現代人と四国遍路 

 四国遍路は、時期的には、鎌倉・室町時代になって、実践的な信仰行為と放浪・浮浪などさまざまなことが、考えられる。末世思想や仏教の庶民への浸透から見てもこのころから、いろいろな僧の諸国行脚や浄土宗や真宗、念仏宗などが庶民への仏教信仰へ、多大な貢献をしたであろうことが想像できる。また、もともと日本文化にある放浪の価値は、西行のそれ、芭蕉など文学的にも受け入れられる要素が充分にあったものと考えられる。道教や陰陽道、儒教などと日本神道が融合し、独自の仏教文化が育ってきた。そうして、江戸期には四国へんろや熊野詣でが、平安貴族の信仰とは別の形で市民権を得てくる。伊勢参りやおかげ参り、日光や善光寺参りは、江戸幕府も容認していた信仰形態であった。
当時も今も、お四国は、脱現実・脱現状を模擬的に作り出す、一つの手段であり、場所であるということが言える。四国遍路に出かける現代人を、①場所、②動機、③文化の源流の三点から考察する。


まずは、①場所。まことに、遍路に出て、息も上がるきつい坂道を歩いていると、思考力も注意力もなくなり、聞こえるのは、自分の息と鼓動だけ。山の中で休憩すれば、風と鳥の鳴き声のみ。自分の衣擦れの音さえも敏感に感じることができる。その時、時代を生きている時間の観念もないし、決まった時間の食事も意識しない。気遣う人間関係も、そこには存在しない。自分の置かれている状況からは、社会生活の意識が薄らいでいく。ましてや、長期の遍路にでれば、まさに世間から離脱状況にあるといえる。そこで、「欲」が消え、今の生きている自分を感じ、「諦念」が芽生えていくのではないだろうか。


 ②動機について。いまでも、遍路同士であっても、よほどでないとその動機は語らないし、まして相手の信仰や信条を聞くことはまずない。それが、遍路の気遣いであり、マナーである。もちろん、今でも多くの人々が四国遍路を体験し、また望み、夢見ている。年齢的にもすべての世代であると言えよう。私が実際に耳にしたのは、「歩きの遍路とは、なんと贅沢なものよ。金があり、暇があり、体力があるものしか、できないものだ。」という。いくら信仰心が深くとも、いくら深い思いがあろうとも、条件が揃わないと不可能なものである。上記の批判の言葉の中に重要なポイントがある。ア、金銭的余裕、イ、時間的余裕、ウ、肉体的余裕。
 ア、金銭的余裕…以前はともかく、現在では完全に自炊野宿はかなり難しい。すると宿に宿泊し、食事も必要。遍路期間を総合すると、かなりの高額の費用が必要である。
 イ、時間的余裕…現代社会で生活をしていると、一定の期間をその社会生活から離れるのは、容易ではない。学生の長期休業期間であったり、労働者なら定年退職後でないと、長い期間の社会離脱はできない。日常の家庭生活の中では、不可能と言える。
 ウ、肉体的余裕…以前、ある札所のベンチでいる老人から次のような話を聞いた。「今日は息子が休みで、久しぶりにその車でお参りができた。歩くこともままならず、また息子のねだるのも気遣う。」というものだった。遍路は、歩くことに大きな価値を持っているが、外出もままならない状況では、遍路を、ただただ夢見ているだけである。
故に、上記の条件が揃うものが、遍路に出ることになる。


 ③次に、寺社への参拝は、日本文化の根底にある仏教思想であったり、山岳信仰や苦行による精神的解放の欲求など、信仰というものでなくとも、幼い頃から経験のある初詣。近くのお寺への散歩。そうして、観光としてのお寺参り。ドライブの目的地選びとしての巡礼。写真や風景としての寺院。歴史や美術からの興味。さらにハードルが下がって、回遊型の巡礼道であるからこそ、スタンプラリーや、ドライブの目的地として、お四国は今や存在するのではないか。やがて、歩き遍路として、現実からの一時的な逃避を希望する行動であったり、自分への体力や精神力への挑戦があるのであろう。
 勿論、昔からの信仰として、「一人前」への課題としての「四国遍路」や補陀落への浄土信仰としての四国。また、親族や友人の菩提を弔う巡礼、病気の平癒。それらが、今もなお脈々と続いていることは、言うに及ばない。


参考文献
 『遍路学』         加賀美智子他 高野山大学
 『四国遍路の宗教学的研究』 星野英紀  法蔵館
 『へんろ功徳記と巡拝習俗』 浅井證善  朱鷺書房