四国遍路と弘法大師信仰との関わりについて
 

 四国遍路の成立については、すでに平安時代後期までにはその原型や「へんろ道」ができていたと推察される。(『今昔物語』、『梁塵秘抄』などの文献から)また、11世紀頃から度重なる飢饉や災害の中で人々が末法思想や来世への渡岸を願う「補陀落渡海」信仰などから、四国もまた「約束の地」としての意味を持つようになった。
 主な理由は、①補陀落信仰、②弘法大師への思慕、③諸山をめぐる行道修行としての道として、初期高野聖と後期高野聖の活躍などが挙げられる。

①日本における『補陀落信仰』とは、

 『華厳経』の「入法界品」における観音信仰に起因し、日本では、栃木県の二荒山が古くから補陀落山と同定されていた。補陀落山(千手経、十一面観自在菩薩儀軌経、八十華厳経等が説く)。山形県の月山に東西2所の補陀落が見出されている。 また、和歌山県の那智には、補陀落へ行く為に 沖合へ漕ぎ出し、海中に身を委ねる「補陀落渡海」と云う奇習もあった。
 補陀落とは、観世音菩薩が住んでいるとされる山。その補陀落に近いと考えられ、擬せられたのが和歌山県那智山や足摺岬である。そして鎌倉・室町期、本当のインド補陀落の浄土をめざして補陀落渡海が流行し、渡海の拠点となったのは、熊野那智山や室戸岬、足摺岬などであった。
『発心集第三-五』「或る禅師、補陀落山に詣づる事賀東上人の事」。新潮日本古典集成本「讃岐の三位という人の乳母の夫なる人は、・・、 土佐の国に知る処ありければ、行きて、新しき小船一つまうけて、ただ一人乗りて、南をさして去りにけり。」
『良寛続編地蔵菩薩霊験記』(古典文庫)
長徳三年ニ、賀登上人阿波ノ国ヨリ来テ、・・ツイニ長保三年八月十八日ニ弟子栄念ト虚舟ニノリ、午ノ剋ニトモヅナヲトキテ、遥ナル万里ノ波ヲシノギ、飛ガ如クニ去リ玉フ。男女貴賎、肝ヲ消ス。
後ニノコル御弟子達、足ズリヲシテ哀ミケリ。ソレヨリ彼トコロヲ、足摺ノ御崎トハ申也。人皆所願アラバ、先地蔵菩薩ニ祈リ奉ルヘシ。
多くの文献や伝承があり、四国は「死国」としての補陀落浄土への近道であったと言える。それは、「入水往生」とはいささか異にする、真に「補陀落浄土」への到着を願った「即身成仏」の信仰だったのではないか。生きながらえそのまま往生する。


②弘法大師への思慕

 人々が「弘法大師」を知るのはいつごろ、誰によって知らされたのだろうか。いわゆる「大師信仰」が芽生え発展していく中で、四国が果たした役割と価値を検証する必要がある。大師信仰といわれる形態
には、1.大師伝説、2.高野山信仰、3.入定信仰、4.厄除け大師信仰、5.遊行大師信仰などいくつかの要素が混在しているが、すでに西行を代表する「空海」の追体験をする遊行僧侶たちから、諸国を放浪し「乞食」して暮らした「高野聖」まで、多くの「稀人」によって、情報の乏しい地方の庶民たちに、「大師の奇跡譚」や「高野山入定信仰」などがまことしやかに(信仰心をもって)広がっていったものと推察する。
 入定伝説を基にした「奇跡」や「ご利益」などの現世利益的民間の信仰に根差し、また常に身近に存在するという親近感こそが、大師信仰の基礎であり、その活動場所こそが「四国」であった。
『大師入定説』 「空海年表」によると、835年(承和2) 61才で大師は3月21日に入定される。921年(延喜21)10.27. 観賢の上奏により、醍醐天皇は空海に弘法大師の諡号を賜う。『今昔物語』には、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。
 921年以後、前後して大師の御遺告(ごゆいごう)が4種類出る。
『遺告二十五ヶ条』 『太政官符案並びに遺告』 『遺告真然大徳等』 『遺告諸弟子等』である。その中で、『遺告二十五ヶ条』には、
「吾、去天長九年十一月十二日より深く穀味を厭て専ら坐禅を好む。・・吾、生期幾ばくもあらじ。 仁等、好しく住して慎みて教法を守れ。吾、永く山に帰らん。吾、入滅に擬するは明年三月二十一日寅の刻なり。諸の弟子等悲泣することなかれ。両部の三宝に帰住せば、自然に、我に代わって眷顧せられん。」(4種共通部分)
また、『太政官符案並びに遺告』
「吾が後生の弟子たるや、祖師吾が顔を見ずといえども、心有らん者は、必ず吾が名号を聞きて恩徳の由を知れ。是れ吾、白屍の上に更に人の労を欲するにあらず。密教の寿命を護り継いで龍華三会の庭に開かしむべきの謀りなり。吾れ閉眼の後には必ず方に兜卒他天に往生して弥勒慈尊の御前に侍るべし。五十六億余の後には必ず慈尊と共に下生し祇候して吾が先跡を問うべし。亦、未だ下らざる間は微雲管より見て信否を察すべし。・・・」    
 上の書の「吾れ閉眼」が「吾れ入定の後は」となっていて、初めて『入定(にゅうじょう)』の語があります。康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。
よく考えると、お大師さんが兜卒天に行かれて、今この世界にお留守なら、どうも大師信仰に矛盾が出てくる。そこで、みんなが納得する考えは、高野山奥の院の奥のご廟にいまも住んでおられるという考え。現に、高野山の諸寺でのお護摩は、諸仏に行われますが、奥の院では大師護摩を行う。こういう考えが、大師入定後200年(11世紀初頭)には、日本中に定着していたようである。平安時代。藤原道長が信じていたといい、今の高野山は道長寄進のお堂で復興したとか。
白河上皇がたくさんの灯明を寄進され、今も「白河灯」がある。今の金剛峰寺は秀吉の造とか。紀元1000年ころから、以来1000年間、私たちは、お大師さんが今も生きて高野山におられることを信じ続けているわけである。
 高野山奥ノ院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。維那(いな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時(5:30と10:30)の食事を給仕している。
『大師火葬説』大正8年、京大教授の喜田貞吉氏が、京都の宗祖降誕会で、述べられた。「お大師さまは、火葬された。」
 『続日本後記』には、「仁明天皇から「空海、紀伊国の禅居に終る。勅して内舎一人を遣わし、法師の喪を弔い、並びに喪料を施す。」
淳和上皇弔書「禅関僻居し、凶聞晩く伝う。使者奔赴すれども荼毘を相助く能わず。」高野山からの知らせが遅くて、使者を走らせたが、火葬の手伝いもできなかった。と述べています。
『実慧が送った恵果和尚の弟子たちへの手紙』
「和尚、地を南山に卜して、一つの伽藍を置き終焉の地となす。其の名を金剛峰寺と曰う。今上、承和元年をもって都を行き住む。二年の季春、薪尽き火滅す。行年六十二、嗚呼哀しい哉。」
現実的な見解は、誰もが触れない。問題にはしない。あのご廟の五輪塔の下が、どんな状況であるかは、誰も問題にはしない。毎日、二度の食事が届けられ、高野山の僧侶のみでなく信者、観光客に至るまで、ご奉仕・お接待もうしあげています。
 先に述べたお大師様がすでに「兜率天」に行かれたのなら、高野山は何か。しかし再生伝説とまた高野山自体が「兜率天」浄土ならば、その混同と拡大解釈によって、民衆は見事に解釈したことになる。
③初期高野聖たち宗教者や熱心な僧侶たちによって、日本のあらゆる地方にも浸透していった「大師信仰」と「高野山信仰」。そうして、やがてその修業の地が「熊野」と「四国」に特化されていく。
僧侶や修行者が解釈した「浄土(兜率天)」信仰としての高野山は「
兜卒天」という浄土、弥勒菩薩信仰である。仏陀が入滅されたのち、将来仏となってこの世にあらわれて法を説き、衆生を救う約束がなされているのが弥勒菩薩で、すでに将来仏となることが約束されているので、菩薩ではなく「弥勒仏」ともいわれる。ただいま兜率天(とそつてん)において修行、思念中であるとされる。しかし、その弥勒菩薩が救世仏として兜率天からこの世に出現するのは、釈迦の入滅後の56億7000万年後であるとされている。そこにこそ現世利益を願う衆生の解釈が生きてくる。まさに「兜率天」としての高野山に「大師」がいて、現在もなおそこから衆生世界である「娑婆」(四国)に時折「下生」していると解釈すれば、大師への思慕は一層現実味を帯びてくる。それがまた「遊行大師」としていまなおお四国を修業し、山野を駆ける「お姿」を生んでいくのであろう。
  『下生経』
 この国は転輪王という王が治めている。その城中の、妙梵と梵摩波提という婆羅門の夫婦に、弥勒は生を託して生まれた。成長した弥勒は、世の五欲が患いをいたすことを感じ、出家して道を学び竜華菩提樹の下に座した。時に諸天龍神は華香を雨と降らせ三千世界はみな震動した。


③諸山をめぐる行道修行としての道としての「お四国」

 初期高野聖として何人かの修行僧や修験道者が挙げられよう。古く日本が原始神道からの山岳信仰を持ち、そこに仏教(特に密教)が融合されていく中で、神にまみえる行と仏教修業としての自らを極限に追い込んでいく荒行が、「道(行者道)」や「場(道場)」を作っていったと考える。しかしまだ平安末期には、民衆への教化や信仰の定着は認められない。
 やがて、鎌倉期になり庶民により強い厭世感や末法思想が浸透し、安易な信仰を求める傾向の中で、一部僧侶や行者のみでなく、庶民自らが「信仰(仏教)」を求め、より実践的な行為をなすようになっていく。それが、念仏であり、寺社詣である。
 それが、さらに伝承されてきた「大師伝説」や「遊行大師」との出会いを求めるものへと変化していった。庶民にその知識や信仰を情報としてもたらしたのが、後期高野聖たちであった。大師への追体験として、また切なる現世利益、障害や病気からの解放を願い、行としての「苦」を求める「お四国」は、江戸期には定着していったことは、想像に難くない。


参考文献
 『遍路学』         加賀美智子他 高野山大学
 『四国遍路の宗教学的研究』    星野英紀  法蔵館
 高野山大学選書第4巻『「高野山の伝統と未来』 
「高野山の宗教活動」蓮華定院住職 添田隆昭