仏教の「寛容」について

○いまずっと読んでいる五木の「百寺巡礼」第4巻に「仏教の寛容(とれらんす)」につ いての記述に出会いました。先週、久しぶりに身震いするような感動でした。ここにちょ っとだけ紹介します。

わたし、自分にないものや無かった発想に出会うと、むちゃ感動し ます。そうなんだ!!『以前は、免疫とは、非自己に対して拒絶反応を行う作用だと考えられてきた。

免疫には 「拒絶」という言葉がつかわれていたのである。しかし、免疫のいちばんあたらしい働き は、非自己と自己を分けることだといわれている。』・

・『さらに、妊娠中の母体は胎児 を拒絶しない。胎児は母親とは遺伝子も血液型もちがう。非自己であるにもかかわらず、 免疫の体系はそれを拒絶しないのである。』『つまり、胎児の場合は、非自己であっても 受け入れる。これを「寛容(トレランス)」という。』『自分の信じる唯一の神を大切に しながら、他の人びとの信じる神も拒絶しない。』  

これからの生き様も含めて、「寛容」という理念うを大事にしたいですね。


○梵網経の経文の中に「菩薩波羅夷罪」(ぼさはらいざい)という言葉が、何度もでてきます。
ある人の解説によると

梵網経の十重禁戒は、一般的な意味での戒とは異なり、これを破ることは菩薩として許されない重大な罪、菩薩波羅夷罪(ぼさつはらいざい)」である、と『梵網経』では強く断罪されています。

波羅夷とは、サンスクリットまたはパーリ語「パーラージカ」の音写語で、「不応悔罪(ふおうけざい)」あるいは「断頭罪(だんとうざい)」との漢訳語があります。これを現代語にすると「懺悔しても許されない罪」あるいは「死罪」となりますが、これらは「律の用語」です。

律蔵において、波羅夷罪とは、「性交渉・殺人・盗難・宗教的虚言」の四つに限られるものであり、これらの内いずれか一つでも、仏教の正式な出家者である比丘が犯せば、その者はただちに僧侶としての資格を失い、僧団から追放に処せられ、二度と比丘になることは出来なくなります。

ゆえに「懺悔しても許されない罪」あるいは「(僧侶としての)死罪」なのです。

○『梵網経』では、この波羅夷罪に十項目を挙げ、それを犯すことは「菩薩の波羅夷罪」であると説いています。では、律と同様に、これらの戒を破ることを、「懺悔しても許されない罪」あるいは「(菩薩としての)死罪」としているかというと、違うのです。『梵網経』では、これらの罪は、礼拝や読経などを繰り返すことによる懺悔を行い、その期間に何事か吉祥なる現象「好相」に遭遇したならば、許されるとしているのです。

そうです。仏教の「戒」は、戒めや刑罰というよりも、やはり生きる目標であって、指針。そして、たとえそれが死罪に値するとしても、「懺悔」し続け、ひたすら「行」ずることによって、「認められる」のではなくとも、「生きる」ことにおいて、仏の子として、存在は否定されない。

■遍路で学んだことに戻る     次の話 ⇒