面授と筆授

  ○先日、司馬遼太郎著の『空海の風景』上・下 中央公論社 を読みました。もちろん、今までにも空海(弘法大師)の伝記や伝承を読み聞きしたことはありました。

  わたしが、一番興味を持ったのは、空海と最澄の相違というか、なぜ空海が最澄を最後には拒絶したのか。『理趣釈経』だけは、過去何度も多数の経典を貸していたのに貸さなかったのか。

  ○空海の最澄への手紙で、その空海の思いの一端を知ることができました。

  『しばらく、三種あり。一には、聞くべきの理趣、二には見るべきの理趣、三には念ずべきの理趣なり。もし、可聞の理趣を求むれば、聞くべきはすなわち汝が声密(せいみつ)これなり。汝が口中の言説すなわちこれなり。見るべきは色(しき)なり。汝が四大等、すなわちこれなり。念ずべきは、汝が一念の心中に、本来、つぶさに有り。さらに他の心中にもとむるをもちいざれ。

 必ず三昧耶を慎むべし。三昧耶を越すれば、すなわち伝者も受者もともに益なし。

  我もし非法にして伝えば、すなわち将来求法(ぐほう)の人、何によってか求道の意を知るを得ん。非法の伝授、これを盗法と名づく。すなわちこれ、仏をあざむく。また秘蔵の奥旨は文を得ることを貴しとせず。ただ、以心伝心に在り。

 文はこれ、糟粕。文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を受くれば、すなわち粋実至実を失う。学ぶも信修なくんば、益なし。』



 これらの書簡の中に、弘法大師の強い「面授」へのこだわりがありそうです。

 ○わたしは、その方法も分からないまま、純粋に「仏教」に興味を持ち、仏像の持つ美術性や歴史的意味から「仏教」に近づいてきました。同時に、経や儀軌の解釈から「真言」や「印契」にも関心が出てきました。
 
  また、多くの寺院をお参りし、その中で自分の持つ性格や発想や性情を見つめなおす機会を得て、西国観音霊場をめぐり、いまお四国88寺をめぐり続けています。

  尊大な言い方ですが、あのお大師の渡唐前の、未知の7年、四国の山岳荒野をひたすら巡っているあの時期かと思っています。このまま、彷徨って果てるか。全部捨てて、現世に謳歌するか。または、「面授」を重ね、更に「仏教者」として深まり歩むのか。

 ○「法楽と苦行」という言葉にも、出会いました。「法」のもとなる「楽」は、すべてからの解放でしょうか。「苦」を「行」とするということが、いかなるものか。

  遍路として歩くと、肉体的「苦」の行ができます。この世で仕事に従事していると、「有為」における「競争社会」での達成感や優越感をよしとします。健康でいると、「精力」と「欲」が満ちてきます。

 ●いま「苦悩」の中にいます。いまのすべてを捨てきれない自分がいます。できるなら、勝手な『理趣』の解釈によって、今のそのままに「許され」たい。 『すべてが 清浄句』お大師様の真の教えがほしいです。

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