寒山拾得 仏教の勉強室

私が「寒山拾得」に出会ったのは、教師になりたてのころに漢文の教科書に「寒山寺」の詩があった時です。どこかで「寒山」ということばを見たことがあって、森鴎外の『寒山拾得』という短編小説を思い出し、読み返すところからです。

 青空文庫をコピーしました。 『寒山拾得』森鴎外

●今から、20年も前のこと。縁あって、伊賀上野の榊莫山先生のお宅に行かせていただいた事があります。ご自分が焼かれたという、伊賀焼きのお茶碗でお抹茶をいただき、また書斎を見せていただきました。



学生時代、自分があまりにも字が下手で、いくら練習してもうまくならないので、邪道ですが莫山流を勝手に真似るようになって、以来書道の師として、また先生の豪放磊落なお人柄にも魅かれて、関心を持つようになりました。その憧れの先生にお会いできたのです。

 ご自分の白髪で作った筆。
 お子様を亡くされたとき、その涙で地元の虚空蔵菩薩の寺院絵馬を書かれたとか。……

 計り知れない人生の重さを背負いながらも、屈託なく豪放に過ごされているお元気な先生もまた、寒山・拾得なのでしょう。
あの時は、相田みつを氏の「土」と同じ、「土」の字の書を書斎一杯に書かれていました。落款無しだから好きなの持って行っていいよなんてね。大阪の短期大学で講座を持っておられたので、教え子にも受講するように勧めたものです。



●平成16年1月31日(土曜日)西国薬師49箇所 第40番 瑠璃山雲龍院 京都府京都市東山区泉涌寺
にお参りしました。当時は、薬師巡礼の参拝でした。その時の手記です。

ときおり霧雨が降る曇天の寒い朝。9時前に門をくぐり、木鐸をたたき朝一番の参拝客となりました。にもかかわらず、笑顔で丁寧に迎えられ、早速お薬師さまの本堂にお参りしました。

さすがに北朝時代の天皇家の菩提寺です。京都今熊野の山中に佇む格調も気品も漂う泉涌寺別院です。まず、感動したのは「薬師本願功徳経」本がそこにあり、読めないながらも拝読させていただきました。

ここは、写経の会があるようで、本堂には朱で書いた多くの方の写経が奉納されてあります。今度、させていただこうと思います。つたない般若心経の折、自分の息が白く見え、この気持ちが如来に通じていると実感しました。

お庭を拝見しようと、お部屋に入りますと床の間にある三幅の軸にわが目を疑いました。長い間忘れていた、あの「寒山拾得」です。



江戸期の俳諧師の画、無知なわたしには作者のことは分かりませんが、おそらく南画の文人画系統ですね。ユーモラスな仕草で、一目で「寒山拾得」だと分かりました。

しばし、緋毛氈に腰を下ろし一服していますと、ふと入り口で人の気配。振り向くと、小学校2.3年生の男の子が覗いています。

その時、何の躊躇もなく「おはよう」と言えました。彼もまた「おはよう」っていってくれましたが、すぐに消えてしまいました。……

・・・・・・きっとどちらかですよ。寒山か、拾得か。私には、初めてのことです。私の前に、現れたんですよ。



榊 莫山 (画像UPゆるしてください。)私の居間に20年飾られています。


    寒山拾得図 (南宋) 伝 顔輝 Ganki 


●良寛和尚の寒山・拾得がいます。
http://www.nagaragawagarou.com/sakuhin/ryoukan-e184.html


●寒山拾得図  梁楷 Ryohkai (南宋)


●寒山寺(中国)の古詩です。今も高校の教科書にあるのでしょうか?



月落ち烏啼いて霜天に満つ 江楓の漁火 愁眠に対す 
姑蘇城外の寒山寺      夜半の鐘声 客船に到る

これは唐の詩人「張継」の詩です。

●寒山寺といえば、「寒山と拾得」の物語が有名で、昔、蘇州と遠く隔たった村に、二人の若者が住んでいた。二人は幼なじみで姓も名も違うが 肉親の兄弟よりも親しかった。年上の寒山は、家が貧しく、早くに両親に死に別れたため、子供のころから豚の屠殺の技を覚えた。30歳になって近所の人から縁談が持ち込まれ、三里ばかり離れたところにすむ娘と結婚することになった。娘も働き者で一頭の豚を飼っており、その豚を 結婚祝いに殺すつもりであったが、寒山しか屠殺するものがおらず、彼に頼むことにした。寒山は拾得を伴って娘の家に向かい豚を屠殺し、娘はその豚でご馳走をこしらえ3人で祝いの夕食をとった。どういうわけか拾得は何も話さず、寒山はきっと娘も拾得もはにかんで黙りこくっているのだと思っていた。寒山にはまだ十里も離れたところへ屠殺にいかなければならず、拾得に 「食事の後片付けをして家に帰りなさい」と伝え娘の家をでた。道を急いでいた寒山は豚の毛を剃るカンナを忘れたのに気がつき、急いで来た道をひき返した。ひき返すと娘の家の門は閉まっており、中から娘のすすり泣く声と拾得と娘の会話が聞こえてきた。

 「もう泣くなよ。兄さんは僕らのことをぜんぜん知らないんだ」   
 「もし知っていたら引き離すようなことを決してしないよ」
 「じゃーなぜ兄さんにうちあけなかったの?」    
 「決まったことだし、絶対幸せになれるよ」。。。。

二人の会話を聞いて寒山は結婚することをあきらめ「拾得と娘」を結婚させるため自ら出家の道を選んだのだった。 拾得は考えたあげく結婚をあきらめ寒山と同じ僧侶になることを決心し、寒山を探すたびに出る。何の手がかりもなくやせこけた拾得は蘇州にたどり着きそこで寒山に再会するのです。そして楓橋の袂にお寺を建て「寒山寺」と名づけたそうです。言い伝えによると、拾得はその後、仏教を広めるために日本に渡ったそうで、今でも日本には「拾得寺」、蘇州には「寒山寺」があります。

2人を普賢菩薩と文殊菩薩に例える伝承もあります。多くの人に見染められたようです。


四睡図 (寒山・拾得・豊干・虎)  黙庵 Mokuan  14世紀中葉

●前述した、森鴎外の『寒山拾得』は、彼にしては珍しい仏教文学です。でも、あの榊莫山先生もこの文章に何かしら触発されたのではないかと推察します。莫山「寒山拾得」絵には、「海行こか 山行こか」とあります。「空行こよ」がいいですね。
坪内逍遥や芥川龍之介も関連の書があるようです。

●私がFBを始めたのは、他のブログのように、ネットで知り合った友人たちとの交流を目的にしていません。ずっと尊敬する方々や、実際に面識があり、心許せる友人であったり、今は離れて暮らす子供たちに「元気に暮らしてるよ」メッセージを込めて、日常を書いています。で、プロフィール画像をどうしようか模索していた時、毎朝村の道のゴミ拾いをして(孫が泊まったときは一緒に)、家の前の道や庭を箒で掃いています。思い出したのが、赤塚不二夫の『バカボン』に出てくる「レレレのおじさん」です。

 

そうです。「掃除」と「読書(勉強)」は、仏道の修業ですよね。四国88ケ所を回るようになって、72番出釈迦寺の本堂のかもいに、「箒と巻物」の彫り物がかかっています。そう、拾得が箒を持っていますよね。かれが、「レレレのおじさん」なんですよね。「バカボン」って、漢字で書くと「婆伽梵」または「薄伽梵」と書きます。意味は「煩悩を超越した徳のある人」ブッダや目覚めた人ということです。赤塚が実に巧妙に名付けたんですよね。



●退職してかなり時が過ぎました。でも、ずっと掃除と勉強は続けたいですね。私の原動力は、この「レレレのおじさん」であって、「寒山拾得」でありたいと思っています。

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