無常ということ                   思索中       H23.12.13

 もう何年も前から、そうおそらくこのHPを作り出す前から、お寺参りや仏教に興味関心を
 持つ前から、「無常」については、それなりに思いを馳せていたと思います。

 高校時代の国語の教科書には、小林秀雄の『無常ということ』という文章が掲載されて
 いて、少年期だった私のこころにも、人生の無常について漠然とした思いがわいていた
 そんな気がします。

 あれから40年経って、改めて思いを深めたいと思います。

小林秀雄『無常ということ』の冒頭 「一言芳談抄」の引用。
「或るひと云く、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の
御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すました
る声にて、とてもかくとも候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれて云く、生死
無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけたまへと申
すなり、云々。

この比叡の御社に、いつわって巫女のふりをした若い女房が、夜がすっかり更けて、人が
寝静まった後に、ぽんぽんと、鼓を打って、心から澄んだ声で、「どうでもこうでもいいのです、
ねえねえ」と謡を謡った。その意味を、あとで人に強いて問われて、このように答えた。
「生死は無常ということを思いますと、この世のことは、どうでもこうでもいいのです。
ねえ、後世を助けてくださいと、神様にお願い申しあげていたのです」と。

小林さんは、あるとき比叡にあそび、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやり
うろついていた。そのとき、突然この文章が心に浮かび、その文の節々がくっきりと心にしみ
わたったそうです。鎌倉時代の巫女のことを思い出したのです。

そして、今までのことは「とてもかくとも候」(もうどうでもいいのです。)と言わせます。
そんな今を生きる術(すべ)が、「なう後世をたすけたまへ」(どうか死後の次の世は、つらい
思いの無いようにお願いします。)なのでしょう。

 ひとつは、今までの自分の置かれている世の中やそれを受け入れざるを得ない自分。
その精神の方向は、決して外ではなく、自分の内面に注がれます。そして、ただひとつの
現実として認めるのは、「過去」であったのでしょう。今を拒んだのでも、絶望の淵に立って
いるのでもありません。「現在」や「未来」が、あまりにも頼りなく、確かなものがありません。

小林さんは、経験の本質は「思い出す」ことであったろう、と言います。歴史というものは、
理屈であれこれ解釈などするものではない。知識や記憶で頭をいっぱいにすることでもない。
心をむなしくして、ハートやフィーリングで感じるものだ。それが「思い出す」ということだと。
歴史をあやふやな解釈などせず、解釈を拒絶した動じない事実としてありのままにとらえて
いくことで、歴史の魂に推参できるのだと。

 小林さんは「思い出は美しい」のはなぜか、と考えます。それは、ぼくらが過去を飾るの
ではない。過去のほうで、ぼくらに余計な思いをさせないのだ、と。
 生きている人間は何を考えているのか何をしでかすのか、わからない。しかし、死んだ人間は、
しっかりはっきりしている。そして、歴史には死人しか出てこない。だから、動じない美しさがある
のだ、と。

 ある神父さんのHPに、イエスさまのことが書かれていました。
『聖書の中にこの「思い出す」という言葉が出てきます。ギリシャ語でアナムネーシスと言う
らしいです。これは、「想起する」とも訳されていて、哲学者のプラトンなども使っています。
善や美のイデアを、人は忘れている。それを「想起する」のだと。

 聖書で、この言葉が出て来るのが、あの「最後の晩餐」のお話です。
 十字架につけられる前の最後の夜の食事。イエスさまはみんなに、パンとぶどう酒を配って、
こう言われたのです。 「私を思い出す(記念する)ため、このように行いなさい。(コリント11章)

 パンとぶどう酒をいただく時に、その目の前に、ありありとイエスさまがいるような気がします。
私たちも最後の晩餐をイエスさまとともにいるような気持ちになります。』

「過去」=「足跡」だと思います。
 自分の歩んできた道、経験してきたこと、すごしてきた記憶、出会った人々、その時々に感じた
思い。考えた思念。それは、まぎれもない「事実」(=過去)。
 
小林秀雄さんは、「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それはいついか
なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態(何を考へてゐるのやら、何を言ひ出すのやら、
しでかすのやら解っていない、どうも仕方のない代物)である。現代人には、鎌倉時代のどこかの
なま女房ほどにも、無常といふ事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と言います。

 「無常ということ」を理解するには、やはり「常」と「常でないもの」とを考えねばなりません。
どうして、「なま女房」は分かっていて、現代人には分からないのでしょう。現代人の批判として、
「常なるものを見失ったから。」とあります。「見失った」のは、なぜでしょう。現在というものの
価値が大きくなったから。未来の夢が膨大に膨れ上がって、過去が見えなくなってきたから。

 「仏説というようなもの」とは、どんなものでしょう。仏教に、「諦念」(あきらめる)という教えが
あります。諦めるは、明らめると同義とも言われます。
人として持っている執念や固執、欲や妄想。それらすべてを捨てること。現代人が感じている
アイデンティティーの喪失、自分の内面にもある三毒(貪欲、瞋恚、恥辱)、いかんともしがたい醜い
人の世、現世に対する失望感。そのやるせない思いを耐え忍ぶこと。
それが「あきらめる」(諦観=達観)こと。今までのことは「とてもかくとも候」。

 では、「なう後世をたすけたまへ」と、何を「後世」にお願いしたのでしょう。生まれ変わった次の
人生を、また現世のような欲や利害の中での、勝者になることを祈ったのではありません。そんな
醜い世の中からの脱却。常でないものが存在しない世の中。仏の住む「佛国土」(=浄土)。
「無常」を分かるものだけが見ることのできる「常なる世界」。

 時代も、発想が生まれた国も違いますが、「六道輪廻」や「地獄」。来世も現世の功徳を積まないと
救われないとする、悲しい思想。そんなものが生まれることさえも、むなしくなる現代。
実は、仏教では、「輪廻」から脱却するには、仏にならねばならないのです。
 その仏(菩薩)でさえも、前世では何度も輪廻のなかで生まれ変わっているのです。
「常」なるものを取得することは、「祈り」の中だけなのでしょうか。だから、巫女のまねまで
しないと、いけなかったのでしょうか。

 話を振り出しに戻しましょう。「常なるもの」=「確かなもの」なのです。
「確かなもの」=「過去」。「過去」=「思い出」です。

 小林秀雄さんは、深い思索のなかで「無常ということ」を理解されたようですが、
私たちには、まだまだなかなか分かるものではなさそうです。

 そこで、これからどのように生きていけばいいのか。
仏典を参考に思いを馳せていきましょう。

仏の教えの中に、「涅槃寂静 (ねはんじゃくじょう)」という考え方があります。
一切のとらわれやこだわりを離れた姿で、心身の完全な安らぎの状態であり、
生命本来の創造と調和の状態。迷いをすっかり吹き消してしまってこそ、
人生苦というものがすっかり無くなって、平穏な安定した生活が得られるという教え。
「諸行無常」と、「諸法無我」を悟ることによって得られる理想の境地。

あの仏陀の初転法輪において、五比丘に説いたといわれる、後の「大般若経」にも
ある仏教の根本的な教えでもある「四諦」。
 人生は苦の世界であることを直視し(苦諦)、その本当の原因をつかみ(集諦)、
そして日々の修行によって(道諦)、あらゆる苦悩を消滅せよ(滅諦)」という教え。

苦諦「人間の存在はすべて苦であることを悟り、しかもそれから逃げ隠れしないで、
その苦の実体を見つめよ」という教え。   

集諦「苦の起こった原因を探求し、反省し、それをはっきりと見極めよ。その為には
十二因縁、諸法実相の相・性・体を知ることである」という教え。

滅諦「縁起の法則に従って、苦の大本の原因である無智と煩悩を見極めれば、
苦の闇は必ず智慧の光りに消えるということ。この人生苦を滅した安穏の境地は
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三大真理を悟ることによって始めて達せられる
境地である」という教え。

道諦「滅諦に至る道は、八正道、六波羅蜜を行ずることである」という教え。

やはり、欲を諦(あきら)めることですね。欲の範囲は限りなく広く深いですよね。
だからこそ、今の自分には、あきらめることなどできないという思いが、「無常」だと
嘆くことなのでしょうか。もしくは、確かである「過去」を「美しい」と思うことで、「常」は
過ぎたことのみで、現在や未来に「常」はないのだと思うしかない無力さ・脱力感なの
でしょうか。

これからも見なければならない、人の醜さや生きる辛さを味あわなければならないの
でしょうか。逃げているのでしょうか。諦められないなら、達観できなければ、
目覚めることができなければ、・・。

上座仏教、倶舎論の目は、自分の内面に向かいます。



先日、般若心経の解説を聞かせていただいたとき、あるお坊さんが、本当は『空即是色』が
一番大事なんだとお話になられました。
「無常の世の中だからこそ、どう生きるかなのです。縁とご恩に気づくこと、その上で生きて
いくとは、その恩を返していくこと。」だと。

今までの自分が、周りの人々の多大なご縁によって助けられ、そのご恩に気づき感謝する
ことを忘れずに、今度は自分がその受けたご恩以上にお返しできるように、生きること。
生かされた命を、生きることの喜びに感謝し、今度こそこちらからご縁を結び、
ご恩に報いることなのでしょうね。

これが、大乗の真骨頂です。

 思索は、止まるところを知りません。まだまだ、思索中です。

■無常3部作 1.『人は、なんで生きるのだろう?』
        
2.「無常ということ」
         3.「足跡考」