岩室山 観音院

岩室山観音院  高野山真言宗の仏教寺院。和泉西国三十三ヶ所霊場第八番札所。 
        
「和泉霊場第十六番」札所。 本尊は十一面観世音菩薩。

岩室山極楽寺観音院と号するが、本院の創立年代は明かでなく、大阪府編大阪府誌による
「西陶器村大字田園の西垣外に在り、僧行基の開基創建にして真言宗の無本寺たり、中世衰微し
て事歴詳かならず、只元禄年中僧観盛中興して今に至れりと伝ふ」と記載されている。
                             (現地説明板より)

当山の縁起は天平の昔、行基菩薩の開基と伝わり、阿弥陀菩薩を本尊とし厳室山極楽寺と
号した。その後、弘仁年間(810~24年)弘法大師が留錫の折り、十一面観音を彫り当
山に安置し、寺号を現在の岩室山観音院と改めたといわれる。

古伽藍図によれば、平安時代は七堂伽藍を完備、塔頭寺院を擁したが、豊臣秀吉の紀州攻
め等の数次の兵乱にあい、一山堂塔は灰燼に帰した。幸いにして阿弥陀如来、十一面観世音
菩薩の尊像はそのたびに難を免れて、慶安3
(1650)年に全国でも珍しい「担い堂」形式
の本堂、阿弥陀堂が建立されました。江戸時代には、京都御室御所の御法流寺の格式を持ち
近畿一円に多くの信徒を有した。

         

  現在では、極楽寺の多くあった塔頭の1つであった観音院が、本尊の十一面観音が諸仏
の中で最も大事にされたため、観音院の名で全体を呼んでいる。

本尊の十一面観音立像は観音堂の厨子に奉安される秘仏で、開扉は8月10日の「千日
祭」のみでこの日に拝すると千日参拝したのと同様の御利益があるという。阿弥陀堂に安
置される阿弥陀如来坐像と共に大阪府指定文化財になっている。境内にある鐘楼の釣鐘は
安永6年(1777)3月3日の銘があり、富田林の鋳物師田中記右衛門藤原信就により
製作されたもので、第二次大戦のときにも供出を免れ毎年除夜の鐘を鳴らしている。
 (堺市)

  戦国の兵乱や大阪の陣などで兵火に遭い焼失、灰燼に帰したが、阿弥陀如来や十一面観
音はその度に難を逃れ、堂塔は江戸時代初期の1650年(慶長3年)に再建された。現
在の堂宇は「担い堂」形式を残して平成9年に落慶された。

「天野街道」は極楽寺の大門から始まり、天野山金剛寺で終わる。 街道の両端に位置す
るゲートのような寺院だったらしい。


 ネットで検索し、もりひろさんのブログをリンクしました。   

http://morihiro01.dreamlog.jp/archives/1762305.html

観音院境内にある石造物
  熊野権現・・堂内には、石段の上に神体をおさめた堂宇がある。お堂の前には南北にならんだ1対の石灯籠と、東西にならぶ1対の狛犬がある。石灯籠に は、一方に「宝燈;文政二年(1819)夏六月;□俗称□右衛門□□応物 / □□□右衛門□□信道」と刻み、ほかの一方に「宝燈;文政二年夏六月;此俗称作右衛門□□応物・・・・」と刻む。狛犬の一方には、台石1に「奉献」、台石 2に「九月吉日建立」と刻み、ほかの一方の狛犬には、台石1には「奉献」、台石2には「天保六乙未星(1835);施主 / 何某」と刻む。



  熊野権現の鳥居、石灯籠、百度石
岩室観音堂から熊野権現への参道に、石の鳥居、石灯籠、百度石がある。鳥居には、左の柱に「施主堺甲斐町・・・」、右の柱には「元文三戊午(1738)四月十一日・・・」と刻む。石灯籠には、「権現宮;岩室村 / 氏子中;明和五(?)年(1766?)九月日」と刻む。また、百度石には「明治廿四年(1891)十月;施主西中林」と刻む。



水子地蔵、宝篋印塔、石灯籠
岩室観音院の庭に入っていく。台石に「水子観音」と刻む比較的新しい水子観音がある。
その後ろ、鐘楼前の石段の両側に1対2基の石灯籠がある。「元禄五壬申(1692)/ 二月吉祥」と刻む。
さらに宝篋印塔が 1基立つ。塔身に金剛界四仏種子、基礎の部分に「法界;礼拝供養 / 八十億劫 / 生死重罪 / 一時消滅;修多羅日 / 若有有情 / 能於此塔 / 一香一華;享保十七壬子年(1732)/ 十月廿四日」と刻む。



  石灯籠
鐘楼の左手、植込みと案内板の間に1基の石灯籠がたつ。竿の部分に「奉寄進石灯籠;正月吉日 常屋六兵衛 / 同徳兵衛? / 元禄三午年(1690)施主堺」と刻む。市内の石灯籠のうち、もっとも古いものである。



  地蔵石仏
鐘楼の北側の堂宇内に7体の地蔵石仏が たつ。
Aには銘文がない。
Bは「施主当村観音経姉弟等 / 享保?十乙巳年(1725?)三月吉日」、
Cは「元文四己未年(1739)/ 十一月十八日;法界」、
Dの182cmの地蔵は「無縁法界 / 法眼鏡音」と刻むが、
E、Fには銘文がない。Eの仏像は二十仏で、角柱の4面にそれぞれ5体ずつ仏像が浮き彫りされている。子安地蔵であるといい、前掛け を夜のうちに黙ってもらってきて、枕の下に敷いて寝て、また黙って返すと子どもが授かるという。最近は観音院にことわって前掛けを借り出す人も多いとのことである。Fが、小谷池の地蔵さんか?
なお、7体めはFの後ろに置かれている。銘文の存在は確認していない。おそらく赤坂の手前の池のところにあったもの。



  百度石
岩室観音院の山門を入った参道に、百度石がたつ。「百度石;嘉永七寅(1854)二月施主当村 / 勘右衛門…」と刻む。…の部分には、「熊次」「辰□」「長兵衛」「嘉兵衛」「忠右衛門」などの名前が読み取れる。



  三十三度供養塔宝篋印塔
聖 霊殿横に213,5cmの三十三度供養塔宝篋印塔がたつ。塔身に金剛界四仏種子が刻まれているが、基礎や基壇に多くの名前が列挙されているのが特徴であ る。まず基礎には「奉納西国三十三度供養塔 / 癸天明三歳(1783)/ 卯三月十六日」という銘文に加え、『宝篋印塔陀羅尼経』の一節とともに男女5名の戒名がみえる。また、三段の基壇の最上段にも「願主正圓」のほか、18名 の戒名が刻まれている。基壇の2段目には「施主岩室村忠左衛門 / 喜兵衛 / 作右衛門 / 治良兵衛 / 五兵衛 / 忠兵衛」、裏に「施主 / 今熊村新左衛門 / 当村兵左衛門 / 池原村紋左衛門 / 北村庄兵衛」、左面に「世話人 / 茂兵衛 / 利兵衛」、右面に「左山池尻村 / 塔施主 / 黒岡重兵衛 / 同妻」と人名が続く。「佐山池尻村」「池原村」「今熊村」などの村民の名前から、大阪狭山市の人びとが関わった石造物は興味をひかれる。なお、三十三度供養塔とは、西国三十三か所の巡礼を33回なしとげた満願成就の供養塔である。西国三十三度行者に、明治41年(1908)から大正8年(1919)まで宿を提供した
家が、述べ軒数で池之原(岩室を含む)32、東野20、茱萸木11であったといいう記録がある。



  宝篋印塔
植込みの真ん中に、もう1基宝篋印塔が ある。192.5cmの高さがあり、塔身に金剛界四仏種子と、基礎部分に「法界;礼拝供養 / 八十億劫 / 生死重罪 / 一時消滅;修多羅日 / 若有有情 / 能於此塔 / 一香一華;河州茱萸木村 / 施主 / 朝田作右衛門 / 正徳四甲午(1714)二月」と刻む。施主は、大阪狭山市に関わる人だ。

これらの宝篋印塔は、村のあちこちにあったものを、本堂境内改築時に、集めたものである。

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