井伏鱒二「黒い雨」。原爆投下時の手記です。そこで、男は住職でもないのに、累々たる死体一体ずつに、
この「白骨の御文章」をあげるのです。

今から30年も前、少年時代に出会った本。幾たびか葬儀の席で僧侶がよむこの「御文章」を
耳にします。「無常」の象徴として語られる「辞」でしょうか。


白骨の御文章  蓮如上人

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、凡(およ)そはかなきものは、この世の

始中終(しちゅうしゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。されば未(いま)だ万歳(まんざい)の

人身を受けたという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形態を保つべきや。

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくえ先立つ人は、木の雫・末の露よりも繁

しといへり。されば、朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。既に無常の風来たりぬ

れば、即ち二の眼(まなこ)たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李

(とうり)の装(よそおい)を失ひぬるときは、六親・眷属(けんぞく)集まりて嘆き悲しめども、更に

その甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬ

れば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふも中々おろかなり。されば、人間のなかなき事は

老少不常(ふじょう)のさかひなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、

阿弥陀仏を深くたのみまゐれせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

意訳
人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというまに迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。現在でも百年を生きることは難しい。自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。

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