補陀落渡海について


井上靖短篇名作集 講談社文芸文庫
[内容]

熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。周囲から追い詰められ、逃れられない。時を待つ老いた住職金光坊の、死に向う恐怖と葛藤を記す短編です。

 

 金光坊は補陀洛山寺(小説では補陀落寺)の住職である以上、ある年齢に達したら渡海しなくてはならないとわかっている。しかし、その日が近づくと、次第に死ぬのがいやになってくる。 渡海の日。金光坊は小舟に閉じ込められ、沖に曳航されてゆく。綱切島という島まで連れていかれると、そこで舟の綱が切られ、同行人は引き返してしまう。死ぬのがいやになった金光坊は舟から脱出し、近くの島に漂着する。しかし、同行人に見つかり、舟に戻され、結局、海に戻されてしまう。

もう、ずっと前の話ですが、読んだことがあります。最近、仏教の勉強を始め改めて思い出しました。寺院には、多く「補陀落」の文字が名称にあるところがあります。

    

以下の部分は、拙記の解説ページの部分転記です。

[補陀落浄土とは]
[補陀落山](ふだらくせん)観音菩薩 ■瑠璃の仏土

    『華厳経』の「入法界品」

 観音菩薩の所在が南方海上の山、補陀落山(ポータラカ)とされ様々な地に観音霊場が成立。玄奘の『大唐西域記』には「南印度秣羅矩咤国秣剌耶山の東」として、南インドの海岸とか。

 その補陀落山の頂上に独自の浄土を持つという。そしてこの「観音浄土=補陀落山」とする神話は、広く各地に根を下ろしていった。まずインドでは、半島南端部の山地に「補陀落山がある」とされ、多くの人々が集まり、彼に拝謁せんと努めていた。チベットでは、都ラサにその名が 「ポータラカ(=補陀落)」に由来すると言われるポタラ宮があり、観音の転生活仏ダライ・ラマが 代々住所としていた。中国でも、浙江省の舟山列島に普陀山があり、現在も信仰を集めている。 朝鮮半島にも、江原道(大韓民国側)の襄陽に洛山がある。

 日本では、栃木県の二荒山が古くから補陀落山と同定されていた 他、山形県の月山に東西2所の補陀落が見出されている。 また、和歌山県の那智には、補陀落へ行く為に沖合へ漕ぎ出し、海中に身を委ねる「補陀落渡海」と云う奇習もあった。
 補陀落山(千手経、十一面観自在菩薩儀軌経、八十華厳経等が説く)


 補陀落とは、観世音菩薩が住んでいるとされる山。その補陀落に近いと考えられ、擬せられたのが和歌山県那智山や幡多の足摺岬である。そして鎌倉・室町期、本当のインド補陀落の浄土をめざして補陀落渡海が流行し、その出発点となったのも熊野灘であり、足摺岬であった。

資料によると、京都の桂川からも出発した例もあるようです。

文政三年(一八二○)の奥書をもつ南紀名勝略志に、熊野からの補陀落渡海について次のようにあるという。

「往古は補陀落山に渡るとて、新しく船を造り、二三月の食物を貯へ、風に任せて南海へ放ちやる。是は観音の道場へ生なから至ると伝へりと。中古より此事廃せり。只今も補陀落寺の住持遷化の時、死骸を舟にのせ此浦の沖に捨てるなり。是を補陀落渡海といふ。」

 

小舟には4つの鳥居が四方に向けて立てられ、その中央の小部屋に僧が入る。舟は沖まで曳航(えいこう)され、そこで綱が切られるのです。




[補陀落渡海僧の墓]

補陀落渡海で亡くなった歴代の上人らの墓は、補陀洛山寺の裏山の墓地で、今も遠く水平線を向いている。かつて補陀落渡海を行っていたのは、那智山への登山口にある補陀洛山寺(和歌山県那智勝浦町)の住職だ。わが国では那智のほかに、土佐の足摺岬などでも行われたと記録がある。同寺での補陀落渡海は、貞観10年(868)の慶竜上人から始まり、享保7年(1722)まで続いた。計20人の僧が渡海したとされるが、16世紀末ごろを境に、生きたままの渡海はなくなったという。昭和40年代ごろから、補陀洛山寺の住職は、近くの那智山青岸渡寺の住職が兼ねている。

 「今から見たら生命軽視とみられるかもしれない修行ですが、信仰に命をかけた先人の行為を知ることで、その人なりに目標を持ってがんばる気持ちになられるなら、この行のことを現代も語る意義があるのではないでしょうか」。高木亮享住職はそう話す。

有名な智定房。天福元年(一二三三)三月七日、もと鎌倉武士であった智定房が、長年の修行の末、熊野那智の浦から渡海した。

吾妻鏡
「彼乗船者、入二屋形一之後、自レ外以レ釘皆打付、無二一扉一。不レ能レ観二日月光一。只可レ憑レ燈、三十ケ日之程食物并油等僅用意云々。」

智定房が屋形に乗り込んだ後は外からことごとく釘で打ち付け、一扉とてなかった。三十日分の食物、燈油を用意した。人力にたよらず信仰の力によって観音の導きを期待する信仰の様式ではなかっただろうか

過去の上人たちの碑です。

[補陀落渡海と沖縄]

 補陀落渡海を志した本土の僧が沖縄にたどり着くという場合が結構あったと聞きます。足摺から潮流に乗るのですが、黒潮は南から北に流れます。(「椰子の実」の歌でもご存知のように、沖縄から黒潮に乗って、椰子の実が実際に愛知県伊良子岬に漂着します。)しかし、もう少し陸に近い潮の流れは、黒潮と逆に渦を巻きますから、うまく乗れば逆に、北から南に行くのです。

琉球王府が編纂した『琉球国由来記』(1713年)に収められた金峰山観音寺(金武宮・観音寺)の縁起によりますと、日本本土の僧侶である日秀は、補陀落山を目指したものの、結局は沖縄に着き、観音寺を開いたというのです。

 補陀落渡海の例は、記録や説話文学に多くみられ、何人もの僧侶たちが南方へと旅立ったのです。行方不明になる例や餓死した死体が漂着した例が多かったでしょうが、日秀と同様、沖縄に漂着して沖縄の信仰文化の伝播に何らかの役割を果たした無名の僧たちがいたのではないかと思われます。

 補陀落渡海の拠点となったのは、熊野那智山や室戸岬、足摺岬などでした。11世紀初頭には、阿波出身の賀登上人という僧侶が足摺岬から補陀落渡海のために船出をしたという説話もあります
(『地蔵菩薩霊験記』)。


[補陀落渡海と文献]
http://bunkaken.hp.infoseek.co.jp/index.files/raisan/fudaraku/tokai1.html データを拝借しました。

発心集第三−五「或る禅師、補陀落山に詣づる事賀東上人の事」。新潮日本古典集成本
「 讃岐の三位という人の乳母の夫なる人は、長年極楽往生を願い続ける入道だった。彼はこう考えた。「この人間の身体というものは、まったく意のままになるものでない。もし、悪い病気にでもかかって、死に際が思うようにならないならば、往生の素懐を遂げることは極めて難しい。今のように病気のない健康な状態で死んでこそ、臨終のときに心を安定させていられるだろう」。そして彼は「身燈」を試みる。まず火の色になるまで焼いた鍬を二つ左右の脇にはさんで、生身に押し当ててみた。肉が焼け、酸鼻な状態になったけれども、彼は「ことにもあらざりけり」ともらした。そして本格的に身燈の準備にかかっているうちに、思いが変わった。
身燈はやすくしつべし。されど、此の生を改めて極楽へまうでん詮もなく、又、凡夫なれば、もし終りに至りて、いかが、なほ疑ふ心もあらん。補陀落山こそ、此の世間の内にて、此の身ながらも詣でぬべき所なれ。しからば、かれへ詣でんと思ふなり。 土佐の国に知る処ありければ、行きて、新しき小船一つまうけて、朝夕これに乗りて、 梶取るわざを習ふ。その後、梶取りをかたらひ、「北風のたゆみなく吹きつよりぬらん時は、告げよ」と契りて、其の風を待ちえて、彼の小船に帆かけて、ただ一人乗りて、南をさして去りにけり。妻子ありけれど、かほどに思ひ立ちたる事なれば、留めるにかひなし。空しく行きかくれぬる方を見やりてなん、泣き悲しみけり。是を、時の人、こころざしの至り浅からず、必ず参りぬらんとぞ、おしはかりける。」

法華験記下一二八
「いはゆる補陀落世界に往生し、観音の眷属となりて、菩薩の位に昇らむ」

良寛続編地蔵菩薩霊験記の説話(古典文庫第二○三冊)
長徳三年ニ、賀登上人阿波ノ国ヨリ来テ、彼寺ニ籠レリ。一両年ノ間ニ観音浄土補陀落山ニ参ヘキ由ヲセメ祈玉フニ、感アリテ示現度々蒙テ、ツイニ長保三年八月十八日ニ弟子栄念ト虚舟ニノリ、午ノ剋ニトモヅナヲトキテ、遥ナル万里ノ波ヲシノギ、飛ガ如クニ去リ玉フ。男女貴賎、肝ヲ消ス。後ニノコル御弟子達、足ズリヲシテ哀ミケリ。ソレヨリ彼トコロヲ、足摺ノ御崎トハ申也。人皆所願アラバ、先地蔵菩薩ニ祈リ奉ルヘシ。
「弟子栄念ト虚舟ニノリ、午ノ剋ニトモヅナヲトキテ、遥ナル万里ノ波ヲシノギ、飛ガ如クニ去リ玉フ」

台記
 覚宗が那智籠りをしたとき、一人の僧がいて、こう言ったという。「私はこの現し身ながらにかの補陀落山へお参りすることを祈っている。そこで小舟の上に千手観音をまつり、船舵を持ちまいらせて、祈請すること已に三年に及ぶ。北風が吹き七日止まないことを祈っているのだ」。そうしたところ、数日後大北風になった。その僧は喜んで舟に乗り、南に向かって礼拝し続け、ついに南をさしてはるかに去ってしまった。僧たちは皆それを希有のこととして、山に登ってそのようすを眺めた。覚宗もいっしょに眺めた。その後たしかに七日間、北風は吹き続けた。そこでその渡海の成就したことを知った。


[私の思い]

ずっと以前に、即身成仏として自ら食を断ち、水を断ち、ミイラになるべく、自ら墓穴に入った僧の話を聞いたことがあります。食事の制限の方法など、厳密に決まっているそうです。

 

いま、この小船に乗ってはるか水平線のかなた「補陀落浄土」に旅立つ人の、本当の思いや信仰がどんなものか想像もつきません。井上靖は、近代文化の自我意識から小説として、取り上げたものでしょうが、信仰という観点からもう少し、事例を調べてみました。それは、「入水往生」とはいささか異にする、真に「補陀落浄土」への到着を願った「即身成仏」の信仰だったのではないでしょうか。

この春に、義母が亡くなりました。浄土真宗です。通夜の時、僧侶は「亡くなった瞬間から、仏は極楽浄土におられるので、遺体に短刀は必要ありません。」と。また葬儀後は新棚を作らず、仏壇を拝むということです。

私は、真言宗ですのでとても奇異に感じました。しかし、いま観音信仰における「補陀落浄土」への往生観は、ある意味理解できるような気がします。上記のような、また一般的な解釈としての「入水往生」(死を覚悟した、往生観)ではなくて、生きながらえそのまま往生するのです。

真言宗の「即身成仏」の基本は、「今の身は、既に仏。だからこそ、より高まるための信仰。」というところから、「勤め、行ずるものだ。」ということです。

「死」が恐怖である近現代人の概念から、「仏教」という信仰を理解・解釈するのは一面にすぎないのでは、ないでしょうか。次は、「即身成仏」の勉強が必要ですね。

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