遍路十話 U

  「遍路十話」からもう3年です。今度の十話は、私の「発心」の彷徨の軌跡。 いまだに、迷い道ですね。

     77番道隆寺 衛門三郎懺悔の像

1話 禁煙

     実は、平成19年8月2日(木)禁煙しました。

 当日は、お四国3回目の満願の日、朝から台風が四国に近づいていて、不安な朝でした。数日前から、この遍路(満願の旅)で禁煙しようと思っていました。ですから、少しずつ減らしていました。もともと、遍路に出ますと、歩いているときには吸いません。休憩のときに、一服することがありました。

 今の世の中、タバコが吸える場所も状況もほとんどなくなってきています。毎年の人間ドックの結果もよくない。18年度には、大腸ポリプの摘出。大きくて癌化していたもので、定期的に検査を繰り返していました。幸い一年後の検査で、完全に転移がないということです。

 前山へんろ交流館までは、雨もまだでしたが、道の駅でパンをいただいていたら、雨がパラパラ。夏ですから、うすい上着だけ雨対策でもっていました。リュックカバーはつけましたが。台風独特の降ったりやんだり。数人の遍路は、三々五々大窪寺に向かって、それぞれの道を歩き始めています。

 私は、雨ですし、女体山の岩は無理だと判断し、ドライブウェイを進みます。雨は、まだ時折降ってくる程度。低い雲が、道の上を流れていきます。

 だんだん山深く入っていきます。横をせせらぎが流れていて、遍路道が車道の横になるわずかなところがあります。ここで休憩。(実はこれが最後の休憩でした。)その日最後のタバコでした。まだ、数本残っていました。なんともまさか其の日に完全禁煙するとは、自分でも思っていませんでした。

 休憩を終えて歩き始めると、雨がますます激しくなってきました。ザンザン降り。太郎兵衛館のところでは、土砂降りで、シートを屋根代わりにして立って休みました。

 だんだん山も上に。頂上付近の神社前。何も見えません。前が見えないほどの土砂降りです。体中ずぶ濡れ。もう歩き続けるしかありません。あの下り坂、大窪寺の奥の院からふもとの本堂まで、2時間も休みなし。ヘロヘロになって到着です。本堂で、上着(絞れます。)を脱いで、ポケットのタバコはグチョグチョ。

 たぶんライターは、濡れて点かないと思います。このライターには、名古屋の娘が、京都の娘と会って、孫と三人のプリクラが貼ってありました。そのまま、本堂の賽銭箱に入れました。

       88番大窪寺 本堂(霊場結願所) あの賽銭箱

 「仏様、お大師さま、もうタバコを一生吸いません。どうか、私を守ってください。」

 ぞっとしました。背筋が寒い。こんな約束をしていいのでしょうか。まだ、本気でも実感もないままです。でも、もう仏様に約束してしまいました。雨も小止みになっていましたが、タバコはもう持っていませんし吸いたいとは思いませんでした。

 それ以来、何年も経っていますが、一本も吸っていません。だって、仏様に約束してしまったのです。どこに隠れても、どんな嘘も仏様はご覧ですから。


2話 「桜の花」に学ぶ

    ぼんやりとテレビを見ていて、桜の木を守っている植木屋さん(すごい人)が、

 「桜は、つぼみの時には、精一杯天を向いて、その自然の恵みや恩恵をいっぱい浴びて成長し、やがて、頭を垂れて、満開の花を咲かせる。」(成長のときは、しっかり顔をあげて、人の話をしっかり聞いて、たくさんの教えを学び、やがて、逆にまわりの人々に、謙虚に、頭を垂れて、学んだものを差し上げるものなのだ。)

 そんな、話を聞きました。そうなんだ!桜の花がすべて下を向いて咲いていることに気づかなかった自分。花見がどうして、桜なのか。どうして、木の下なのか。

 桜は、花だけが咲いて、花が終わらないと若葉をつけない。不思議な木ですよね。
    
 さらに、日曜日の早朝にNHKの「宗教」の時間に、あの老人がインタビューされていました。

 「桜というのはね、花が咲いているときにはね、虫一匹いないんだよ。だから、下で花見ができるんだ。満開の花を咲かせて、人々を包み込んで、慈悲の心でくるんでくれるんだ!」

 「若い葉の時代やたくさんの芽をつける時期には、多くの毛虫や害虫、鳥などが襲ってくる。また、守ろうとする人間でさえ近づけない。でもね、花を咲かせる時期には、一匹も虫がいないんだ。まるで、恵みを求める人々をやさしく受け入れるように、まったくの無害で、自分の真下まで近寄るのを許すのだよ。」

 そんな、人間になりたいなあ。


3話 ☆「おかげさま」

 「お元気ですか?」と聞かれたら、「おかげさまで」と答えたい。

 相田みつをさんの詩に、「よいことはおかげさま 悪いことは自分のせい」というのがあります。

 「ご縁」・『因縁』は、仏教の解釈。倶舎論でも唯識でも、『因縁』を認めます。すべての存在は、単独で存在していない。あらゆるものとの「縁」によって、存在するのです。良いことでも悪いことでも、すべて他の存在と因果関係があるものです。でも、いい事を自分の力だと思うのは、傲慢ですよね。だから、良いことは、あなたのおかげ。仏のおかげ。でも、悪いことは自分の浅はかさであり、判断ミスや努力不足だと思うこと。やっぱり『ご縁』を結ぶために、お寺参りはやめられません。やっぱり人々との「ご縁」をいただく、お遍路はやめられません。



4話 ☆「仏様のものさし」
  
 相田みつをさんの詩 「他人のものさし じぶんのものさし みんなちがうんだよな」というのをある人の掲示板に書き込みしたことがあります。ところが、「そうだよな」という人と、仏様を「ものさし」で計るのは間違っているという方とがいました。

 もちろん、般若心経やその他お経の教えでは、大きさや距離を測るのは意味が無いと書かれています。仏の教えは、現世的な価値観を否定しているともとれます。

 または、天文学的数値なので、測れないということでしょうか。『価値観』というものを、観点にすれば生も死も、大も小も、多も少も、みんな意味無いです。

 でも私たち衆生には、それこそが生死に等しい生きる基準なのかもしれませんね。だからこそ、その価値観でしか、物事を測れないことを、相田さんは詩にしているのでしょう。

  「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」のなかに
   『其身 非有非無 非因非縁 非自非他 非方非圓 非長非短 非出非沒 非生非滅 非造非起 非為作 非坐非臥 非行住 非動非轉 非閑静 非進非退 非安危 非是非非 非得失 非彼非此 非去來 非青非黄 非赤非白 非紅非紫 非種種色』 
  すべてを「あらず」と教えています。

    

  『不異空空 不異色色 即是空空 即是色 受想行識亦復如是 諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無識無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界 乃至 無意識界 無無明亦 無無明盡 乃至 無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智 亦 無得 以無所得』 
  「般若心経」も不・無を多用して、存在の無意味(空)を説きます。

5話 面授と筆授

 司馬遼太郎著の『空海の風景』上・下 中央公論社 を読みました。もちろん、今までにも空海(弘法大師)の伝記や伝承を読み聞きしたことはありました。

 わたしが、一番興味を持ったのは、空海と最澄の相違というか、なぜ空海が最澄を最後には拒絶したのか。『理趣釈経』だけは、過去何度も多数の経典を貸していたのに空海は最澄に貸さなかったのです。

 空海の最澄への手紙で、その空海の思いの一端を知ることができました。

  『しばらく、三種あり。一には、聞くべきの理趣、二には見るべきの理趣、三には念ずべきの理趣なり。もし、可聞の理趣を求むれば、聞くべきはすなわち汝が声密(せいみつ)これなり。汝が口中の言説すなわちこれなり。見るべきは色(しき)なり。汝が四大等、すなわちこれなり。念ずべきは、汝が一念の心中に、本来、つぶさに有り。さらに他の心中にもとむるをもちいざれ。必ず三昧耶を慎むべし。三昧耶を越すれば、すなわち伝者も受者もともに益なし。我もし非法にして伝えば、すなわち将来求法(ぐほう)の人、何によってか求道の意を知るを得ん。非法の伝授、これを盗法と名づく。すなわちこれ、仏をあざむく。また秘蔵の奥旨は文を得ることを貴しとせず。ただ、以心伝心に在り。文はこれ、糟粕。文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を受くれば、すなわち粋実至実を失う。学ぶも信修なくんば、益なし。』

 これらの書簡の中に、弘法大師の強い「面授」へのこだわりがありそうです。

 わたしは、その方法も分からないまま、純粋に「仏教」に興味を持ち、仏像の持つ美術性や歴史的意味から「仏教」に近づいてきました。同時に、経や儀軌の解釈から「真言」や「印契」にも関心が出てきました。また、多くの寺院をお参りし、その中で自分の持つ性格や発想や性情を見つめなおす機会を得て、西国観音霊場をめぐり、いまなお、お四国88寺をめぐり続けています。独学、手紙や文章からの教えでは、きっと絶対伝わらないものがあるのでしょうね。いくら苦しんでも、分からないなにかがあるのでしょうね。

 尊大な言い方ですが、私の今は、あのお大師様の入唐前の、未知の7年、四国の山岳荒野をひたすら巡っているお大師様のあの時期かと思っています。このまま、彷徨って果てるか。現世に謳歌するか。全部捨てて出家するか。直接の教えをいただかない限り、ある一線が越えられないのでしょうね。

     
     「分け入っても 分け入っても 青い山」 山頭火      四万十の町から

  遍路として歩くと、肉体的「苦」の行ができます。この世で仕事に従事していると、「有為(娑婆世界)」における「競争社会」での達成感や優越感をよしとします。健康でいると、「精力」と「欲」が満ちてきます。そんな「苦悩」の中にいます。いまのすべてを捨てきれない自分がいます。
 
 「在家だから」という、弁解を持っていたい自分がいます。


6話 ☆お大師さんに呼ばれて

よく遍路さんの口から、「お大師さんに呼ばれたんです。」という言葉を聞きます。
 わたしも、友人たちから「どうして四国遍路に行くのか?」という質問に、必ずこう答えます。説明が面倒なのもあるのですが、実際にそう思っているからです。

 遍路や巡礼に出る理由は、自分の欲求や自分からの意思(希望や望み)でないと思うからです。

 あるお坊さんの掲示板にみなさんがいろいろ質問や体験が書かれるのをみていて、以下のような思いをしています。

 「先日、夢にお不動さんが現れました。」「病気が治りました。」
 「愛染様を見ていると、何も持っていない手に剣が見えました。」
 「遊女が普賢菩薩になるのは、どうしてでしょう。」・・・
そういう書き込みです。みんな深く勉強していて、すごいなあと思いました。でも、みんな、自分(人間が主体)なのです。

その掲示板の主催のお坊さんが、丁寧に質問にお答えされています。ふと、そのお答えの中で、私は教えをいただきました。

 愛染さまのお答えの中で、「あの何も持っておられない左第三手は、どうしてだろう。」お坊さんの解説では、「法輪や鉤(かぎ)、独鈷」だそうです。お加持やお護摩の時にその目的に合わせて、持物が変化します。仏画などには髑髏首であったり、修法では愛する人の名前を書いた紙などです。

 ご真言「じゃく うん ばん こく」は、四摂真言(四字真言)『金剛寿命陀羅尼(経)法』 「(生死流転の山海にいる衆生を)鉤(つりばり)にかけ、索(あみ)で引き寄せ、鎖(くさり)で煩悩を縛り、鈴(歓迎の楽)で喜ばせる 」[鉤金剛 ジャク]   [索金剛 ウン]  [鎖金剛 バン] [鈴金剛 コク] です。また、密教の五種法、息災・増益・敬愛・調伏・鉤召から、それぞれの持ち物を換えているのでしょう。

 一方、曼荼羅や儀軌などでは、あの手は金剛拳(印)だということです。三昧耶曼荼羅は、仏の持物や印(手首)が描かれています。印は、立派な象徴です。
    
 でも、きっと人から見れば、六本の腕の中で一本だけ何も持っていないことの不安定さのなかでなにか持たそうという発想が生まれていったのでしょう。

 ここでよくよく考えますと、どうも人間主体なんです。そう、自分がなにかをした、見た、感じた。仏を観想するとは、自分が意思を持ってする(できる)行為ではないのではないかと思ったのです。

 ずっと前に、初期の巡礼の頃は、お寺におまいりして「ああ、仏に出会った」と思っていました。いつのころからか、「仏が待っていてくださった。」と思うようになりました。だから、秘仏としてご開帳されていない厨子を前にも、抵抗なく手を合わせることができます。御許に来れたことに感謝します。

       12番焼山寺へ 一本杉のお大師様
     

 「お大師さんに呼ばれた。」は、まさにそうなんです。こちらが、観たい、逢いたいと願って遍路・巡礼しているのではなくて、声無き声によって、呼ばれたのです。きっと、上記のみなさんも、夢に現れたのは仏の意思。疑問に思うのもみ仏の意思ではないでしょうか。

 だからこそ、その御仏の真意を慮ることこそ肝要だと思います。何らかの仏の啓示をいただくのは、とてもありがたいものです。いま、自分になにかを教え諭そうと、現れてくださった。

 とてもうらやましいです。でも、それを自慢してはいけませんね。逆に「ドキッ」として、そのときこそ、自分を顧みて、より深くより真摯にすごさねばいけませんね。きっと、あなたのことを見ていられないと、仏がサインをくださったのですから。

 「お大師さんに呼ばれた。」・・・そう、いますぐお四国に行かないと。     

7話 ☆仏教の「寛容」について

五木寛之の「百寺巡礼」第4巻に「仏教の寛容(トレランス)」についての記述に出会いました。久しぶりに身震いするような感動でした。わたし、自分にないものや無かった発想に出会うと、むちゃ感動します。そうなんだ!!

 『以前は、免疫とは、非自己に対して拒絶反応を行う作用だと考えられていた。免疫には 「拒絶」という言葉がつかわれていたのである。しかし、免疫のいちばんあたらしい働きは、非自己と自己を分けることだといわれている。』

 『さらに、妊娠中の母体は胎児 を拒絶しない。胎児は母親とは遺伝子も血液型もちがう。非自己であるにもかかわらず、 免疫の体系はそれを拒絶しないのである。』 『つまり、胎児の場合は、非自己であっても 受け入れる。』

 『これを「寛容(トレランス)」という。』 『自分の信じる唯一の神を大切に しながら、他の人びとの信じる神も拒絶しない。』 そう、拒絶するのではなくて、違いを認識して、受け入れる。

 嫌なこと、嫌な人、辛いこと、ひどいこと、すべて・・・ 仏陀が、ひどい迫害のなかでも、全てを許した。これからの生き様も含めて、「寛容」という理念を大事にしたいですね。

     出釈迦寺から高松を望む

8話 ☆菩薩波羅夷罪

 梵網経の経文の中に「菩薩波羅夷罪」(ぼさはらいざい)という言葉が、何度もでてきます。

 梵網経の十重禁戒は、一般的な意味での戒とは異なり、これを破ることは菩薩として許されない重大な罪、「菩薩波羅夷罪(ぼさつはらいざい)」である、と『梵網経』では強く断罪されています。

 波羅夷とは、サンスクリットまたはパーリ語「パーラージカ」の音写語で、「不応悔罪(ふおうけざい)」 あるいは「断頭罪(だんとうざい)」との漢訳語があります。これを現代語にすると「懺悔しても許されない罪」あるいは「死罪」となりますが、これらは「律の用語」です。

 律蔵において、波羅夷罪とは、「性交渉・殺人・盗難・宗教的虚言」の四つに限られるものであり、これらの内いずれか一つでも、仏教の正式な出家者である比丘が犯せば、その者はただちに僧侶としての資格を失い、僧団から追放に処せられ、二度と比丘になることは出来なくなります。

 ゆえに「懺悔しても許されない罪」あるいは「(僧侶としての)死罪」なのです。

 『梵網経』では、この波羅夷罪に十項目を挙げ、それを犯すことは「菩薩の波羅夷罪」であると説いています。では、律と同様に、これらの戒を破ることを、「懺悔しても許されない罪」 あるいは「(菩薩としての)死罪」としているかというと、違うのです。『梵網経』では、これらの罪は、礼拝や読経などを繰り返すことによる懺悔を行い、その期間に何事か吉祥なる現象「好相」に遭遇したならば、許されるとしているのです。

 そうです。仏教の「戒」は、戒めや刑罰というよりも、やはり生きる目標であって、指針。そして、たとえそれが死罪に値するとしても、「懺悔」し続け、ひたすら「行」ずることによって、「認められる」のではなくとも、「生きる」ことにおいて、仏の子として、存在は否定されないという解釈です。


9話 4度目の満願

 1回目の満願は、車でした。2回目は、大雪の日で女体山のドライブウェイは通行止め。40cmの積雪。その道を越えました。3回目は、台風が近づいていて暴風警報。女体山頂の神社では前も見えない土砂降りで、全身ずぶぬれ。そうあの日に、タバコをやめました。

 今回は、真夏、花折れ峠を越えて、だらだら上っていったその道の向こうにあの新しい山門が見えてきました。とうとう大窪寺に到着です。最後のpiicats柄杓を奉納しました。鐘も撞きました。大師堂はあとまわしで、本堂に向かいます。

 とうとう到着しました。
        
・・・・やっぱりだれも待っていません。だれかが待っていて、迎えてくれる・・そんなゆめをみていました。そんなことが、あるわけがありませんよね。だれもいない静かな、あまりに静かな境内。リュックをベンチにおいて、おいずるを着て、輪袈裟、念珠。本堂「結願所」にはいります。

 どうしたことか、身震いがするほど寂しくて、悲しくて・・。「我昔所造諸悪業・・」 声が出ません。涙が止まりません。嗚咽です。ひくひく肩がとまりません。幸いだれもいません。声をだしてなきました。お経の声がでません。

 そう、自らがなしてきたいろいろの人間関係が、すべて自分勝手で自分中心で、真に相手の幸せを考えていなかったのでしょうか。自分とともにいて、自分とともに閲した艱難が、ともに「しあわせ」だと思っていました。それが、間違いだったのでしょうか。いつぞや、人は次々と自分から離れ、結局は 「自分ひとり」なのでしょうか。

 「死ぬときは、ひとり」なんてよく言いますが、「いまもまた一人」なのですよね。ともに歩んでくれる人なんて、きっといないのですよね。『同行二人』は、お大師さんだけなんですよね。

 「杖だけと ともにあゆみし このみちは なにをたよりに いきとしいきん」寂しくて、わびしくて。

 私の場合は、最後に捨てきれない欲は、人を恋焦がれる思いだったのですね。
   
 いろいろなものを捨ててきました。妙なプライドや自尊心。車やタバコへの固執。征服感、達成感。でも、捨てることができるとは、自分でも思っていませんでしたね。

 自己存在ってなんでしょうね。安寧な死を求めていくと、全ての固執から脱却することなのでしょう。私のおいずるに16番観音寺でいただいた光明真言の版が襟に押されています。生きているときは無病息災。遺体に着せたら、死後硬直がやわらかくなるといわれます。でも、実は一部が汗でにじんでしまいました。ずっとそれを着ています。

 私が死んでこのおいずるを着ても、一部が硬いままだと思います。この部分の硬さが、消えなかった固執だと思うのです。捨て切れなかった「愛着」です。消えなかった「夢」であり、薄らがなかった「妄想」ですね。今後私は、「思い出」だけにすがって余生をすごすことなんてできるのでしょうか。

 いままで多くの先輩たちを見送ってきました。今度は、自分が送られるのです。社会的執着から捨てられるのです。「うまく老いる」、「うまく枯れる」ことが生きる秘訣だよって教えてくれた先輩がいました。はたして、私はなにもかも捨てきることができるのでしょうか。

この寂しさに慟哭した固執(欲)を、何時の日か、観音のように、無表情でかすかな微笑を持って受け入れられるのでしょうか。捨てる悲しさより、捨てられる悲しみに耐えなければならないのでしょうか。

 見捨てられる方法を知りません。耐え忍ぶすべもしりません。ただただ、泣き叫ぶだけですか?毎夜、夢に現れる亡霊に、おびえながら夢にもうつつにも、現れなくなるのを待つだけですか。過去を思い出しても、怨まないようになる日を待つのですか。
      
いま、こうして結願して、一歩でもお大師さんに近づいたその喜びよりも、さらに遠くなっていく浄土に今度は、いつお四国にお声がかかるのだろうかと不安です。

 緑のお札。こんな未熟なわたしに、どうして人々を導くことなどできましょう。

10話 ☆永遠の遍路道

 『西遊記』の話。もちろん三蔵法師玄奘(げんじょう)が中国から今のインドである天竺(てんじく)への仏教経典を手に入れる旅の話です。お供には、孫悟空(そんごくう)と猪八戒(ちょはっかい)、そして沙悟浄(さごじょう)です。ドラマや絵本では頼りになるお供とされていますが、実際は違います。この3人は、人の心の中の3つの醜い部分(三毒)を象徴していると言われます。

 孫悟空は「瞋(じん)」怒りの心です。何事にも腹立たしく思い、力で相手をねじふせようという気持ちです。猪八戒は「貪(どん)」むさぼる欲の心。何でも手に入れたく思い、満足しない底知れない欲望の気持ち。そして沙悟浄は、「痴(ち)」おろかさの象徴です。「無思慮」、「無判別」、「無知」。思いやりもなく、相手を妬(ねた)んだり裏切ったり傷つけて、なんとも思わない部分です。

 どんな人にも、この3つの醜い部分があります。

その醜さが、身(行動)と口(言葉)と意(心)のよって現れます。身口意または身語意といいます。それを認識した上で、自分で自分を磨き、成長させていかなければなりません。 「怒りを静める術(すべ)」と「欲望に打ち勝つ精神力」と、そして「人を信じ、人から信じられる誠実さ」を。

 しかしながら、私たちの「精神」は、あまりにも脆弱で、貪欲で、無恥なのです。

 メーテルリンクの『青い鳥』の中で、チルチルとミチルの兄妹は、「渇いてないのに飲む幸福」や「飢えてないのに食べる幸福」と出会います。人間は、誰でも底知れない欲望を持っています。 いくら希望のものを手に入れても、満足しないで、もっともっと欲しくなります。あまりお腹が減っていなくても、そこにおやつがあると、ついつい手がでてしまうのです。食べ物だけではないです。お金や物、気持ちや生活、そして生命まで全てに於いてです。

 「幸福」とは、身も心も健やかで、満ち足りた思いの中で生活することです。ですが、なかなか「満ち足りた思い」がないのです。貪欲で、今さえ良ければいいという刹那的で、他者を思いやらない利己的な心がどんどん増大して、さらに「渇望」していく恐ろしい遺伝子を、私たち誰もがその体の中のDNAに持っているのかも知れません。赤い血に引き継がれたDNAの記憶のなかに。人として生まれ、生きていかねばならない私たちは、常に失敗し、人を傷つけ、悔いながら日々を送るのです。

 それらを日常の行いと発言や会話とその時々に揺れ動く心によって、生きていかねばなりません。どうすれば、いつになったらこころの思うままに行動し発言し判断しても、過ちを起こさない生き様ができるのでしょう。

 「禅定(ぜんじょう)」とは、繰り返す「行」によって、「真理」を体得していくものです。何回も繰り返す。毎日、同じ形を繰り返す。薄れることのない様に、継続と持続。昔からすべてのことに、人々は自然にその方法を身に着けていきました。精神訓練も常時し続けないといけませんね。仏前の所作よりも、その所作に到るまでの過程にこそ価値を持つのだと思います。経過する時間に身を置き、その息遣い、心のありよう、そうして、それを越えることにのみ打ち込む自分を感じること。要するに、そこに到るまでの心理、決意する行動力。繰り返し続ける、あくなき求道心。情念の広がり。それこそ、大きな意味があるのだとおもいます。

 必ず終わる人生の旅だからこそ、始めたからには止むことなく、変わりなく続けることです。どこまでいったとか、人より多く行ったとかいう考えには意味がありません。本当の自分の姿を求め続ける「覚悟」こそ、本来の生きる目的でしょう。自分の内面に有るさまざまな、あまりにも俗な要素に、ある種うんざりしていますが、それとうまく付き合っていかないといけません。

 仏教は、免罪を許しません。永遠に悔いの中で生きるのです。日々、仏に参り、経を詠み、祈りを尽くす(三密の行)こと。たぶん、それだけ。

 私の心が、わたしを許すことはないでしょう。私の中で、人を信じる心が常に揺れ動くようになってしまったことを。わたしはまた、どこまで愛しても愛されても、信じても、許されない「罰」を与えられたのだろうと思います。

    室戸   

 修羅の道を歩むしかない。不条理の坂道を、仏に見守られながら、歩くしかない。阿修羅は、正義の神。しかし、力の神帝釈天に勝てない戦いを永遠に続けます。

 いま一度、自分に問おう。どうか永遠に遍路道を歩こうではないか。