岩室の民俗伝承

  1. 概略

  ・岩室は、歴史的には1500年代から住民が住むようになったと思われる。それまでは、東西に走る西高野街道があり、すでに900年代からの街道であって、通行されていたようである。

   東側には、四天王寺から下高野街道が走り、おわり坂で合流する。少し北側の池之原から西に坂道を上がってくると岩室で西高野街道と合流し、また天野街道から和泉方面に南下することができる。

  ・人口も、明治9年には、290人。70戸。(大阪全史)

   昭和43年、推定71戸、280名。100年ほど経っても、ほとんど変化がない。

・耕地面積、明治8年、31町歩あまり。約10000平方メートル。ほとんどが、畑地で、山の斜面でミカンやブドウの果樹栽培をしていた。

 ・『堺市史』続第一編 「東陶器村では、昭和3年に大地主児山保之が、その所有の耕地約70町歩を小作人300人に全部譲った。」とあり、岩室村では、山株と称して7畝(約700㎡)ほどの株を持っていた家が、6軒あった。また、一説には、陶器村の共有山林を、陶器神社氏子36軒衆で分割したともいわれる。いずれにしても、村で古くから家があった家々であろう。言い伝えでは、開拓百姓は、岩本か中井であろうという。

  2. 農耕

   村の農耕は、二毛作が一般的であった。5月にもみまき。6月田植え。7月から、4回の草取り。近所数軒での「ゆい(結)」。11月初めの「あき」(稲刈)も「ゆい」で行った。同期に、麦の種まき、肥入れ。2月に麦踏み。4月おおよせ。6月に刈り取り(麦のあき)。そのほかに、なたね、薩摩芋、戦後昭和30年頃、サトウキビが村全体で栽培されて、製糖工場(永原氏)あり、村営製造されたこと
  がある。

   牛は、ほとんどの農家で飼っていて、毎年5月はじめ(田起こしの前)に、牛の養生講といって、一カ所に集め、爪を切って、牛まわし場(河野氏前)で回して連れて帰る。また、村には数カ所「牛つなぎ場」(1坪ほどの三角地)があった。(松井氏南側角に残存)。正月の「牛の雑煮」や、葬式には「牛の目隠し」など、大事にしていた様子が、うかがわれる。

   瀬戸内気候であり、また丘陵地帯で尾根伝いなので、川がなく、多くのため池が作られた。これらの池は、その池を利用する田の持ち主が共有する。(近年、水利組合となる)。そのため、水あらそいが絶えず、文献にも多く残されている。池之原に行くなかしん池、しりや池の水争いも有名。

   田の神。田植えの時「田の神さん」といって苗一束をススキに挿して、箕に入れ、赤飯・豆を入れて、麦こがし(はったいこ)を入れて、家の庭で祭る。正月のしめ縄のわらで苗をくくるという。そして、田植えの終わった日を「けかけ」。次の日を「けかけ(けつけ)休み」と言って、休む。その日から「ひのつじ(昼寝)」があり、八朔まで続く。

 

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