陶器城

 堺市の説明板内容(陶器北にある公園)

陶器城は、鎌倉時代の終わり頃北条氏の家臣陶器左衛門尉の居城でしたが、元弘3年(正慶2年・1333)1月15日に楠木正成一族に攻め滅ぼされました。また、正平6年(観応2年・1351)7月には、南朝方の和田助氏と助重が北朝方の拠る陶器城を攻めています。室町時代以降の陶器城は、恐らく戦国期に改修を受けたのではないかと思われます。現在でも城跡の遺構がよく残っており、陶器城跡に近接して、同時代の小角田(こかんだ)遺跡があり、城跡との関連性が注目されます。
                        1994年3月堺市教育委員会

陶器北と上之(「地名あれこれ」より抜粋)

 陶荒田神社を中心に、その北にある村から北村、上にあるから上之村とつけられたという説もあります。その北村が現在陶器北となったわけで、当地は「前城」(マエンジョ)「土居」「小角」(コカド)などの古い地名も残され、むかし砦(とりで)のような(中世に陶器城がありました)城のあった事が偲ばれる。 

「陶邑東陶器村西陶器村の歴史」中、近世よりの抜粋

慶長年間から元禄九年(1696)までは小出秀政の孫、小出三尹(一万石)の陶器藩が同地に陣屋をおいている。元禄九年に陶器藩は断絶。宝永二年(1705)小出三尹の四男、小出尹明の孫(尹従)が旗本(五千石)として復帰す。前陣屋消失と大阪湾防備を理由に、文政四年(1821)新しく田園字琴野に1472坪を求めて陣屋を建設、文政六年に完成。

 堺市発行の「堺市文化財地図」には陶器城跡(北村砦跡)と記されている。元この地は「北村」、そこで通称「北村砦」と呼んだのかもしれない。ややこしいがこれと別に田園の琴野にも田園陣屋(小出藩)があり、近くに古城「陶器城」があったという。前期陶器藩はこちらの陶器城付近に陣屋を構えた。後期陶器藩が陣屋を田園においたと思われる。

 http://www.geocities.jp/kitamejirou/new_page_22.htm

岩室砦 府道の北側付近が砦跡?(場所的に、一番小高いのは、坂口家あたりか?)

  泉北ニュータウンから狭山に抜ける、府道34号線の「岩室西交差点」付近が砦跡。跡地は高台になり、狭山方面から見ても高台に位置する。後に千早赤阪城をかまえた南朝方の砦として、北朝方(陶器氏)の田園城に対する監視所的な砦だったのかもしれない。泉北丘陵の東端に位置した南朝方の砦だった。直ぐ東側には西高野街道が通り、北側より田園からの旧街道が通る。両街道を監視する役目も合せ持ったのかも。

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