白衣(びゃくえ)・笈摺(おいずる)

 『へんろ功徳記と巡拝習俗』浅井證善 著 朱鷺書房 を参考にしました。

○西国観音巡礼が、歴史的にも一番古いですから、きっとその頃から巡礼には,白衣をきていたと思っていたのですが、どうやら今の巡礼の姿は戦後のようです。

 白衣は、袖のあるもの。おいずるは、袖のない法被。

本来は笈摺(おいずる又はおいずり)と言い、巡拝の折り着るもので、その意味は次の通りです。観音巡拝を始められた徳道上人や花山法皇は、巡拝の折、観世音を背負い、俗身に笈が触れ破れないようにと、肩に白布をつけたのが原型。背中に観世音菩薩を背負い、清浄な白衣を身につけてお巡りになったという故事にならない、今日では笈摺を着ます。

 もともとは、背中を三幅に分けて、昭和初期までは、右には、年号 月日。真ん中は、梵字と南無大師遍照金剛 の文字
 左は、 国名 と 名前。 (両親がいるものは、左右を茜色に、片親の場合は真ん中が茜色、親がいないものは白。)

各寺の宝印をいただき、死後の旅路に立つ時、観音様の救いがあるとされています。

巡礼満願の折りに、三十三番の谷汲山華厳寺で、その死装束を脱いだ時点で、はれて生まれ変わり、この世に還ってくるのです。

花山天皇御製のご詠歌に「いままでは、親とたのみし、おいずるを、脱ぎておさむる、美濃の谷汲」と読まれています。本来、巡礼は死出の旅立ちの準備ではなくて、「脱ぎ納めて、俗に戻る」のですが、自分または肉親の成仏を願う人情から、いつのまにか、現在のように「おいずる」に印を頂いて、持って帰るようになってしまいました。どこかで「経帷子(きょうかたびら)」と混同していったようです。経帷子は、真言や仏名を背中に書いて、死者に着せるものです。巡礼者がこれを生前に着るのは、「寿衣(じゅえ)」と呼びます。鎌倉時代に真言宗であったようですが、おいずるとは起源が違います。

納経は写経を奉納することです。それは自分が納めるお経の教えを学び、この巡礼を通じて本当の御仏の子として目覚めていきます。という誓いの為にするのです。そして、納経を受けたお寺は、その人が目覚めていこうとする修行者である事の証に、御宝印をお授けをしていました。その御宝印を受けるものを納経帳とか納経軸と呼ぶのです。そういう意味ですから、納経の行為がなされていない場合、事実として、帳面の表題と真実が異なることになります。

そして「おいずる」はこの修行者達が、この霊場を巡礼して目覚め、生まれ変わる為の死装束として着ていたものです。あるいは、死を覚悟してどこでも死ねるようにかもしれませんね。



○背中の文字も、いろいろあるようです。西国観音巡礼には、「南無観世音菩薩」。四国の遍路用は、「南無大師遍照金剛」。お大師様の絵が描いてあるのも見ました。

 
21番鶴林寺の鶴の印と39番延光寺の亀の印。自分が着て歩く道中着のおいずるに押してもらいます。鶴亀で長寿祈願です。

白装束には身を清める意味があります。僧侶の黒衣に対して俗人が着る服です。巡礼の際の正装とされる服装です。

遍路は上下白づくめの体になるのが基本です。白装束は遍路としての自覚にもなり、身を引き締めてくれます。白衣は道中着と判衣の2着が必要です。

襟の光明真言は、16番観音寺でいただきます。死後硬直がなくなり、やさしく着物を着せ替えられるといいます。

 私のおいずるです。無病息災です。これを着て、遍路しています。

判衣は八十八札所のご宝印をいただく白衣で洗ってはいけないので、丁寧に扱う。ご宝印が高野山奥の院ですべて揃った判衣は家宝として遺族に伝えられるが、冥土へ旅立つ晴れ着ともされる。



白衣の宝印は、臨終後、上にかけます。そのときに、自分の納経帳も一緒に持っていくそうです。この判着の白衣を着ておられる方はおられません。まれにみますが、死後の装束ということですから、ご存じなければ着ますよね。意味が違うものということですね。

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