高野街道

高野街道(こうやかいどう)とは、かつて京・大坂から高野山への参詣道として用いられた街道で、広義には京都や大阪方面から高野山へ通じる街道を総じて指し、狭義には河内国錦部郡長野村(河内長野市)と高野山を結ぶ街道である。また、現在の国道371号旧道のうち、大阪府河内長野市~和歌山県橋本市区間の呼称にもなっている。

よってその他の区間は、長野以北から複数に分かれて各方面を結ぶ「東高野街道」「中高野街道」「下高野街道」「西高野街道」、橋本から高野山を結ぶ「町石道」「京・大阪道」「勅使坂」と呼ばれる。

河内長野市では4つの高野街道が合流するため、古くから宿場町として栄えた歴史があり、昭和初期には長野温泉などの温泉街や天見温泉などの温泉地として知られていた。

東高野街道・・・

 山城国八幡(京都府八幡市)-洞ヶ峠-河内国田口村(大阪府枚方市)-郡津村(交野市)-中野村(四條畷市)-豊浦村(東大阪市)-楽音寺村(八尾市)-安堂村(柏原市)-国府村(藤井寺市)-誉田村(羽曳野市)-富田林村(富田林市)-長野村(河内長野市)[西高野街道と合流]

前身は平安京または長岡京への官道だったと推定される。京から高野山への参詣路として使用されるとともに、河内国を南北に貫く数少ない街道でもあった。

中高野街道・・・ 

起摂津国平野郷町(大阪市平野区)-西喜連村(平野区)-河内国三宅村(松原市)-黒山村(堺市美原区)-狭山新宿(大阪狭山市)-市村(河内長野市)[西高野街道と合流]

起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされる。1148年に仁和寺宮覚法法親王が高野山参詣の際に通ったと考えられている。

下高野街道・・・

 摂津国天王寺村(大阪市天王寺区)-田辺村(東住吉区)-河内国高木村(松原市)-小寺村(堺市美原区)-岩室村(大阪狭山市)[西高野街道と合流]

大阪市内からの高野参りへの街道で、四天王寺を出て岩室村(大阪狭山市三津屋)で西高野街道に合流した。旧街道筋の大和川に下高野橋が架かっている。

西高野街道・・・家から高野山へ(1) (2) (3) H18.3に岩室から高野山まで歩きました。

 和泉国堺(堺市堺区)-中筋村(堺区)-[竹内街道と重複]-舳松村(堺区)-河内国関茶屋新田(堺市東区)-和泉国福田村(堺市中区)-河内国岩室村(大阪狭山市)-[下高野街道と合流]-茱萸木新田(大阪狭山市)-市村(河内長野市)-[中高野街道と合流]-長野村(河内長野市)[東高野街道と合流]

  
  十一里の一里塚                  天野街道との分岐点

平安時代後期から鎌倉時代初期には高野参詣道として使用されていたと考えられている。室町時代から江戸時代には、商港堺と高野山との物資輸送でにぎわった。旧街道は現在の国道310号に沿っている。

起点を異にする次の4つのルートがあり、いずれも現在の河内長野市で合流。紀見峠を越えて橋本へ至った後、高野山へと至った。

長野から橋本は、 高野街道

    河内国長野村(河内長野市)-三日市村(河内長野市)-天見村(河内長野市)-紀見峠-紀伊国橋本(和歌山県橋本市)



橋本から高野山へ向けたルート

 勅使坂・・・紀ノ川を遡り、和歌山からくるルート

    紀伊国橋本(和歌山県橋本市)-三谷村(かつらぎ町)-笠松峠-丹生都比売神社―(町石道に合流)―笠木峠-高野山大門(高野町)


 町石道・・・江戸時代まで最も使用されたのが町石道であった。■18年8月(町石道)を歩きました。

    紀伊国橋本(橋本市)-慈尊院(九度山町)-天野辻-笠松峠-笠木峠-高野山大門(高野町)
           

 京・大阪道

    紀伊国橋本(和歌山県橋本市)-河野村(九度山町)-極楽橋―不動坂-高野山女人堂(高野町)


  




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