「密」と「蜜」の違い

先日、私のHPのあちこちのページに「三密」が「三蜜」になっているという指摘を受け
ました。「密」や「蜜」は結構あります。

密教、三密、波羅蜜、よく混同されるようです。

 私は、長い間混同していました。あまり疑問にも感じていませんでした。一度その文字
を使用すると、最近はPCが記憶していますから、ずっとその文字になります。

 検索サイトで調べてみましたら、お寺の公式サイトでも、仏壇・仏具屋さんでも、なん
と高野山高校でも「三蜜」と「三密」が、混同されています。愉快だったのは、『大正新
脩大藏經』の中の経典でも混用があるらしく、注釈に<「蜜」=「密」>というのがあり
ます。

 私には、判断基準さえありません。完全に間違いなどと誰が言えましょう。そこで、何
かを基準にするしかないのです。私の基準は、「空海」の書物である「十巻章」での記載
文字です。いろいろ調べていますが、なにしろ本物かどうか。写本だったとして、それが
間違っていたら。後世、どなたかが理由付けや論理的根拠を述べたとしても、本当はどう
だったのでしょうか。ただ、大方のものは「三密」(山)のようです。「空海コレクショ
ン」(宮坂宥勝)でも、「密」を使っています。また、金岡秀友氏の「即身成仏義」でも
「密」の字を使っています。『即身成仏義』(空海)では、まさに「三密」について説明
してある部分ですから、。

 本来、言葉や文字はその成立と、時代によって変化し、間違いが一般化してそちらに移
行することもあります。当分は、「三密」に統一したいと思います。私のサイトが、たく
さんの方が参考にされているようですし、引用もされているようです。そうなると、私が
「間違い」を配っているとも言えます。その社会的責任は、大きいですよね。申し訳け無
いのですが、私に判断基準も根拠もないままですが、「三蜜」は間違いで、今後「三密」
と統一して、使用します。よろしく、ご訂正ください。


woodbadger.netさんからいただいた情報。

「密教と生命倫理」と言う論文がございます。
http://www.denpouin.com/reports/17.Mikkyo_to_seimeirinnri.html

確かに「密」と「蜜」は使い分けられております、「密教」などと言う場合は「密」、三
蜜などと言う場合は「蜜」となっています。高野山の方々問い合わせましたが「密」≒「
蜜」な扱い、理解な方も相当いらっしゃるようでした、青年教師の面々からの回答もその
ようなものでした。

「密」≒「蜜」が間違いとは言えないものの、お大師様の「答叡山澄法師求理趣釈経書」
では、「三密」となっていました。

私の父親が寺の総代をしていまして、昨夜地域の檀家が集まって毎年の宝号念誦の集いが
ありました、会が終わってから和尚さんと檀家の御酒飲める方が残られて、歓談の場があ
り、今回の「蜜≒密」の事を聞いてみたのですが「そんなもん経文を書写する者によって
「蜜」と書いた者もいれば「密」と書いた者もおりまっしゃろ、蜜⇔密の表記は語彙の範
囲でっしゃろ。そんな言葉遊びみたいな事はやめときなはれ、どちらが正しい間違いやな
しに、お互いの意味が通じたらよろしいんでっせ」との事でした。


隆蓮房さまにいただいた情報

・参考資料には優先順序があります(一級資料を参照しよう)。
・密と蜜、大漢和で調べてみたら?
・波羅蜜多の蜜は音訳、三密の密は意訳。ゆえに「三密」は「三蜜」とはならない(なっ
たとしたら中国以降)。
・以上より、厳密な意味で言うと「三密が密意で三蜜と変化する」(そもそもどこにこん
な根拠があるのか? もしかして思いつき?)とはならない。

サンスクリットで甘露(amRta)=蜜(madhu)?のような例があるのなら話は別。
・大蔵経には誤字はたくさんある。注釈でちゃんと出ている。明らかに「密」とすべきと
ころを「蜜」となっている場合の注釈は「蜜(ママ)」と書いてあるのと同意。
(そもそもサンスクリットテキストだって綴り誤りとか結構あるので、「お経に書いてあ
るから」というのはあんまりあてにならない)
どうしても気になるのなら、漢訳でないもの(チベット大蔵経)を参照して(蔵漢対照)
、三密=三蜜という例があるのかどうか調べる(もっともチベット語大蔵経にも誤刻はあ
る)。

・そもそも音が一緒だったら、漢字を置換する例は中国には山ほどある。
・そして、中国人は当て字とかが結構あります。
・よって「甘露たる蜜」と同音で当て字をしたということは間違いとはいえないし気の利
いた訳であるとは思うが、正いかというと・・・・・。

「気の利いた訳であるとは思う」というのが私の感想ということです。
つまり、単なる思いつきでないなら、中国以降における誤写ではないかというのが結論。