「教相判釈」(きょうそう はんじゃく)


大雪の日に、88番大窪寺の山門を下りていくと、横の店のおじさんが、寒かったろうと生姜湯のお接待。おなかの中までしみわたりましたよ。「歩いたの?」「女体山を越えました。」「あそこは遍路道じゃなく、行者道だよ。」と呆れ顔。

ちょっと褒めて欲しかった自分が、小さく見えました。喜びというのは、自分だけの満足なんですね。自慢したり、いたわってほしいという甘えに気づいて、ほんとうにつらい瞬間でした。最後の最後にまた、教えられました。すごいことを成し遂げたような気になっていました。

車やバスで、おへんろをしていますと、だんだん後ろめたくなって、やっぱり歩いて通しで回るのが一番価値が高くて、次が歩きの区切り打ちで、電車やバスを一部利用が次で、マイカー個人、そして団体バス。・・・なんだかランクができているような。

厳しい修業が値打ちがあって、楽に過ごすのはだめ。昔の体験は、古くダメ。最新のデータを持って、スマートに快適に、そしてエコに生きるのが、価値ある人生?!

もちろん、頭では分かってるんです。遍路(仏教)では、価値という概念すら無意味です。遍路は、その無意味・無価値を学ぶ道です。どれが上で下で、値打ちが高いか低いか。勝ったか負けたか。比べるのもダメですよね。逆にいえば、全てのことに価値があるとも言えますね。

43番の手前に、歯長峠があります。そのトンネル手前に、「あなたは地獄道を選びますか、それとも極楽道?」という看板がありますよね。鎖場から峠越え、またはトンネル近道。どっちも同じ価値ですよね。どちらを選ぶかの、判断基準を自問自答します。理由に比較や意味の大小を考えては、いけません。「思い」であり「感性」でいいのでは。生きているのではなく、生かされているのです。達成感というもの、そのものも越えなければいけません。

仏教史を勉強して、「教判」という言葉を学びました。「教相判釈」(きょうそう はんじゃく)とは、中国をはじめとする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を判定し解釈したもの。略して教判ともいいます。中国においては、伝えられた経典の多さから仏教の教えがあまりにも多様化し、どれが釈迦の真実の教えかということが問題になりました。そこで、経典の内容が種々異なるのは、釈迦が教えを説いた時期や内容が異なるためと考え、教えを説いた時期を分類し、その中でどれが最高の教えであるかという、ひとつの判定方法として、各宗派によってさまざまな教相判釈が行われました。

私たちも、歴史的に古いものは、初期のもので、未成熟・未発達。時代が新しいものこそ深く価値の高い優れたものと、いつのまにかそんな文明に、文化に慣れてきました。中国で、仏教がある時代に一気に流入し、インドでの今までの仏教の歴史が全部入ってきたら、まあ誰でもがそれを整理するのに、どれが古くて、完成度はどれが上かと並べます。

また、いつの間にか自分が主張するものが、他のものに比べて、どこがすぐれているかという比較して、並べて順位や階梯を定めて、自己の優位を主張し始めます。それも含めた「教判」です。

なんか、矛盾しているなあと感じるのは、私だけでしょうか。初期仏教


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