須 弥 山 (しゅみせん)

http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/HandS/tango/3000sekai/3senseksai.html
http://www1.plala.or.jp/eiji/sub10.htm
(上記、URLのHPを参考にさせていただきました。)

 「倶舎論」(くしゃろん)の世間品(せけんぼん)に、その宇宙論があります。         

お釈迦さまの教えの中には、宇宙に関するいくつかの考え方があります。
仏教にはさまざまな経典や言葉があるが、結局は輪廻(りんね)と解脱(げだつ)の
2つの思想にいきつくものです。

解脱とは輪廻あっての解脱です。輪廻と解脱の両方を解説しないといけないのですが
従来の仏教の解説書は、たいていは解脱に関するものでした。

仏教宇宙観の体系を示す書物の1つにインド5世紀の仏僧ヴァスバンドゥの「倶舎論
(くしゃろん)」がある。この中の「世品(せほん)」という1章にいわゆる須弥山(しゅみせん)説
が述べられています。

[三千大千世界] (さんぜんたいせんせかい)

直径が太陽系程の大きさの円盤が3枚重なった上に、高さ約132万Kmの山が乗っています。
これがひとつの世界で、小世界といいます。(数字が合わないのは、説の相違かもしれません。)

小世界が1,000個集まったものを小千世界。
小千世界が1,000個で中千世界。
中千世界が1,000個で大千世界といいます。

[須弥山]

これは虚空の中に風輪(ふうりん)というものが浮かんでいます。
形は円盤状で大きさは示せないほど大きい。

その上に同じく円盤状の水輪(すいりん)が乗っています。
水輪の大きさは、直径が120万3450由旬(ゆじゅん)高さが80万由旬。

その水輪の上に金輪(こんりん)が乗っています。
金輪の大きさは、直径は水輪と同じ120万3450由旬で、高さは32万由旬。
金輪上の表面に山、海、島などが乗っている。

1由旬=約7キロメートル

水輪と金輪のさかいめは金輪際(こんりんざい)と呼ばれ、 「もう金輪際いたしません」というような
表現に使われる。 つまり「金輪際」は、「真底」「徹底的」を意味しているのであって、金輪際の
一角にすむ我々にとっては、金輪際が真の底というわけだ。

この世界全体の中心に存在する仏さまが大毘廬舍那如来(だいびるしゃなにょらい)、つまり大仏さまです。
そしてお釈迦さまは、このなかの一つの小世界の人々を導くために現れた仏さまです。

円盤のまん中にある山を須弥山(しゅみせん)といいます。梵語ではスメール、玄奘三蔵法師は妙高山と訳しました。
新潟県にある妙高山はこれからとられた名前です。お寺の本堂の正面にある壇を須弥壇(しゅみだん)と呼ぶのは、
この山を型とったところからきています。


http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/HandS/tango/3000sekai/3senseksai.html
(画像は、上記「飛不動」からお借りしました。)

[有頂天] (うちょうてん)

人間の世界はこの山の裾にある島のひとつで、頂上には帝釈天をはじめとしていろいろな神様の
住む世界があります。そして山上の空中にもいろいろな世界があり、悟りの一寸手前の世界、
ほんの少し煩悩が残る世界を有頂天といいます。「うまくいった喜びで夢中になっていること」
「得意の絶頂の意味に」転用されています。

[九山八海]

金輪の上には須弥山を中心として九つの山と、その間に海があります。九山八海と呼ばれます。
一番外側に四つの島があり、南の方にある島が人間の住む世界です。閻浮提(えんぶだい)と呼ばれます。

金輪の上に9つの山がある。中央に高くそびえたつのが須弥山です。

須弥山をとりまく同心方形の山(山脈)が7つあります。
密教ではこれらを金剛界・胎蔵界両曼荼羅であらわしています。
(曼荼羅は、上から見た図。)

内側の7つは淡水の海で、外の大きなのが塩水の海で、この塩水の海の中に4つの島が浮かんでいる。
4つの島はみな形が違い、東の島は半月形、南の島は台形、西の島は円形、北の島は正方形。

南の島は形が台形といってもほとんど三角形というべき台形で、上辺が2000由旬、下辺が3.5由旬、
斜辺がそれぞれ2000由旬で、この南の島、贍部州(せんぶしゅう)が、我々の住む人間界です。

なんと、この三角形に近い台形の島は、実はインド亜大陸の形にもとづいたものだそうです。

[天界]

地の下に地獄があるとすれば、地の上には天界があります。
仏教で「天」というとき、生きた存在としての神 god を意味します。たとえば帝釈天(たいしゃくてん)とか
梵天(ぼんてん)というように。

「天」が神を意味するのに対して、「天界」は空間を意味します。
そこに、おびただしい天がいるのです。仏教の世界観は多神教ですね。

須弥山の、水上に出ている部分は正立方体で、どの辺も長さ8万由旬である。
その立方体の下半分が四天王とその眷属たちの住みかです。4層からなっています。

水面から1万由旬の高さのところに、四周に1万6千由旬、外へ張り出しています。
この層、さらに1万由旬の高さに、次の層が8千由旬だけ外へ張り出しています。
さらに1万由旬の高さに、次の層があって、4千由旬だけ張り出しています。
さらに1万由旬たかいところに、次の層があって、2千由旬張り出しています。

[四 天 王]

一番上の層には四大天(四天王)が住んでいます。

東方 持国天 (じこくてん)  
西方 広目天 (こうもくてん)
南方 増長天 (ぞうちょうてん)  
北方 多聞天 (たもんてん)

(また「二天門」のように多聞天と持国天だけを一組としてまつることもあります。)

四天王の眷属たちの住みかは、下の3つの階層です。

しかし、彼らの手下たちはこのほかに、持双山など7つの山脈や、太陽や月(須弥山の
中腹と同じ高さを回転している)などにもすんでいます。

[帝釈天(たいしゃくてん)]

次に須弥山の頂上に「三十三天の住みか」があります。
須弥山頂上の中央に「善見(げんけん)」という名の都城がある。
一辺の長さ2500由旬の正方形で、高さ1由旬半である。
建物は金ででき、地面は綿(雲?)のようなものでできている。

この都城の中央に殊勝殿(しゅしょうでん)という、一辺の長さ250由旬の正方形の宮殿。
種々の宝石で飾り立てられているこの殊勝殿こそ、三十三天中の第一、帝釈天(たいしゃくてん)の住みかです。


※ここまでの宇宙観は、主に「倶舎論」にもとづいたものです。
しかし、地獄に関してかなり詳しく述べている「倶舎論」は、極楽については一言も
触れていません。地獄と極楽とは、最初から対で考えだされたものではないということです。


[仏国土]

「仏国土」はどこか。実は「倶舎論」の宇宙論には、「仏国土」はありません。
それは大乗仏教の生み出した別の観念です。     

それでは、「倶舎論」の宇宙論では、仏はどこにいるのでしょうか。おそらく、無色界の
さらに上にいるのです。古い須弥山図をみると、仏は無色界の上に描かれています。
しかし、正しくは無色界と同様、仏の世界も空間を超越していると考えるべきでしょう。

「仏土」は大乗仏教において生まれた概念です。「倶舎論」では、すでに説明した
ように、仏は三界から脱出して無に帰しています。この完全に無に帰すること
(無余涅槃むよねはん)が、小乗仏教のめざす最高の境地です。彼らにとっては、
仏がまた形を有し、仏国土にあって活動するということは考えられないことです。

ところが、大乗仏教では、仏たちは仏国土の建設をめざして修業し、仏国土を
建設しおえたなら、迷える衆生(しゅじょう)をそこに導きいれるために永遠に活動を続けるのです。


[浄土]

宇宙にはたくさんの仏がいて、それぞれ固有の国土を所有して、教化にあたっています。
その国土は「仏土」とも「浄土」とも呼ばれます。

その代表的なものは薬師如来の東方「浄瑠璃世界」、阿弥陀如来の西方「極楽浄土」です。
また仏土ではないが、仏土に似たものとして、観音菩薩の「補陀落(ふだらく)山(せん)」
(インドの南方海中にあるとされる)があります。


[極楽浄土]  阿弥陀経

極楽浄土はどこにあるのでしょうか。三界の中にあるというのと、外にあるというのと、
2つの説あります。しかし、娑婆(人間界)からの極楽(須弥山の頂上)の距離に関しては、
「16万8千由旬(由旬=約7q)」ということです。    

極楽とはどのようなところでしょうか。そこは、その名の示すとおり、極めて楽しいところで、
この世のような苦しみは一切ない。そして、そこは言い尽くせないほど美しいところ。
七宝で飾られた池や楼閣がある。美しい鳥たちがいつも美しい声でさえずっている。

そして、この国には阿弥陀仏とその阿弥陀仏につかえる観音・勢至の二菩薩がいて、
そのもとに、信心によってそこに生まれ変わった有徳の人たちがいる。

だからと釈迦はいいます。みなこの国に生まれようと願をたてなさい。そこでは有徳の
人たちと一緒になれるのだから。だが、その国に生まれるのには、わずかな善行では足りない。
仏の名を念じて、日々一心不乱に努めるなら、その人が死ぬときに、釈迦はもろもろの聖者とともに、
その人の前にやってきてくれる。その人は死に臨んでも心みだれることもなく、
極楽浄土に迎えられるのである。


[瑠璃光世界] 薬師本願功徳経

釈迦はいいます。ここを去ること、東の方に十恒河沙などの仏土を過ぎて世界があります。
浄瑠璃というしかも、その佛土はひたすら清浄であり、女性がいなく、又、悪い所及び苦の声がなく、
瑠璃を土地とし、金の縄で道を境界し、佛の壁、宮閣、軒窓、珠でできた鎖は皆、七宝で出来ています。
また、西方極楽浄土と同じ功徳で飾られていて、差別がありません。

その国の中において2人の菩薩がいます。一人目は日光遍照(日光菩薩)、二人目は月光遍照(月光菩薩)。
これはかの無量無数の菩薩衆の上位にいて、ことごとく良くかの世尊薬師瑠璃光如来の正法の宝の蔵を
保っています。だから、諸々の信心ある、善き男女などは、まさにかの佛の世界に生まれたいと願いなさい、と。


[地獄]

たいていの宗教的宇宙観は、その宇宙のどこかに地獄をもっています。

地獄はインドの言葉「ナラカ(naraka)」の意訳である。仏教が中国に入る前、
「地獄」という言葉は中国にはありません。ナラカの音訳は奈落迦、奈落(ならく)です。
ナラカを中国語に翻訳したとき地獄という言葉ができた。現代も、舞台の床下の奈落として残っている。

地獄の数、種類、大きさなどについて、さまざまな経典がさまざまの説を述べている。
ここでは「倶舎論」を中心に説明します。


[八熱地獄]

この8つの地獄は重なりあって贍部州(せんぶしゅう)の下に存在します。
上からその名前を列記していくと

 等活とうかつ Samjiva
    罪人が責めさいなまれて死んでも、再びよみがえって暫しの生きごこちを味わうことができる地獄。

 黒縄こくじょう  Kalasutra

 衆合しゅごう  Samghata

 号叫ごうきょう  Raurava

 大叫だいきょう  Maharaurava

 炎熱えんねつ  Tapana

 大熱だいねつ  Pratapana

 無間むけん  Avici
    一瞬の休みもなくさいなまれつづける最下層の地獄

これらそれぞれ立方体をなして、縦に積み上げられています(地下深く層をなしている)。

●どの熱地獄も四壁面に1つずつ門をもっていて、1つの門ごとに次にあげる4種の副地獄がついている。
八熱地獄全体では結局128の副地獄をもつことになる。 8*16=128

 塘(火偏)畏(火偏)(とうい)副地獄
       熱した灰の中を歩かされる。
 死糞(しふん)副地獄
       死体と糞の泥沼につかり、ウジ虫に骨をうがたれ、髄をしゃぶられる。
 鋒刃(ほうじん)副地獄

 烈河(れっか)副地獄

●さらに八寒地獄というものがある。
これも贍部州の下、大地獄(熱地獄)のかたわらにあるという。

 安(安に頁)部陀 あぶた Arbuda

 尼刺部陀 にらぶだ Nirarbuda

 安(安に頁)折(口偏)陀 あたた Atata

 霍(肉づき)霍(肉づき)婆 かかば Hahava

 虎虎婆 ここば Huhuva

 温(口偏)鉢羅 うはら Utpala

 鉢特摩 はどま Padma

 摩訶鉢特摩 まかはどま Mahapadma


[輪廻]

仏教的宇宙観の底を流れているものは、業と輪廻の思想です。
輪廻という言葉は、迷える世界での生死のくりかえしを意味します。
生死のくりかえしは、5種あるいは6種の生存状態の間で行われるのです。

「六道ろくどう」(6つの迷える境界)、すなわち地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天の6種類の世界。

「生まれかわり」の思想はブッダの伝記にも反映している。仏は何度も前世をくりかえし、
修行をつんで完成者として現れます。仏典のうちに前世物語(本生譚)というのがありますが、
これは仏が前世でどのように数々の功徳をつんだかを述べたものです。それによると、
仏は前世で猿や鹿になって生まれたこともあるのです。


[業]

輪廻の思想とともに重要なのは、業の思想です。
業はインドの言葉カルマまたはカルマンの訳語であって、「行為」を意味します。
そして、それとともにその行為のもつ影響力をもさします。行為といっても単に
身体の行為だけでなく、言語行為と精神行為も含まれます。また影響力というのも、
単に一生の間おこりうる影響力だけでなく、来世にまでつづく影響力も含まれるのです。

業の作用は自動的に働くものです。決して神のごとき裁定者の介入を必要としません。
よい原因をつくれば、よい結果が生まれ、悪い原因をつくれば悪い結果が生まれます。

自業自得という言葉がありますが、これは自分がおこなった行為の結果を自分が
受ける、ということを表しています。だから、仏教では「罰せられる」とか「地獄におとされる」とかは
言いません。自分が「報いを受ける」のであり、自分で「地獄に おちる」のですね。                               

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