☆ 破門されました

 最近、二人の先達(ネットでお世話になったお坊さんたち)に続け様に破門されました。「仏教の勉強」は、仏教の正道に近づけないということでしょうか?お叱りを受けたのではなく、「ご縁」を切られてしまいました。師よ、いつかまた認めていただける境地に至ります。どうか、見守ってください。

 原因は、最近のBBSにおける会話内容です。いろいろな出来事に、深く思うことなくやりとりをしていました。日常にこそ、本音や本性が現れるものです。

 思い起こすに、本来の仏法の教えに基づく発想や思いとかけ離れた、世俗通念のおける感覚そのものが露呈していたようです。身を挺して師から教えていただいたのです。

 八難がそれほどに、自分を塞いでいるのだと、へこんでいます。わたしは、ただの無知な仏教興味者にすぎないと打ちのめされました。どうしても、授戒を受けられない抵抗は、きっとここにあるのだと思います。少しの知識を得ただけで、全部受け売りで、真の信仰心が目覚めたわけでなく、エエ格好に、おごっていました。(みんなにおだてられて、天狗さんでした)。 (しかってくれる人が、周りにいることにも感謝です。)

 弁解はいたしますまい。されど、いまだ「解脱」の境地に至らず、頭でわかっていても、『発心』に届きません。なぜ?という疑問が湧き出てきます。いつかその境地にいたれるように励みたいと思います。

 『俗な あまりにも俗な世界に生きています。』 

 あるHPからの引用です。
 『 仏陀の教え』に「三途八難」という教えがあります。仏教では、八難が説かれます。仏を見ることができず、法を聞くことができない境界が八種あるというのです。八難とは、仏を見ず、仏法を聞くことができない境界が八種あるのをいいます。


 三途八難

  1)地獄  
  2)餓鬼  
  3)畜生(以上三悪道は苦痛が激しいため仏の声が届かない)
  4)長寿天(長寿を楽しんで求道心が起こらない)
  5)辺地(ここは楽しみが多すぎる。人間の欲望がうずまいている世界。)
  6)無感覚(見る、聞く、話す、嗅ぐ、触れる、味わう、思うに欠陥があるため、仏の価値に気づかない)
  7)世智弁聡(世俗智にたけて正理に従わない)
  8)仏前仏後(仏が世におられない時期(末法))

 その一つに「世智弁聡」があります。これは、世俗にたけて、仏の正法を信じられない人のことです。あまり世渡りばかりにうつつをぬかしていると、大切なことを見逃してしまうのです。「近年の人の心世智辛くなりてより」「世智辛い」とは計算高い、こざかしい、抜け目がないなどの意味である。「世智辛い世の中だ」とは、人々が打算的になって、世渡りがしにくくなることをいいます。この「世智」が仏教語で、世智は世間智ともいい、俗世間の凡夫の智慧のことです。
 
 世渡り才能とは、要するに抜け目なくて、勘定高いことに他なりませんから、現在使われているような意味となったのでしょう。世智賢い、世智にたけているという語句も同じ意味です。

 世智弁聡

 仏教用語に世智弁聡、または世智弁という言葉があります。これは宗教的な世界観を感得することのできない境界を意味する八難の一つです。自身の頭であれこれと考えて、仏の教えに対してなにかと理屈を述べる者に与えられたものです。

 世の中の理屈をよく知っているがために、仏の世界に楯突く輩というのはいつの世もいるものです。しかし、あくまでそれは「仮」の世界のことであって、無上正等覚の境地を知らないからこそなのだ、そのように仏教世界では捉えます。

 「常識人」というご批判をうけました。そんな人間に仏教を語る資格も、値打ちもないという痛烈なお言葉。


 禅宗のお経に
  『開甘露門(施餓鬼)』甘露門(施餓鬼) というお経があります。施餓鬼供養のお経でしょうか、
  ここに『三途八難』という言葉が出てきます。

 若人欲了知三世一切仏
     若し人が三世に亙る一切の仏を了知せんと欲するならば。
 応観法界性
     応に法界の性を観察すべきである
 一切唯心造
     すなわち一切の物質・現象は唯だ心が造ったものである。
 南無十方仏。 南無十方法。 南無十方僧。
     十方の仏に帰依し奉る。十方の法に帰依し奉る。十方の僧に帰依し奉る。
 南無本師釈迦牟尼仏
     根本の宗師である釈迦牟尼仏に帰依し奉る。
 南無大慈大悲救苦観世音菩薩
     大慈悲を垂れて衆生の苦を救い給う観世音菩薩に帰依し奉る。
 南無啓教阿難尊者
     世に釈尊の教えを啓蒙した阿難尊者(アーナンダ)に帰依し奉る。
 南無薩婆  @@伽多  @盧枳帝  @
     一切の如来(タターガタ)によって観察されたものに帰依し奉る。オウム。
 三摩@ 三摩@ 吽
     あまねく集い給え あまねく集い給え フーン
 南無蘓@婆耶 多@伽多耶 多姪@  @ 
     色身如来に帰依し奉る。例えば以下の如し。オウム。
 蘓@ 蘓@ 婆耶蘓@ 婆耶蘓@ 娑婆訶
     依止せよ(進み出でよ)。依止せよ(進み出でよ)。
     よく依止せよ(進み出でよ)。よく依止せよ(進み出でよ)。スヴァーハー。
 南無 三曼多没駄喃 梵
     一切の真理に目覚めた人に帰依し奉る。ヴァン。
 南無宝勝如来 南無多宝如来
     宝勝如来に帰依し奉る 多宝如来に帰依し奉る
 南無妙色身如来 南無広博身如来
     妙色身如来に帰依し奉る 広博身如来に帰依し奉る
 南無離怖畏如来 南無甘露王如来
     離怖畏如来に帰依し奉る 甘露王如来に帰依し奉る
 南無阿弥陀如来 南無阿弥陀婆耶
     阿弥陀如来に帰依し奉る 阿弥陀仏に帰依し奉る
 多@伽多耶 @膩耶@
     如来に祈る、 咒を説いて言えば。
 阿弥@ 都婆毘  阿弥@@ 悉耽婆毘
     甘露より発生するものよ。甘露の成就より発生するものよ。
 阿弥@@ 毘伽蘭帝 阿弥@@ 毘伽蘭@ 伽弥膩
     甘露にして勝利する者よ、甘露と勝利によって行くものよ
 伽伽耶  枳@伽@  娑婆訶
     虚空の名誉、所作をなすものよ、スヴァーハー。
 神呪加持浄飲食 普施恒沙衆鬼神
     神呪を以て加持し飲食を浄める。普く恒沙(ガンガー)衆の鬼神に施す。
 願皆飽満捨慳心 悉脱幽冥生善道
     皆なが飽満して慳貪の心を捨てんことを願う。悉く幽冥を脱して善道に生じよ。
 帰依三宝発菩提 究竟得成無上覚
     三宝(仏法僧)に帰依し菩提を発し。究極の無上正等覚を得よ。
 功徳無辺尽未来 一切衆生同法食
     功徳が無辺なららば未来を尽くし。一切の衆生は法食を同じくせん。
 汝等鬼神衆 我今施汝供
    汝ら鬼神衆よ。我は今汝に供養を施す。
 此食遍十方一切鬼神供
    此の食(アーハーラ)は十方に遍し一切の鬼神に供する。
 以此修行衆善根 報答父母劬労徳
    此の修行衆の善根を以て、父母の苦労の徳に報い答えん。
 存者福楽寿無窮 亡者離苦生安養
    生けるものは福楽にして寿命窮まり無く、死せるものは苦を離れて極楽に生じよ。
 四恩三有諸含識
    《父母・衆生・国王・三宝》の四恩、
    《欲有・色有・無色有》の三有および諸々の含識(八識)。
 三途八難苦衆生
    《地獄・餓鬼・畜生》の三途、
    《地獄・餓鬼・畜生・長寿天・聾盲・世智弁聡・仏前仏後》の八難が衆生を苦しめる。
 倶蒙悔過洗瑕疵 尽出輪廻生浄土
    共に懴悔し行ってしまった罪科を洗い清め、輪廻を出で尽くし浄土に生まれん。
 願以此功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道
    此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆な共に仏道を成ぜんことを。
 十方三世一切諸仏諸尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜
    十方三世一切の諸仏、諸尊菩薩、摩訶薩、摩訶般若波羅蜜


 また『御文章』(親鸞)の中に、以下のような記述があります。

 二帖目第一通
 『そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細細に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。それについて、女人の身は十方三世の諸仏にもすてられたる身にて候ふを、阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候へ。

 そのゆえは、女人の身はいかに真実心になりたりといふとも、疑の心はふかくして、また物なんどのいまはしくおもふ心は、さらに失せがたくおぼえ候ふ。ことに在家の身は、世路につけ、また子孫なんどのことによそへても、ただ今生のみにふけりて、これほどに、はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかひとしりながら、ただいま三途八難に沈まんことをば、露ちりほども心にかけずして、いたづらにあかし暮らすは、これつねの人のならひなり。あさましといふもおろかなり。

 これによりて一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神・諸仏に追従する心もみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかるわれらがごときあさましき女人のためにおこしたまへる本願なれば、 まことに仏智の不思議と信じて、わが身はわろきいたづらものなりとおもひつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。

 さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり。またこの位を、正定聚に住すとも、滅度に至るとも、等正覚に至るとも、弥勒にひとしとも申すなり。またこれを一念発起の往生定まりたる人とも申すなり。かくのごとくこころえてのうへの称名念仏は、弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる、その御うれしさの御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。これについて、まづ当流の掟をよくよくまもらせたまふべし。

 そのいはれは、あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくおさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。

 一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。かくのごとく信心のかたもそのふるまひもよき人をば、聖人(親鸞)も「よくこころえたる信心の行者なり」と仰せられたり。ただこころをば仏法にとどむべきなり。あなかしこ、あなかしこ。』

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