1月17日は、阪神淡路大震災の日です。

もう28年も前になりました。京阪神に住んでいる者にとっては、この日は忘れられない日です。


阪神・淡路大震災(はんしんあわじだいしんさい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .

1995年(平成7)1月17日午前5時46分、兵庫県を中心として阪神地方に甚大な被害を与えたマグニチュード7.3(2001年精査前はマグニチュード7.2)の巨大地震災害の一般的な呼称(災害名。政府の発表による)。

地震の名称は兵庫県南部地震である(自然現象としての地震の名称で気象庁の発表)。震源は兵庫県淡路島北部、北緯34度36分、東経135度02分、震源の深さ16キロメートル、淡路島北部から神戸方面に続く活断層のずれによって発生した。

この地震により神戸と洲本(すもと)で震度6を観測したほか、東北地方南部から九州地方の広範囲で有感となった。活断層の走っている一部地域では震度7の激震が起こっていたことが判明した。

この地震による被害はきわめて甚大で、総務省消防庁の2005年の発表によれば、死者6434人、行方不明者3人、負傷者は4万3792人にのぼる。また家屋の被害は全壊10万4906棟、半壊14万4274棟、一部破損26万3702棟となっている。

災害はとくに神戸市に集中し、中心部の長田(ながた)区では2日間延焼して、区全域が灰燼(かいじん)に帰した。木造家屋ばかりでなく耐震設計の鉄筋アパートやビルまで倒壊し、ライフラインの電気、ガス、水道、電話などが壊滅、道路、鉄道などの交通網の寸断、液化現象による人工島ポートアイランドの沈下、日本最大のコンテナバース(岸壁)の崩壊など、都市機能と経済基盤が破壊された。被害は淡路島をはじめ、神戸市、芦屋(あしや)市、西宮市、尼崎市、宝塚市、大阪府など阪神一円に及んだ。


思い出しましょう。

毎年、すくなくとも1月17日には、薄れゆく記憶を取り戻して、しっかり思い出したいものです。そして、犠牲になった方々のみならず、いまもってその被害をこうむっておられる方々や、ご家族の方々がおられることを、しっかりと認識しておきたいと思います。

もう28年経つのですが、被災者住宅が徐々になくなり、また役所が借り上げた住宅の期限が20年ということで、住民と役所が困惑している様子が報道されています。震災住宅に住む高齢者支援制度が無くなるそうです。東日本大震災で今、そういう住宅に住んでおられる方々が、また10数年経ったとき、同じようなことが起きるのでしょうか。心配です。


あの時、私は

 朝、私は毎朝仕事の関係で早く起きていました。6時前ですから、起きていました。そうしたら、急にドンと持ちあがるような感じとともに、物凄い揺れが起こりました。すぐに立ち上がって、居間の本棚を抑えていました。二階に寝ていた子供たちが、転がるように階段を下りてきて、台所の食卓の下にもぐっていました。少し遅れた長女が、机の下にもぐろうとすると、次女が必死に押し出しているのが、ある意味滑稽でした。

 なんとか揺れがおさまって、まだ揺れているような感じの中で、私は急いで出勤の準備をし、車で向かいます。6時過ぎには、家を出ています。子どもは、長男は歩いて2.5km。駅で電車を待っていたようですが、長い間待っても来なくて、また歩いて家にもどったようです。娘たちは、休ませました。テレビの報道では、次々に悲惨な状況が映し出され、世の中の混乱が想像されます。

 私の車は、すぐにどの道も大渋滞。20kmほどのところを、結果的には、3時間30分かかりました。途中で、まだ携帯電話が通じていましたので、勤務場所に近い人から順番にかけて、すぐに向かうように指示していました。途中から、その電話もパンクして通じなくなりました。天王寺駅の周辺では、どこまで行くのか、たくさんの人が、徒歩で会社に向かっています。地下鉄各線。JR環状線、関西線、紀勢線。近鉄。全線が止まっていて、みんな歩いています。

 ラジオからは、次々に被害状況が報道されています。私は、知っている限りの裏道を通って、勤務地へ。やっと到着したのは、10時前です。職場には、4人の人が着いていました。早速被害状況の点検、報告です。新築のビルなんですが、7階階段の手すりが砕けています。地下の貯水タンクが漏水。電気系統への影響が心配。すぐに防水対策。あちこちのガラスが破損。ま、その程度で済んでいい方です。隣の古い弁護士会館は、ガラスがすべて割れて、通行が危険です。私の上司が到着するまで、昼まで全責任を私が負っていました。きつかったですね。(おかげで、危機管理の意識も、方法も少しは身に付きましたが。)

 それからは、今度は支援や受け入れの問題です。大阪市内の単位制の夜間までやっている高校です。いろんな生徒がいます。遠くから通っている生徒もいます。みんなで募金を募ってそれを支援金として、何人かの生徒、教員が毎日水や食料をリュックに背負って、歩いて神戸まで通っていました。被災者の引っ越し・転校生徒の受け入れ。なかには、母親を亡くした生徒も。ずいぶん長い間、関わりました。

 大学に、このボランティア活動での特別推薦合格者もいました。その生徒が、卒業式で舞台に上ってみんなに感謝の言葉を言うのを、私は司会をしていて、その権限で許可しました。みんなで、泣きました。

 みんなよくやってくれました。神戸の街が、私が通勤している道から、毎朝見えます。大阪湾の向うなんですが、何日も何日も煙が上がり、最初の内は炎も見えていました。

 その後、淡路島の災害場所の見学や、神戸の災害センター、大阪の防災センターなど多くを見学し、いろいろ学びました。私の兄は、当時電鉄会社の広報担当でした。でも、なにか感じるものがあったのでしょうね。早期退職し、都市防災の専門家になりました。全国で、防災士の資格講習をしたり、防災の講演をしたりしてもしています。

 多くの人が、人生を変えました。そして28年、一つの時代を越えました。神戸の街は、都会と言うこともあって、物凄い速さで、見かけの復旧をしました。もう当時の様子を遺すものは、皆無に等しいです。時として、忘れてしまいます。

 当時までは、毎年9月1日(関東大震災の日)に、国の震災記念日として、若者に防災の話をしていました。教育の一環としてです。でも、あの震災以後、毎年1月17日の朝には、みんなに話題として提供し、冥福と復興・防災と、そして「生きる」ことの意味を考える話を心がけました。

 そうしたら、今度は、3月11日に、またあの悲惨な大地震・大津波がやってきたのです。東北は、場所や生活の違いもあるのでしょうか、かなり復旧が遅れています。地震だけでなく、火山の噴火や台風などの災害もあちこちで起こり続けています。

 いまいちど、あの時の自分の思いや行動を思い出して、いまからどうあるべきか、なにをなすべきか、考えましょう。