族をさす、エビスという言葉を、戎や夷とい字が入ってきた際、その漢字として充当したのです。


[信仰]

 この神は今では商店主・農民の間に広く信奉されていますが、本源はやはり漁民の神であったと言えます。
日本では、古くから、異郷から訪れて豊漁をもたらすものを、神として信仰する風習がありました。
地方によっては、鮫や鯨、イルカなどのことをエビスと言っています。これはそれらの鮫・鯨・海豚などに追われて
魚群が海辺近くに現れることから、霊力ある神として考えられていたからです。

 こうして見てくると、恵比寿は豊漁をもたらす神霊として信仰されていたということが根本にあったことが
わかります。漁の大半が海であることから、航海の守護神としての信仰も中世には起こってきます。

また市場の守護神として祀る風習も、後に起こってきます。乾元元年(1302)、奈良の南の市を開く時、
恵比寿神社を祀ったという記録があります。建長5年(1254)、鎌倉の鶴が丘八幡宮に、やはり市の神
として恵比寿神を、奉祀したという記録もあります。

 市神としての恵比寿神だが、市の発展や商業の復活にともなって、次第に商業の神としての信仰が生まれ、
福の神となって商人の信仰を集めるようになったようです。そして、この恵比寿信仰が布教していく力となった
ものとして「戎舞わし(えびすまわし)」(戎廻し)という夷神社の神事芸能がある。

 また、出雲神社には、「大黒舞」という神事芸能もあります。この方は、人間が大黒天に扮装して舞うもの
ですが、戎舞わしの方は、人形を使い豊漁を祝う行事で、後世の人形浄瑠璃の原形となっています。
その点で、大黒舞と戎舞わしは対照的でもあります。戎舞わしは、のちに江戸周辺のものたちは、
神事舞太夫の田村八太夫の配下に属し、それに対して西国のものは西宮の夷社の支配を受けました。

また「偶人舞(でくまい)」の芸能を携えて漂泊していた傀儡子(歌に合わせて人形を操ることを職業とした者)
についても、海人部(あまべ)の民であったことから、戎舞わしと一脈相通ずるものがあると考えられている。

 さらに、恵比寿社は、漁民・商人のみの神だけでなく、農民の神としても厚く信仰されてきた。
農家では、恵比寿神を、家の福を増す神、または台所を守る神とする信仰もあったようです。


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