お大師様の心経  「般若心経秘鍵」から


 さとりに目覚めた般若菩薩の秘密の教えをさとらしめ、不死の妙薬を与える、偉大なこと・多いこと・勝れている、瞑想によって得られる最高の智慧の心髄の真言、さとりの境地、なすべきことをなしおえた、さとりを得た空間の中心を、貫いた線、集め持つたさとりの境地を説いた経

 観自在菩薩は、深い智慧を修行して五つの構成要素が、実体のないことにさとられた。無限の長い間修行している者たちも、迷いを離れて、諸物の根源である心に通達するのである。

 普賢菩薩は、あらゆる如来のさとりを求める心と、修行と本願を本質とする存在である。現象としての物質存在(色)は、実在的在り方である空と、もともと別のものではない。現象と理法とは、本来的に同一である。現象と理法、理法と理法、現象と現象の三者は、それぞれさまたげあうことなく融合しあっている。

 文殊菩薩は、八否の剣をふるって、もろもろの言葉の虚構によって生み出された煩悩を断ち切る。あらゆる差別を否定して、  ただ空のみを最高の真理とし、そこから生ずる慈悲と救済の働きは、まことに奥深いものである。

 弥勒菩薩の大いなる慈しみの境地は、楽しみを与えることをその本義とし、行為の因果が正しく相応することをその戒めとしている。教理的には、現象と本体との区別を論じ、この世界が心からのみ成り、外界の対象は存在しないとする。すなわち、心だけがここに存在するというのである。個人存在に対するとらわれ(人我)と存在要素に対するとらわれ(法我)の二つの迷いは、いつ断つことができようか。

 無限の長い時間をかけて、真理の存在を体現するのである。幻や影のような現象世界は、名前のみある仮の姿にすぎないのである。

 真言の修行者である金剛薩ったは、さとりを求める原因(因)とさとりに向かう修行(行)、さとりのあかし(証)と涅槃に入る(入)である。その中で、般若の智慧が、さとりの原因であり、しかも行である。

 さまたげなく、さわりのない状態が、涅槃に入ることであり、さとりを証する智慧は、そのままさとりの結果である。

 完全なやすらぎと、さとりそのものと、身体とそれらの拠り所としての国土世界とがそなわっており、どこに欠けたところがあろうか。

 声聞の真言、縁覚の真言、大乗の真言、秘蔵、すなわち密教の真言である。

 行き行きて、静かな涅槃の境地に至る。

 去り去りて、根源的なさとりに入る。

 あらゆる教えの究極的なさとりに入る。