新四国霊場について

 四国遍路の「写し」は、新四国霊場の呼称の他に、地四国、准四国、島四国、半島四国、
ミニ四国、地場大師、などと呼ばれ、日本各地にみららえる。また、日本人が移住したハワイ
にも4カ所あるらしい。また、その規模もさまざまで、寺院境内や裏山に88体の石像を順に並
べたものや、徒歩だと10日以上かかるものまである。
 新西国巡礼は、その半数以上が、成立が中世から江戸中期のものが多いが、新四国霊
場は、中世に確認できるものがなく、全てが江戸時代以降である。結果、新四国は、江戸時
代中期から昭和にかけて、成立したといえる。
 「新四国霊場は、民衆特に社会的下層階級や女性たちのレクレーションの性格が濃厚であ
る。」というみかたもある。大抵は、四国霊場の「お砂踏み」であったり、それぞれのご本尊の
石像が中心である。

 また、新四国霊場が開創された動機には特徴がある。
(1)50年ごとの弘法大師遠忌の記念にできた例
(2)本四国希望者の老齢化と経済的な理由のために、本四国に行けないもののため。
(3)僧侶の情熱によって、また四国遍路経験者の希望によるもの。

 代表的な新四国霊場
   ○小豆島八十八箇所(1686年)
    小豆島の中の四国霊場をめぐっていく民間信仰である。島四国、小豆島霊場などとも
いう。伝承によると、真言宗の開祖空海が、生まれの地である讃岐国と京の都を往復する際、
小豆島にしばしば立ち寄ったという。この小豆島の各所で修業、祈念を行なったという。1686
年(貞享3年)、小豆島の僧侶たちで、この空海の修業、祈念の場を整備したのが小豆島八十
八ヶ所霊場である。
(島四国は、淡路島、粟島、因島、弓削島、大島など、瀬戸内海の島嶼にそれぞれ存在し、
小豆島だけを指すものではないが、一般には最も巡礼が盛んな小豆島八十八ヶ所を指して
使われることが多い。)

   ○知多四国八十八箇所(1809年)
    弘法大師(空海)は、東国巡錫の途中に知多半島に上陸し、その時、弘法大師は知多の
風景があまりにも四国に似ていることに驚き、「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国な
るらん」という歌を詠んだとされている。その後1809年(文化6年)に、妙楽寺住職亮山阿闍梨が
弘法大師の夢告によって発願。三度四国に巡拝を重ね、岡戸半蔵・武田安兵衛の協力を得て、
知多四国霊場を開創したとされる。

  ○篠栗四国八十八箇所(1836年)
    篠栗霊場の歴史は天保年間、慈忍という人物がこの地を訪れた天保六年に始まる。慈忍
は四国八十八箇所を巡拝したその帰りに篠栗村に立ち寄った尼僧であった。四国八十八箇所の
開祖たる弘法大師も訪れたと伝わるこの村の者達の困窮を垣間見た慈忍は、その救済を目論み
この地にとどまり弘法大師の名において祈願を続け、やがて村に安寧をもたらしたものと伝わる。
このことを弘法大師の利益(りやく)であるとした慈忍は、村の者達に四国のそれを模した88か所
の霊場の造成を提案。呼応した村人達の手によって徐々に石仏がつくられはじめ、慈忍が没した
のちにおいて、その志を継ぐ村の篤志家達の尽力によって88に達する霊場群が完成、それが今に
ある篠栗霊場の起源であると伝わっている。

 また、全国には、四国88カ所霊場に準じ、それぞれの地方の88ヶ寺を選定して、それをめぐる巡礼
も作り出した。
  北海道八十八箇所
  関東八十八箇所
  相模国準四国八十八箇所
  伊豆八十八箇所
  摂津国八十八箇所
  三重四国八十八箇所
  秋穂八十八箇所
  九州八十八ヶ所百八霊場
  美濃四国