☆お大師さんに呼ばれて

  よく遍路さんの口から、「お大師さんに呼ばれたんです。」という言葉を聞きます。わたしも、友人たちから「どうして四国遍路に行くのか?」という質問に、必ずこう答えます。説明が面倒なのもあるのですが、実際にそう思っているからです。

  遍路や巡礼に出る理由は、自分の欲求や自分からの意思(希望や望み)でないと思うからです。

  あるお坊さんの掲示板にみなさんがいろいろ質問や体験が書かれるのをみていて、以下のような思いをしています。

  みんな、自分(人間が主体)なのです。先日、夢にお不動さんが現れました。病気が治りました。愛染様を見ていると、何も持っていない手に剣が見えました。遊女が普賢菩薩になるのは、どうしてでしょう。そういう書き込みです。みんな、すごいなあと思いました。

 その掲示板の主催のお坊さんが、丁寧に質問にお答えされています。ふと、そのお答えの中で、私は教えをいただきました。

 愛染さまのお答えの中で、あの何も持っておられない左第三手は、どうしてだろう。お坊さんの解説では、法輪や鉤(かぎ)、独鈷だそうです。お加持やお護摩の時にその目的に合わせて、持物が変化します。仏画などには髑髏首であったり、修法では愛する人の名前を書いた紙などです。

 ご真言「じゃく うん ばん こく」は、四摂真言(四字真言)『金剛寿命陀羅尼(経)法』
 「(生死流転の山海にいる衆生を)鉤(つりばり)にかけ、索(あみ)で引き寄せ、鎖(くさり)で煩悩を縛り、鈴(歓迎の楽)で喜ばせる 」 [鉤金剛 ジャク]  [索金剛 ウン]   [鎖金剛 バン]  [鈴金剛 コク] です。また、密教の五種法、息災・増益・敬愛・調伏・鉤召から、それぞれの持ち物を換えているのでしょう。

 一方、曼荼羅や儀軌などでは、あの手は金剛拳(印)だということです。三昧耶曼荼羅は、仏の持物や印(手首)が描かれています。印は、立派な象徴です。
    
 でも、きっと人から見れば、六本の腕の中で何も持っていないことの不安定さのなかでなにか持たそうという発想が生まれていったのでしょう。

 ここでよくよく考えますと、どうも人間主体なんです。そう、自分がなにかをした、見た、感じた。仏を観想するとは、自分が意思を持ってする(できる)行為ではないのではないかと思ったのです。

 ずっと前に、初期の巡礼のとき、お寺におまいりして「ああ、仏に出会った」と思っていました。いつのころからか、「仏が待っていてくださった。」と思うようになりました。だから、秘仏としてご開帳されていない厨子を前にも、抵抗なく手を合わせることができます。御許に来れたことに感謝します。

 「お大師さんに呼ばれた。」は、まさにそうなんです。こちらが、観たい、逢いたいと願って遍路・巡礼しているのではなくて、声無き声によって、呼ばれたのです。きっと、上記のみなさんも、夢に現れたのは仏の意思。疑問に思うのもみ仏の意思ではないでしょうか。

 だからこそ、その御仏の真意を慮ることこそ肝要だと思います。何らかの仏の啓示をいただくのは、とてもありがたいものです。いま、自分になにかを教え諭そうと、現れてくださった。

 とてもうらやましいです。でも、それを自慢してはいけませんね。逆に「ドキッ」として、そのときこそ、自分を顧みて、より深くより真摯にすごさねばいけませんね。「きっと、自分を見ていられないと、仏がサインをくださった」のですから。

     「お大師さんに呼ばれた。」そう、いますぐお四国に行かないと。     

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