大師を導いた犬は?

地蔵院所蔵「高野大師行状図画」等における二匹の犬に関する考察


弘法大師空海の伝記は、平安時代後期から数多く書かれ、後世多彩に誇張され神話化されてくる。その絵画化もまた、最古とされる保延二年(1136年)の旧永久寺真言堂障子絵にはじまり、誕生から入定までの総合的一代伝記絵巻等が、鎌倉時代中期以降かなりの数で製作されたようである。

 奈良大学教授塩出貴美子氏の論文(奈良大学紀要h4)に興味深い記述がある。角屋本『弘法大師行状記絵巻』と東寺本『弘法大師行状絵詞』の相違について、「構図が全く異なる」図様比較で、
 「東寺本の詞書で、弘仁七年(816年)の夏、大師が修禅のための伽藍を建立する勝地として南山、すなわち高野山を選び、朝廷に上奏してこの山を申し請けたこと、勅許が下りた後、大師は泰範、実恵等を高野山に向かわせ、草庵を結び、自らも高雄の旧居を去って高野山にはいったことなどを述べる。図面には、高野の山々が広がり、その中に板萱の堂が三つ描かれる。堂の傍らに立つのは泰範あるいは実恵と思わしく、また木々の間に描かれた二人の人夫は、草を刈って堂を建てたという詞書の一節を暗示するモチーフとみられる。」
 「ところが角屋本は、山中である点は同じであるが、図様は全く異なり、①大師が黒犬と白犬を連れた猟師と語るところ、②大師がこの二匹の犬に導かれ、山を登っていくところ、以上の二場面を描く。」いずれも、詞書の中には全く見当たらない描写であるようだ。
 地蔵院本と白鶴美術館本の詞書には、「高野尋入」の画面は、禅定の地を尋ね求める大師に、猟師(高野大明神の化身)が高野の霊地を教えるところ、また「巡見上表」では、大師が二匹の犬に導かれて高野へ向かうところが表されている。
※弘法大師行状絵詞 絵巻。12巻。京都・東寺蔵。真言宗の祖師弘法大師(空海)の一代の伝記を描いたもので、先行の諸本を取捨選択、集成してつくられる。『東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)』所収の「大師御絵日記」によれば、制作は応安(おうあん)7年(1374)から康応(こうおう)元年(1389)にわたり、絵は祐高法眼(ゆうこうほうげん)、(巨勢(こせ))行忠(ゆきただ)ら4人の絵師が分担したとみられる。 Wiki

   『名所図会』


 時代的な流れからいって、角屋本などは東寺本を基本に書かれてはいるが、古くから流布していた大師伝説の一つである、大師が高野明神から示現を受けたという説話をもとに描かれたものであり、逆に角屋本系統が、江戸時代中期に流行した大師信仰と相まって大きく広まったと考えられる。

  

  角屋本『弘法大師行状記絵巻』
一方、六巻本系地蔵院本では、「高野尋入」と「巡見上表」には、角屋本とほぼ同じ図様が描かれている。ただ、角屋本と白鶴美術館本では猟師が連れている犬は白と黒の二匹であるのに対し、地蔵院本では黒色の二匹となる。



 二匹の犬が登場する文献として、弘法大師の伝承が記載された、『今昔物語』がある。(以下、引用) 
「今昔、弘法大師、真言教、諸の所に弘め置給て、年漸く老に臨給ふ程に、(中略)弘仁七年と云ふ年の六月に、王城を出て尋ぬるに、大和国宇智の郡に至て、一人の猟人に会ぬ。其の形、面赤くして長八尺許也。青き色の小袖を着せり。骨高く筋太し。弓箭を以て身に帯せり。大小の二の黒き犬を具せり。即ち、此の人、大師を見て過ぎ通るに云く、「何ぞの聖人の行き給ふぞ」と。大師の宣はく、「我れ、唐にして三鈷を擲て、『禅定の霊穴に落よ』と誓ひき。今、其の所を求め行く也」と。猟者の云く、「我れは是南山の犬飼也。我れ其の所を知れり。速に教奉るべし」と云て、犬を放て走らしむる間、犬失ぬ。(中略)此の三鈷、打立てられたり。是を見るに、喜び悲ぶ事限無し。「是禅定の霊崛也」と知ぬ。「此の山人は誰人ぞ」と問へば、「丹生の明神となむ申す。今の天野の宮是也。犬飼をば、高野の明神となむ申す」と云て失ぬ。」
   今昔物語集(成立は、1120年代以降)巻11第25話 弘法大師始建高野山語 第廿五

 
『高野大師行状図絵』6巻(地蔵院)


※『弘法大師絵伝』や『高祖大師秘密縁起』10巻(13世紀半ば),『高野大師行状図画』6巻(1272ころ),同10巻(1319ころ)の3系統はいずれも原本は失われ,後世の転写本や版本が多数のこる。

高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の生け贄のため、犬を連れた狩人の伝承」に由来すると見られている。『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は丹生都比売神の1座。その後に高野明神を加えて2座になり(文献では『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載)、平安時代末頃からは4座(四所明神)になった。丹生都比売・高野明神は、神社が鎮座する紀州・伊都地方の地主神として祀られていた神であり、高野明神は、紀北一帯の狩猟神である狩場明神の変化した姿とされ、丹生明神の夫とも子とも言われる。『金剛峯寺建立修行縁起』には、猟師姿で空海の前に現れた狩場明神は自ら「私は南山の犬飼だ」と名乗り、このあたりの山地を支配していると言ったとされる。さらに『空海僧都伝』などによれば、空海は猟師が放った犬に案内され高野山まで辿り着いたとされ、その後丹生明神によって高野山を建設するための敷地を譲り渡されたとされたという。


 疑問点①犬は、伝承のはじめから「2匹」だったのか
「狩場明神」の絵画に一匹の白犬のお姿のものが存在する。また、今昔物語にあるように「大小2匹」ならば、「雌雄2匹の同種の犬」という見方もできる。確かに、犬の場合オスが大きくて、メスは一回り小さい種が多い。こう考えると「白い二匹」もあるのだろうか。
古来から神の使いには狛犬が登場する。獅子と狗犬であったり、対で登場するのが一般的である。中国伝来であろうか。下図の四神図画では、獅子と狛犬、白黒二匹の犬が描かれている。
一方。大師側の伝承から、興味深いのは、東寺本詞書にあるように、先に「二人の弟子」を、大師は高野山に派遣する。また、草庵を建てるときに「二人の人夫」の登場。少なくとも「2」という数は、変わりないようだ。

    
   狩場明神絵馬 および 四社明神図

 疑問点②二匹の犬は、黒い色のヤマイヌだったのか。
 イヌと日本人の歴史は古く、縄文時代にはイヌは人間と生活していたようだ。日本固有種は柴犬や四国犬。紀州犬、甲斐犬、秋田犬、そして北海道犬であるが、通称される「ヤマイヌ」(野生種」は、畿内では、四国犬や甲斐犬のような黒・褐色・まだらな毛色である。紀州犬は白で、純血統では背中の茶色の毛が残る。中古からの時代に「ヤマイヌ」以外の呼称はされていなかったであろう。現在でも地犬として「高野犬」や「明神犬」いう呼び名もあり、地域伝承では、狩場明神の犬は「紀州犬」であると信じる者も多い。一部では、紀州犬も斑種や虎毛種もあったといわれ、猪などの狩猟の際に色の見分けがしやすいように白色に特化して交配させていったといわれる。

              
 甲斐犬               紀州犬             四国犬        (資料写真)

 疑問点③なぜ黒二匹が、白黒二匹に変化したのか。あるいは、別の伝承系統があったのか。
 東寺本詞書の「泰範と実恵」を大師の最も信頼する弟子の二人ならば、伝承の二匹の犬の名前「明神九郎」と「明神四郎」というような、兄弟や子供のような存在だとも想像される。当時の時代背景に「四郎、九郎」という名付けの習慣があるかどうかも、今後調べてみたい。
 さらに、「シ=死」、「ク=苦」というような末法的な発想のもとに、関連付けられたことも視野に入れたい。櫛は同音の串と同じく、「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(く)し」「霊(くし)び」が語源なら、呪術的な意味付けががあっても不思議ない。魂の宿る頭に飾るものであることから、自らの分身として旅立つ人に手渡したりした。そして、音が基調になった伝承世界で、四郎が白に、九郎が黒になったとしても、なんら不思議はない。そして、二匹の犬の名が「明神白」(じんしろ)と「明神黒」(じんくろ)となっていったのかもしれない。

 まとめ
 地蔵院所蔵「高野大師行状図画」については、続日本紀(869年)、贈大僧正空海和上伝記(895年)、御遺告二十五ヶ条(10世紀中)、金剛峯寺建立修行縁起(968年)などを基本にしたようである。それまでの弘法大師に関する伝説、伝承を盛り込んで成立したとされる。当初は、東寺本のように、弘法大師の「高野山尋入」等において、「狩場明神」の出現は語られていなかったのではないか。
 しかし、鎌倉時代には徐々に「大師神話」である、狩場明神譚が広がっていて、弘法大師の神格化がすすみ、江戸期には角屋本等のように、「白黒二匹の犬」説が定着していったのではないだろうか。
 
       

 現在の伽藍四社明神絵馬    壇上伽藍 四社明神社

  御社の中に

参考資料

小松茂美編『続日本絵巻大成5・6 弘法大師行状絵詞』(中央公論社)
『空海・高野山の教科書』枻出版社
「弘法大師伝絵巻考」、角屋本「弘法大師行状記絵巻」再考 
塩出貴美子(奈良大学研究紀要) 
 『中世の高野山を歩く』山陰加春夫 吉川弘文館