☆高野山詣

 子供が小さいときは、雪の高野によくきました。大きなつららや雪遊び。娘が中学校の時は、冬の高野に電車で行きたいといいだして、毎年雪の高野に来ました。あたたかいうどんをいまも時々話します。

 私が、ものこころつくころから、亡き父は、家族の行楽に高野山が定番でした。大伽藍の経堂で、いつも弁当を広げていた幼い頃の写真が懐かしい。

 20年以上前、仕事(夏季勉強合宿)で高野山の宿坊に毎年4泊5日泊まっていました。下見も含めれば何回来たでしょう。また研修で、研修講師で何年も高野山にあがりました。台風で、がけ崩れ通行止めや大木がばたばた倒れてしまった年もありました。国際交流で我が家にホームステイしたすべての外国の方を案内し高野山に来ました。思えば、すでに100回は越えていますよ。地図が書けるくらいです。

 でも、信仰の意味と気持ちを明確にもったものではありません。生活に根ざした、そこに高野山がありました。お山の行事は一度も行ったことがありません。(だって混みますから)。しかし、本来の信仰というのはそんなものですよね。生活の中に浸透したものなのですよね。

 私の地方では、葬儀のあと満中陰を過ぎると、遺骨ののど仏だけを別の小さな壷に入れて、高野山に納めます。(お骨のぼせ)そのとき、家から何人もの親族と出かけますが、必ず九度山あたりで休憩しなければいけません。仏さまにお茶を飲んでもらいます。いまでも、橋本から矢立までの間のドライブインでは、お骨のぼせだと言えば、遺骨の壺にもお茶を持ってきてくれます。亡父も奥の院で永代供養されています。

 子供の頃よく口答えする生意気な私でした。母に、「遍照金剛言うな!」と叱られたものです。「遍照金剛」とは「なまいきな屁理屈」を言うなということです。(「わけのわからないこと」という訳がいいな。)また、マムシがよく出る地域ですので、マムシをみたら襲われないまじないの言葉として、「私の前に 鹿の子まだらの 虫がいる アビラウンケンソワカ、アビラウンケンソワカ」
 というのがあります。

 私のDNAに摺りこまれたお大師さんの信仰は、確実に生きているのだと実感しています。

 これからも、時々高野山を詣でながら、お参りを続けていこうと思っています。

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