岩室・晴美台地区の歴史
1.岩室・晴美台地区の歴史的変遷 『大阪府史』・『堺市史』参照
時 代 |
項 目 |
3世紀の末から 6世紀 |
古墳構築の全盛期を迎える。 百舌鳥耳原(もずのみみはら)の野に、大和朝廷の雄大な古墳が次々と築造。仁徳陵ほか大小あわせて約六十を越える古墳が存在。 新しい土木技術をもった大陸からの渡来人がこの付近に住みついて、古墳に必要な埴輪や祭祀用陶製器具の製造を担当した。5 - 6世紀代の須恵器の窯跡が数百基発見されている。土塔(どうとう)とか土師(はぜ)の地名がある。 |
8世紀 |
『日本書紀』(8世紀)に載っている「茅渟県の陶邑」(ちぬのあがたのすえむら)という「陶邑」は、旧大鳥郡の東陶器村、西陶器村と推定される。 登り窯は山の斜面に作るので、岩室の東西斜面、堺側・狭山側にも窯はあった。 |
859年(貞観1) |
陶器山で河内と和泉の民が須恵器を焼くまきの山をめぐって争う。 |
1100年ごろ |
平安時代後期から鎌倉時代初期には西高野街道が、堺の湊から高野山まで栄えていた。堺からは、20kmもなく、狭山まで旅籠はなかった?(三津屋の地名は、旅籠の名前だとか) |
1333年 |
南北朝時代、北朝側の陶器左衛門尉の居城(陶器城、東陶器小学校付近)は、南朝側の楠木正成の一族によって攻め滅ぼされた。後の陶器城は堺市田園にあったという。 |
1347年 |
楠木正行(まさつら)が、狭山の池尻城で足利軍と合戦した記録がある。 岩室砦(ローソン付近?)は、南朝方の砦として、北朝方(陶器氏)の陶器城・田園城に対する監視所。直ぐ東側には西高野街道が通り、北側より田園からの見野山、岩室に至る旧街道が通り、両街道を監視する役目。 |
1351年 |
南朝方の和田助氏と助重が北朝方の籠もる陶器城を攻めている。 |
1300-1600年ごろ |
室町時代から江戸時代には、商港堺と高野山との物資輸送でにぎわった。 岩室2丁目に、高野女人堂への里程を示す町石(一里塚)「女人堂十一里」が立っている。岩室と上今熊の三叉路には、天野街道の石標がある。 |
1524年 |
岩室墓地のなかで、一番古い五輪塔の年号。このころには、街道沿いに人が住み着き始めたようである。言い伝えでは、開拓百姓は、下(しも)地区の中井か永原であるとか。どうやら、北側から家ができてきたようであう。 |
1594年 |
池尻・岩室(池之原を含む)・今熊(上今熊を含む)などが北条氏の領地となる。(太閤検地) このころ岩室は、東西一つで、狭山の生活文化に属していた? |
1590年から1604年 |
信長と秀吉の紀州攻めや、大阪冬・夏の陣によって、観音院全焼。 |
1625年 |
陶器荘内岩室村(堺側)が、小出大隅守の領地になり、分割される? |
1672年 |
池之原も含め、岩室村(狭山側)として狭山藩であったが、1699年以降は岩室・今熊が天領として支配される。 |
1696年 |
岩室(堺側)は、徳川氏代官支配に戻る |
1705年 |
岩室(堺側)は、摩下小出山城守の采地となる。 |
1711年 |
岩室村の庄屋をしていた中林家(本家)が、池尻村、東野両村が大鳥池の水を争ったとき、これを仲裁したという記録もある。 |
江戸時代中・後期 |
西高野街道・天野街道で所轄が分かれ、西側は旗本領(陶氏)岩室村、東側は狭山の領地岩室であったとしての記録も残っている。 |
1868年 |
大阪府司農局の支配下となり、6月、堺県が発足。堺町大小路以北以南が堺県の管轄となる。 |
1869 年(明治2) |
狭山藩は廃止。河内と近江の領分は堺県と大津県に入る。 ここで、岩室は堺県として一つになる。 |
1880年 |
郡区町村編制法の施行により、大鳥郡が発足。また、岩室が分断される。 |
1881年 |
堺県が大阪府に合併される。堺側は、大阪府大鳥郡岩室村。 狭山側は、大阪府堺県三都村岩室。 |
1889年 |
堺市制施行。 |
1889年 |
大鳥郡福田村、北村、上之村、見野山村、岩室村が合併して、東陶器村が誕生。大鳥郡東陶器村大字岩室。 |
1896年(明治29) |
郡制施行で河内の国堺県狭山村、三都村が、南河内郡三都村大字岩室になる。 大鳥郡・和泉郡の区域をもって泉北郡を設置。泉北郡東陶器村大字岩室。 |
1931年(昭和6) |
狭山村、三都村が合併し南河内郡狭山村大字岩室になる。 |
1951年(昭和26) |
町制施行。大阪府南河内郡狭山町岩室 。 |
1955(昭和30)年 |
泉北郡久世村、西陶器村、上神谷村と合併して泉北郡泉ヶ丘町岩室。 |
1959年 |
泉ヶ丘町が堺市に編入。堺市岩室となる。 この際に、岩室の二分状態を、堺市に帰属させようと試みられたが、実現せず。 |
1966(昭和41)年 |
泉北ニュータウン起工式(3月) |
1967(昭和42)年 |
宮山台ニュータウン入居開始(宮山台4丁府営から)(12月) |
1969(昭和44)年 |
竹城台入居開始(1月)・泉北高校開校(4月) |
1970(昭和45)年 |
泉北1号線供用開始(4月)・若松台入居開始(4月) |
1971(昭和46)年 |
展望台オープン(1月)・泉北高速、泉ヶ丘駅まで開通(4月) 三原・茶山台入居開始(4月)・高倉台入居開始(11月) ニュータウンの人口、2万人超す(4月) |
1972(昭和47)年 |
晴美・槇塚台入居始まる。堺市晴美台。ニュータウンの人口、1万人超す 堺東高校開校(4月)、泉ヶ丘プール完成(7月)人口、3万人超す(4月) |
1973(昭和48)年 |
泉北高速、栂・美木多まで延伸 (12月)原山台入居開始(12月) ニュータウン人口5万人超す(2月)・ニュータウン人口6万人超す(9月) |
1974(昭和49)年 |
庭代台入居始まる(8月)・泉ヶ丘レーン(ボウリング場)、パンジョ・高島屋オープン(11月)。ニュータウン人口8万人超す(8月) |
1975(昭和50)年 |
光明池地区に入居始まる(赤坂台から) 陶器山ふもとに葬祭センターの構想(その後、住民の反対で取りやめ)(10月) ニュータウン、3万世帯に(3月)ニュータウン人口、10万人超す(7月) |
1977(昭52)年 |
鴨谷台入居始まる(4月)・泉北高速、光明池まで開通(8月) 城山台入居始まる(12月)・ニュータウン人口12万人超す |
1978(昭和53)年 |
光明台の入居始まる(3月) |
1979(昭和54)年 |
御池・新檜尾台入居始まる(4月)・ニュータウン人口、13万人超す |
1980(昭和55)年 |
高倉・晴美台小の校区分割方針(1月)・ニュータウン人口、14万人超す |
1981(昭和56)年 |
泉ヶ丘地区の人口減り出す(昭和55年度人口動態で) |
1982(昭和57)年 |
分離校の高倉台西・晴美台東小開校(4月)・プール学院短大が開校(4月) ベルランド病院オープン(5月)・ニュータウン人口15万人超す |
1983(昭和58)年 |
ニュータウン開発の法定事業終了。帝塚山学院泉ヶ丘中・高校開校(4月) 児童数、ピークに(赤坂台小で1800人超す)(4月) |
1984(昭和59)年 |
陶器山開通工事始まる(2月)ニュータウン人口16万人超す |
1986(昭和61)年 |
泉北南線、全面開通(4月)・帝塚山学院短大が晴美台に開校(4月) 陶器山トンネル開通。(6月)ニュータウン、5万世帯超す(11月) |
1987(昭和62)年 |
地下鉄中百舌鳥駅開業(4月) |
1989(平成1)年 |
泉北警察署がオープン(4月) 泉北の人口、初めて減少(前年度の住民基本台帳で)(4月) |
1991(平成3)年 |
堺泉北有料道路が開通(3月) 晴美台の府水道部泉北浄水池上部にテニスコート(4月) 阪和自動車道の美原北インター~堺インター間が開通(12月) |
1993(平成5)年 |
阪和自動車道が全面開通(9月) |
1995(平成7)年 |
支所名称「南」に決定(3月)・和泉中央駅開業(4月) ニュータウンの高齢者人口が1万人超える(6月) 泉北ニュータウンの人口、16万人を割る |
1996(平成8)年 |
独居老人の数(南福祉事務所管内)が2千人超える(3月) |
1998(平成10)年 |
泉北ニュータウンの人口、15万人を割る(3月末で) |
1999(平成11)年 |
泉ヶ丘駅前の展望台取り壊し(1月)・ビッグバンがオープン(6月) |
2000(平成12)年 |
ハーベストの丘オープン(4月) |
2001(平成13)年 |
「財団法人青少年の町」が解散(ヤングタウンの歴史に幕)(3月) |
2005(平成17)年 |
晴美台小学校と晴美台東小学校が統合、はるみ小学校誕生(4月) |
2006(平成18)年 |
堺市が政令指定都市に。南区誕生。堺市南区晴美台・南区岩室。 |
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