言語哲学としての仏教

 『入門哲学としての仏教』第二章 言語について――その解体と創造


 ・仏教は、言語哲学である。仏教は、人間が生きることの真実と言葉との関係を、集中的に掘り下
げている。

・仏教は、文字・単語・文章の三つの地平でとらえている。

 ・仏教では、言葉を音そのものと見ない。音を離れないが音そのものでない何ものか見る。「心不相
応法」(ものでも心でもない)とする。

 ・仏教では、名前どおりに世界があるのではなく、ある全体世界をその国語の名前の体系のように
受け止めているのみにすぎない。

 ・目に見えない存在が、実際に存在している(形而上学的実体)と、認められるか。

 ・大乗仏教では、一般者という実体的存在は否定する。(一切法の空)名前があるだけで、その表示
する概念は実在しない。

 ・ディグナーガは、「名前(単語)は「他の否定」を表すにすぎない」と主張する。すべての名前を
表すものは、実存的存在ではない。諸法の無自性=空。

 ・言語を立てる世界とは、我々に実際に感覚・知覚されて世界にすぎない。外界の存在そのものと
いうより、自分の五感に現じた感覚の諸現象そのものに対して言葉を立てている

 ・物の名前は、恣意的(しいてき)なものなので、決して確かなものといえない。

 ・五感は、五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)であり、その対象(色声香味触)はその識内に
ある。識内の対象を相分(そうぶん)。感覚する側を見分(けんぶん)。あらゆる識(意識など)
の直接の対象はその識内に現じている。唯識=事的世界観

・識とは、単なる心でも主観でもない。見えていること、聞こえていること、その事そのもの。
 ・唯識では、本来、事の世界、現象世界の流れの上に、言葉の不思議な力のもとに、物(実体)を
認めてしまう。これが、我々の現実だとみる。

 ・言葉が世界を作り上げる。
  第8識―意識下の阿羅耶(あらや)識=5識の刹那滅の連続的生起
  意識が五感に対して言葉を適用すると、その経験が意識下の阿羅耶(あらや)識に保存され、
の後、その意識の言葉による分節に見合うあり方で諸感覚が生起してくる
=一種の構造化された世界を形成する。

・「私は(~を)見る」は成り立たない。一般的には、基体と作用をあらかじめわけておいて、し
かもつなぐ。「私」が、「見る」作用をする。基体としての、変わらない、常住不変の私(=我=
アートマン)と考えるが、そんなものはない。

  ・運動はありうるか、それは、時間の問題ともいえる。現在を極限まで微分して、今しかないと
見れば、そこに運動はない。運動がなければ作用もない。本来時間的な世界を、空間的にとらえ
るのは矛盾している。運動は、我々の心の中に成立するにすぎない。

  ・言語というものの真実は、主語を立てて述語する文章、すなはち基体を想定し、作用を別立て
し、時間を空間化している世界の外にある。しかし、龍樹は『中論』で「寂静なる戯論寂滅の縁
起」といい、真実は、基体のような実体がない世界であるから、実体を想定した言語は解体され
る。言語が解体されつくしたところに、究極の真実がある(第一義諦=勝義諦)とした。

・しかし、寂静なる戯論寂滅の縁の究極の真理をかたる言語がありうるとも仏教は言う。

①「語れないということを語る」言語。
 唯識・・無分別智(対象的認識を超えた、直覚的な覚りの智慧)で真如を証する。=離言真如

②禅・・問答の高次元な展開や詩的言語の応用。=不立文字・教外別伝。絶学無為の妙処を表
現する言葉が、あたかも詩的表現において誕生する。その言葉は、いのちの真実そのものを語
っている言葉となる。

③「阿」――密教の言語宇宙。顕教は、方便の教えであり、言葉はわかりやすいが、密教は、
真実そのままに説いたもので、究極の真理を語る言語(真言)。言語世界の特性は、じつは存在
そのものの特性であり、自己のいのちの特性そのものでもある語。すべての存在が、一義的に
決定されていない。一義的に縛られていない。言葉をはずして見れば、そこが見えてくる。一
義的ではなく、多重性を見れば、そこが見えてくる。


 初期仏教  唯名論的・・実在論の否定。ブラフマン(絶対的存在=宇宙、神)とアートマン
         (自己存在)
 アビダルマ 実在論・・法(ダルマ)は、実体であり、三世において存在する。
 中観    唯名論・・ことばの対象は流動的である。言語的多元性は空によって寂滅となる。
 唯識    唯名論・・「刹那滅の「心相続」を否定。すべて相対的な差異の現れ。絶対的なものは
              はない。
 瑜伽行派  唯名論・・心のうちに発生する言語によって構成される観念(意言)がこの世界を構
               想する。
 大乗経典  唯名論・・空、無。一切法の空。
 真言密教  実在論と唯名論のはざま・・絶対的法身「大日」は実在。大日との一体化。
         真言は、有意味か、無意味か?
 禅宗    唯名論、実在論・・その言葉は、いのちの真実そのものを語る。
 浄土宗   実在論・・阿弥世界。浄土の存在。

私見
 今までの授業で、仏教を西洋哲学の観点である「実在論」と「唯名論」という見方で見てきたが、神(仏)と人間存在の関係性がその基本にあった。その意味では、仏教という宗教体系もそこにある。しかし、絶対的存在である神(ブラフマン)にいかに人間(アートマン)が、一体化していくかと、退治する概念として、人間存在を「空」「無」にすることによって、限りなく「仏(ブッダ)」に近づくかという大乗、中観の思想は、一概に唯名論的とは言い切れず、「仏」の存在が「実像」あるいは「観念像」と区別しうるものではないのではないか。特に「法身像」としての「大日如来」という見解は、「無・空」が、「実在」するという理念的矛盾のなかにあるように思える。
 要するに、「仏教」という宗教を、西洋哲学の物差しではかることに無理があるのではないだろうか。


※唯識「三性説(さんしょうせつ)」・・・存在の在り方を三つに分ける
 ・遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)さまざまな分別によって実体視されたもののこと。
 ・依他起性(えたきしょう)現象世界そのもの。他に依って起きてくる縁起の世界そのもの。
 ・円成実性(えんじょうじっしょう)現象世界は実体的存在ではない。

※唯識(ゆいしき)
前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、五蘊の世界は、無分別。現在の対象にのみ作用する。
五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用であるが、これが成所作智(じょうそさち)(不空成就如来の智恵)成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。(不空成就如来)
第6識(意識)、
ありとあらゆるものを認識できる。有分別。言語を扱う。五蘊の流れの世界(事的世界)に言葉を適用して、ものを認識する。身心(しんじん)という現象の流れのうえに、我を認めてしまう実体存在があると思うから、執着し、苦しみにあえぐ。=無明のなせるわざ。
その感覚的情報に基づいて行動や判断する意識であるがこれが妙観察智(みょうかんざっち)(阿弥陀如来の智恵)妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。(阿弥陀如来)
第7識(末那まな識)
第6識の意識下にある無意識で、自我を形成するが、これが平等性智(びょうどうしょうち)(宝生如来の智恵)平等性智は、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性をもつ事を覚る智恵である。(宝生如来)
第8識(阿羅耶(あらや)識)に分け、
全く意識されない潜在意識で、生死輪廻する業(活動)の主体であるが、これが大円鏡智(だいえんきょうち)(阿しゅく如来の智恵)大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。(阿しゅく如来)

※密教ではさらに第9識(阿摩羅(あまら)識)を加える。 
さらにその奧に本来的に清浄無垢な自性清浄心と呼ばれる第9識が潜み、これが法界体性智(ほうかいたいしょうち)(大日如来の智恵)法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。(大日如来)
これらの9識は、金剛頂経の説く瞑想法(五相成身観(ごそうじょうじんかん))によって各々五智に転じる。(転識得智(てんじきとくち))これら五智が五仏によって象徴され、金剛界曼荼羅の核
  『各具五智無際智 円鏡力故実覚知』即身成仏義

 

アビダルマ論書の代表作「アビダルマ・コーシャ」(「阿毘達摩倶舎論(あびだつまくしゃろん)」(倶舎論)。ヴァスバンドゥ(世親・せしん)

[部派仏教の時代]
・この世界の成り立ちはどうなっているのか?
・物質の極小の単位は何か?
・物と心の関係はどうなっているのか?
・認識をする主体や意識の流れはどうなってるのか?
・原因と結果には因果関係がホントにあるの?
・時間の最小単位はどこか?
と言った具合に、世界と自分の関わりについて考察を法(ダルマ)を以て説明を深めていく傾向が顕著になってきます。

(1)五位七十五法(ごいしちじゅうごほう)
法(ダルマ)=存在するものを・有為(うい)…煩悩によって汚れたモノ
                   ・無為(むい)…煩悩の汚れが無いモノ
             の二点に大別してから有為に四位を配当する
   有為の四位
         1・色…物質的現象=十一種類
          (しき)
                眼・耳・鼻・舌・身=五つの感覚器官
                色・声・香・味・触=五つの対象
                無表色(業)=表象的には表れないモノ
         2・心…心の本体=一種類= 心そのもの
          (しん)
         3・心所…さまざまな心作用=四十六種類
          (しんじょ)
               善の動き、悪の動き、どちらでもない心の動き、
               根本的な煩悩、付随する煩悩、常駐する心の動き
               特殊な対象に反応する動きなど心にともなう行い
         4・心不相応行…心でも物資でもないもの=十四種類
           (しんふそうおうぎょう)=特に心と相伴わない行い
   無為の一位
         5・無為…煩悩の汚れが無いモノ=三種類
          (むい)=空間や涅槃の境地など
   五位の下に、それぞれの作用や対象を七十五種類配して全存在の説明を行う
   




(2)六因・四縁・五果(ろくいん・しえん・ごか)
   原因の種類を分類したものが六因
              能作・倶有・相応・同類・遍行・意熟
              のうさ・くう・そうおう・どうるい・へんぎょう・いじゅく
  原因に対しての条件のあり方が四縁
             増上縁・等無間縁・所縁縁・因縁
             ぞうじょうえん・とうむけんねん・しょえんねん・いんねん
  結果の現れ方が五果
            増上果・士用果・等流果・異熟果・離繁果
            ぞうじょうか・じゆうか・とうるか・いじゅくか・りけか
  因果の関係を上記の組み合わせで分類する
             直接的な関係、間接的な関係、連続する関係
             積極的な関係、消極的な関係、反発する関係
             どちらでもないが特に邪魔もしない関係、
             直ぐに表れるのか、時間を置いて表れるかなど
(3)三界・五趣・四生(さんがい・ごしゅ・ししょう)
    仏教の世界観と生物の生まれ方の違いなどに関する説明、またその種類など
            見道・修道・無学道(けんどう・しゅどう・むがくどう)
            四向・四果(しこう・しか) 

(4)器世間・有情(きせけん・うじょう)
(5)表業・無表業(ひょうごう・むひょうごう)
(6)十善・十不善業(じゅうぜん・じゅうふぜんごう)
(7)九十八随眠(きゅうじゅうはちずいめん)
   人間の根本的な煩悩を六つに分類しそこから九十八種類に展開
(8)見道・修道・無学道(けんどう・しゅどう・むがくどう)
(9)四向・四果(しこう・しか)
(10)三世実有法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)

存在の基盤であり一貫性をもった全ての要素である法(ダルマ)は実体であり過去・現在・未来の三世に於いて存在する。つまり、ダルマという法則は永遠に存在するモノでその枠の中で全てが行われていると考え、原因と条件に依って生じる個々の事象は無常だがそれらの事象を成立させる構成要素ダルマという枠組みは有るとしました。
究極的には一切が有ると言い、外部対象は真実として成立すると認めると言った具合に、更に細かくなり説一切有部が誕生。


[心相続(しんそうぞく)]
輪廻思想に対しては、刹那滅(せつなめつ)による心相続(しんそうぞく)と言う理論を編み出しました。刹那とはサンスクリットのクシャナを漢訳したもので時間の最小単位、時間の原子と言った意味ですが
『曰く、我々の心と言うモノは原因に依って生じてから一刹那で生滅する瞬間のモノだがもちろんそれで終わりでは無くその直後に前の心とは、ほんの少し違うがほとんど同じ心が生じ、また生滅してまた生まれると言った繰り返しをしている行為を行ったコトによって作られる業は一刹那から次の一刹那に引き継がれる』
つまり不変の個人ではなく刻々と変化しながら相続を繰り返していく心の連続体、非連続の連続こそが心相続であり輪廻を繰り返す主体であるとして永遠不変の魂や真の自我といったモノは無いとしました
しかし、有部の見解では刹那ごとに生ずる心の方向性を定める根拠を想定しなかったのでこの世の中の要素や原理までもが刹那滅で変化していくモノだと世界は自己同一性や一貫性を欠いたモノになってしまいます
その為に、三世実有法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)を提唱したので、仏教の根本であるところの諸行無常・諸法無我と矛盾するものとなりました。
これに関して倶舎論を書いたヴァスバンドゥは、経量部の見解である相続転変差別(そうぞくてんぺんしゃべつ)と言う理論がでてきました。
『曰く、心は刹那滅であっても行為の影響は、潜在的に種子(しゅうじ)として残留する心の中に、この種子が植え付けられるコトを薫習(くんじゅう)と言う。』
すなわち次の瞬間に生ずる心を決定づけるのは、前の心によって植え付けられた種子によって決定される。種子が変化発現することで次の心を生じる(現成・げんじょう)薫習→種子→転変→現成
種をまき、種が変化し、実を生じ、また種をまく種子の影響は繰り返しをしながらも永遠不変なモノでは無いので諸行無常には抵触しないとして、経量部の見解で有部の穴を埋めました

要約すれば、我々の身体や心などは一瞬一瞬に変化をしながらも全く異質なモノにならないのは種子と言う行為の残影が心に植え付けられる事により自己同一性を保持しているからで瞬間的には非連続的なモノでありながら種子の力によって方向付けられ連続している。しかし永遠不変ではない。
つまり、非連続の連続を方向付けるのは業(ごう)…行為の潜在力・残影であり、永遠に存在するような法(ダルマ)では無いそれは種子という形で引き継がれていく。
単体としては瞬間のモノが連属する事によってあたかも、そこに実体があるかの様に見える。
しかし本質は、瞬間の集まりが一定の性質や条件に従って寄り集まっているだけである。
連続に見えても永遠ではないから、諸行無常であると考えます。