即身成仏義

  赤文字が本文です。基本的に、高野山大学編『十巻章』の「即身成仏義」を定本として、加納和雄先生の授業を基に、金岡秀友氏『空海即身成仏義』の訳とちくま学芸文庫『空海コレクション1』を参照しました。普通のフォントでは書けないものは、平仮名にしました。また梵字は、カタカナにしました。

即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ) 

原文 解説

二経一論八箇の証文
   (にきょういちろんはっかのしょうもん)


  問うて曰く、
     とうていわく、
 
 諸の経論の中に、皆三劫成仏を説く。
 もろもろのきょうろんのなかに、みなさんごうじょうぶつをとく。
 
 いま即身成仏の義を建立する、
 いまそくしんじょうぶつのぎをこんりゅうする、
   何の憑拠か有るや。
    なんのひょうこかあるや。
  答う、
    こたう、
  秘密蔵の中に如来、是の如く説き給う。
 ひみつぞうのなかににょらい、かくのごとくときたもう。
    問う、彼の経に云何が説く。
    とう、かのきょうにいかんがとく。
  『金剛頂経』に説かく、
    『こんごうちょうきょう』にとかく、
  「この三昧を修する者は、現に仏の菩提を証す」
    このさんまいをしゅうするものは、
    げんにほとけのぼだいをしょうす
 <この三昧とは、謂く大日尊一字頂輪王の三摩地なり>と
    このさんまいとは、いわくだいにちそん
    いちじちょうりんのうのさんまじなりと
  また云く、
    またいわく、
  「もし衆生有って、この教に遇って、
  もししゅじょうあって、このきょうにあって、
  昼夜四時に精進して修すれば、
  ちゅうやしじにしょうじんしてしゅうすれば、
  現世に歓喜地を証得し、
   げんぜにかんぎじをしょうとくし、
  後の十六生に正覚を成ず」と。
のちのじゅうろくしょうにしょうかくをじょうず」と。
  謂く、この教といっぱ、法仏、自内証の三摩地大教王を指す。
  いわく、このきょうとは、ほうぶつ、 じないしょうのさんまじだいきょうおうをさす。
  歓喜地とは、顕教に言う所の初地に非ず。
 かんぎじとは、けんぎょうにいうところのしょじにあらず。
  是れ則ち、自家仏乗の初地なり。
  これすなわち、じけぶっしょうのしょじなり。
  具に説くこと、『地位品』の中の如し。
つぶさにとくこと、『ちいほん』のなかのごとし。
  十六生といっぱ、十六大菩薩生を指す。
 じゅうろくしょうとは、じゅうろくぼさつしょうをさす。
 具には、『地位品』に説くが如し。
  つぶさには、『ちいほん』にとくがごとし。
また云く、「もし能くこの勝義に依って修すれば
  またいわく、「もしよくこのしょうぎによってしゅすれば、
  現世に無上覚を成ずることを得」と。
 げんせにむじょうかくをじょうずることをう」と。
  また云く、「当に知るべし、自身、即ち金剛界と為る。
    またいわく、「まさにしるべし、じしん、
    すなわちこんごうかいとなる。
  金剛と為りぬれば、堅実にして傾壊無し。
    こんごうとなりぬれば、けんじつにしてきょうえなし。
  我、金剛の身と為る」と。
    われ、こんごうのみとなる」と。

 



  『大日経』に云く、
    『だいにちきょう』にいわく、
  「この身を捨てずして、神境通を逮得し、
  「このしんをすてずして、じんきょうずうをたいとくし、
  大空位に遊歩して、而も身秘密を成ず」と。
   だいくういにゆぶして、しかもしんひみつをじょうず」と。

  「この生に於いて悉地に入らんと欲わば、
  「このしょうにおいてしつじにいらんとねがわくば、
  その所応に随って之を思念せよ。
  そのしょおうにしたがってこれをしねんせよ。
  親りに尊の所に於いて明法を受け、
  まのあたりにそんのみもとにおいてみょうほうをうけ、
  観察し、相応すれば、成就を作す」と。
  かんさつし、そうおうすれば、じょうじゅをなす」と。
  この『経』に説く所の悉地とは、
   この『きょう』にとくところのしっじとは、
  持明悉地及び法仏悉地を明かす。
じみょうしつじおよびほうぶつしつじをあかす。
 大空位とは、法身は大虚に同じて無げなり。
   だいくういとは、ほうしんはだいきょにどうじてむげなり。
  衆象を含んで常恒なり、故に大空と曰う。
  しゅぞうをがんして、じょうごうなり、ゆえにだいくうという。
  諸法の依住する所なるが故に、位と号す。
   しょほうのえじゅうするところなるがゆえに、いとごうす。
  身秘密とは、法仏の三密は、
  しんひみつといっぱ、ほうぶつのさんみつは
   等覚も見難く、十地も何ぞ窺わん。
 とうがくもみがたく、じゅうじもなんぞうかがわん。
  故に身秘密と名づく。
    ゆえにしんひみつとなづく。

 


  また龍猛菩薩の『菩提心論』に説かく、
    またりゅうみょうぼさつの『ぼだいしんろん」にとかく、
  「真言法の中にのみ即身成仏するが故に、
   「しんごんほうのなかにのみそくしんじょうぶつするがゆえに、
  是に三摩地の法を説く。
   ここにさんまじのほうをとく。
  諸教の中に於いてけっして書せず」と。
 しょきょうのなかにおいてけっしてしょせず」と。
 「是説三摩地」といっぱ、法身自証の三摩地なり。
  「ぜせつさんまじ」とは、ほうしんじしょうのさんまじなり。
  諸教といっぱ、他受用身所説の顕教なり。
  しょきょうとは、たじゅゆうしんしょせつのけんぎょうなり。




  また云く、「もし人、仏慧を求めて菩提心に通達すれば  またいわく、「もしひと、ぶってをもとめてぼだいしんにつうだつすれば、
父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す」と。
  ぶもしょしょうのしんに、すみやかにだいかくのくらいをしょうす」と。
 是の如く等の教理証文に依って、この義を成立す。

 かくのごとくらのきょうりしょうもんによって、
    このぎをじょうりゅうす。
二経とは、『金剛頂経』と『大日経』、また一論は『菩提心論』。
八箇所を引用して、問答形式で「即身成仏」を理論的に説明していく。@〜Gは、その八か所引用の元の経論

質問していう、

「いろいろの経典や論書では、どれも計り知れない長い年月をかけて修行し、やっと仏になることができると説いている。
それなのにいま、あなたはこの身このままでさとりを開くことができると言われるが、
どのような根拠があるのか。」

答えていう、

「密教の経典や論書の中に、如来はその旨を説いておられる。」

では、その経典の説はどのようなものか。
@
まず、金剛頂経一字頂輪王ゆが一切時処念誦成仏儀軌
「この瞑想の境地を修行する者は、現実に仏のさとりを体得することができる。」


<この瞑想とは、ボロンという一字の真言である転輪聖王の性格を持つ大日如来の瞑想の境地である。>

Aまた金剛頂ゆが修習毘る遮那三摩地法に次のようにいう。
「もし人々が、この秘密の教えに出会って、

昼夜精進努力して絶えず修行するならば、

この世において、法身大日如来の修業の境地を体現して、

その後生に、金剛曼荼羅の十六大菩薩の境地を得て、正しいさとりを成し遂げることができるだろ。

 

いえば、この教えとは、真理である法仏大日如来が、自ら悟られた境地にほかならない。

歓喜地とは、顕教の菩薩行十地の第一地ではない。『華厳経』「十地品」
すなわち真言密教独自の最初の段階である。
詳しく言うと、『大日経』の「住心品」に説かれている。

十六回目の生まれ変わりとは、金剛界曼荼羅の金剛薩たから金剛拳菩薩に至る十六大菩薩として生まれることである。
詳しくは、『分別聖位経』に説くものである。
(「地位品」)
Bまた、成就妙法蓮華経王ゆが観智儀軌にいうには、

「もし、このすぐれた真言密教の教えによって修行することができたら、この世においてすみやかに最高のさとりを完成するであろう。」
Cまた、金剛頂ゆが修習毘る遮那三摩地法にいうには、「はっきり、知りなさい。修行者自らが金剛界の大日如来にはかならない。
行者自身が仏の金剛のような身体になれば、心身ともに堅固確実で傾いたり壊れたりしない。
自分が、そのような金剛の身になっているのだから。」と。

D大日経』の「悉地出現品」にいうには、

「この一生の中で、思うままに行動できる不思議な力を得て、

大いなる空の境地において自由にふるまい、しかも聖なる仏の体を完成することができる。」と。

Eまた大日経』「真言行学処品」にいう。「この一生において、修行した結果得られる成就の状態に入ろうと願うならば、
自らの素質に応じてその欲すところを祈念なさい。
そうすれば阿闍梨のもとで、明らかな真言の法を受持し、

正しく観察し、その明法に従って、密教の極意を得ることができる。」と。

この『大日経』に説かれている悉地(結果功徳)とは、
明呪(真言)を唱えることで得られる功徳と、法身仏の境地を成就する功徳とを明らかにしている。
大いなる空の境地とは、さとりの本体である法仏身は、大いなる虚空と同様に妨げるものがない。
あらゆる現象存在を包括して永遠であるゆえに、大いなる空という。

あらゆる現象の拠り所とし、そこによりかかり存在するから、位と名づける。


聖なる身体を完成すること(身秘密)とは、真理の本体である大日如来の身体・言葉・心(三密)の神秘的な働きである。
それは、仏と同格の菩薩でも見ることが難しく、ましてそれ以下の十地の段階の菩薩がどうしてうかがい知ることができよう。

その結果、身秘密といわれるのである。



Fまた、龍猛菩薩の『菩提心論に説いていうには、

「真言密教の教えと行法においてのみ、この身このまま仏となれるから、

ここには瞑想の境地を得る方法を説く。

他のもろもろの教えの中には、まったく書いていない。」と。

「ここで言う瞑想の境地(三摩地)とは、真理の本体である大日如来が自らさとられた奥深い境地である。


もろもろの教えとは、他の人々の楽しみを享受させる仏身が説いた顕教である。

Gまた、菩提心論にいうには、「もし誰であっても、仏の智慧を求めてさとりの心を到達したならば、

父母より授かったこの身このままで、ただちに大日如来の境地を体得することができる。」


このように教えを説く証拠の文章によって、この身このまま仏になり得るという意義が成立するのである。
即身成仏の偈頌(そくしんじょうぶつのげじゅ)

  是の如くの経論の字義差別、云何。
    かくのごとくのきょうろんのじぎしゃべつ、いかん。

  頌に曰く、
    じゅにいわく、

   六大無碍にして常に瑜伽なり (体)
    ろくだいむげにしてつねにゆがなり

   四種曼荼各離れず       (相)
    ししゅまんだおのおのはなれず

   三密加持すれば速疾に顕はる  (用)
    さんみつかじしてそくしつにあらわる

   重重帝網なるを即身と名づく  (瑜伽)
    じゅうじゅうたいもうなるをそくしんとなづく

   法然に薩般若を具足して
    ほうねんにさつはんにゃをぐそくして

   心数・心王、刹塵に過ぎたり
    しんじゅ・しんのう、せつじんにすぎたり

   各五智・無際智を具す
    おのおのごち・むさいちをぐす

   円鏡力の故に実覚智なり   (成仏)
    えんきょうりきのゆえにじっかくちなり

このような経典や論書に説かれる「即身成仏」という字の意味や言葉の意味とその相違は、どのようであるか。

それを説く詩文で言う。

即身の詩
@現象・実在の両世界の存在要素である六つの粗大なるもの(六大)は、さえぎるものもなく、永遠に融合しあっている。

A四種の曼荼羅は、それぞれそのまま離れることはない。

B仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為形態が、不思議な働きによって感応しあっているので、すみやかにさとりの世界があらわれる。

Cあらゆる身体が、帝釈天の持つ網につけられた宝石のように、幾重にもかさなりあいながら映しあうことを、「即身」という。

成仏の詩
@あらゆるものは、あるがままに、すべてを知る智をさなえていて、

Aすべての人々には、心そのもの(心王)と心の作用(心教)がそなわって、無数に存在している。

B心そのものと心の作用のそれぞれには、五種の如来の智慧と、際限ない智慧が十分にそなわっている。

Cそれらの智慧をもって、明らかな鏡のようにすべてを照らしだすから、真実をさとったものとなるのである。
二頌八句の総釈と科分
    
(にじゅはちくのそうしゃくとかぶん)

  釈して曰く、此の二頌八句以って
    しゃくしていわく、このにじゅはっくをもって

  即身成仏の四字を歎す。
    そくしんじょうぶつのしじをたんす。

  即ち、是の四字に無辺の義を含せり。
    すなわち、このしじにむへんのぎをがんせり。

  一切の仏法は、此の一句を出でず。
    いっさいのぶっぽうは、このいっくをいでず。

  故に、略して両頌を樹てて
    かるがゆえに、りゃくしてりょうじゅをたてて

  無辺の徳を顕す。
    むへんのとくをあらわす。

  頌の文を二つに分かつ。
    じゅのぶんをふたつにわかつ。

  初めの一頌は、即身の二字を歎じ、
    はじめのいちじゅは、そくしんのにじをたんじ、

  
次の一頌は、成仏の両字を歎す。
    つぎのいちじゅは、じょうぶつのりょうじをたんす。

  初めの中に、また四有り。
    はじめのなかに、またしあり。
  
  初めの一句は体、二には相、
    はじめのいっくはたい、ににはそう、

  三には用、四には無碍なり。
    さんにはゆう、しにはむげなり。

  後の頌の中に四有り。
    あとのじゅのなかによっつあり。
 
  初めには法仏の成仏を挙げ、
    はじめにはほうぶつのじょうぶつをあげ、

  次には無数を表わし、
    つぎにはむしゅをあらわし、

  三には輪円を顕し、
    さんにはりんえんをあらわし、

  後には所由を出だす。
    あとにはしょゆうをいだす。

詳しく言えば、この二つの八句からなる詩は、


「即身成仏」という四文字を個別に讃嘆している。


すなわち、この四文字には、限りない深い意味が含まれている。


すべての仏教の教えは、この「即身成仏」の一句で表現されていて、これを出るものではない。


それゆえ、要約してこの二つの詩を掲げて、


限りない徳性をあらわしている。


詩全体を二つに分ける。


はじめの一詩は、「即身」の二字を讃嘆し、


次の一詩は、「成仏」の二字を讃嘆している。


最初の詩に、さらによっつの内容が説かれている。


最初の句には、本体(体)、二番目は様相(相)、


三番目の句には、作用(用)、四番目は、それらの自由自在な関連(無げ)。


あとの詩にも、さらに四つの内容がある。


最初の句には、真理の本体である仏の仏たることをあげ、


次の句では、無数の人びとをあらわし、


三番目には、すべてが円満に完結していることを表し、


最後の句では、成仏の理由を示している。
六大むげにして常にゆがなり
      
(ろくだいむげにしてつねにゆがなり)

  謂く、六大とは、五大と及び識なり。
    いわく、ろくだいとは、ごだいとおよびしきなり。

  『大日経』に謂う所の、
    『だいにちきょう』にいうところの、

  「我、本不生を覚り、語言の道を出過し、
   「われ、ほんぶしょうをさとり、ごごんのどうをしゅっかし、

  諸過解脱することを得、因縁を遠離せり、
    しょかげだつすることをえ、いんねんをおんりせり、

  空は虚空に等しと知る。」是れその義なり。
    くうはこくうにひとしとしる。」これそのぎなり。

  かの種字真言に曰く、
    かのしゅじしんごんにいわく、

     
     (あ  び  ら  うん けん うん)

  為く、阿字諸法本不生の義とは、
    いわく、あじしょほうほんぶしょうのぎとは、

  即ち是れ、地大なり。
    すなわちこれ、ちだいなり。
 
  ば字離言説とは、之を水大と謂う。
    ばじりごんせつとは、これをすいだいという。

  清浄無垢塵とは、是れ則ち、ら字火大なり。
   しょうじょうむくじんとは、これすなわち、らじかだいなり。

  因業不可得とは、か字門風大なり。
    いんごうふかとくとは、かじもんふうだいなり。

  等虚空とは、欠字なり。字相、即ち空大なり。
   とうこくうとは、けんじなり。じそう、すなわちくうだいなり。

  我覚とは、識大なり。
    がかくとは、しきだいなり。

  因位には、識と名づけ、果位には、智と謂う。
    いんいには、しきとなづけ、かいには、ちという。

  智、即ち覚なるが故に。
    ち、すなわちかくなるがゆえに。

  梵音のボダボウジは一字の転なり。
    ぼんおんのボダボウジはいちじのてんなり。

  ボダをば覚と名づけ、ボウジをば智と曰う。
    ボダをばかくとなづけ、ボウジをばちという。

  故に諸経の中に謂う所のサンミャクサンボダイとは、
    ゆえにしょきょうのなかにいうところの
    サンミャクサンボダイとは、

  古くは遍知と翻じ、新には等覚と訳す。
    ふるくはへんちとほんじ、しんいはとうがくとやくす。

  覚・知の義、相渉るが故に。
    かく・ちのぎ、あいわたるがゆえに。

  この『経』には、識を号して覚とすることは、
    この『きょう』には、しきをごうしてかくとすることは、

  強きに従えて名を得。
    こわきにしたがえてなをう。

  因果の別、本末の異なるのみ。
    いんがのべつ、ほんまつのいなるのみ。

  この『経』の偈には、五仏の三摩地に約して、
    この『きょう』のげには、ごぶつのさんまじにやくして、

  是の如く説を作す。
    かくにごとくのせつをなす。

   また『金剛頂経』に云く、
    また『こんごうちょうぎょう』にいわく、

   「諸法は、本より不生なり。
    「しょほうは、もとよりふしょうなり。

  自性は言説を離れたり。
    じしょうはごんせつをはなれたり。

  清浄にして垢染無し、
    しょうじょうにしてくぜんなし、

  因業なり、虚空に等し。」
    いんごうなり、こくうにしとし。」

  此れまた、『大日経』に同じ。
    これまた、『だいにちきょう』におなじ。

  諸法とは、謂く諸の心法なり。
    しょほうとは、いわくもろもろのしんぽうなり。

  心王・心数その数無量なるが故に諸と曰う。
    しんのう・しんじゅそのすうむりょうなるがゆえに
    もろもろという。

  心識、名異にして義通ぜり。
    しんしき、なことにしてぎつうぜり。

  故に天親等は、三界唯心を以て
    ゆえにてんじんとうは、さんがいゆいしんをもって
 
  唯識の義を成立す。
    ゆいしきのぎをじょうりゅうす。

  自余は上の説に同じ。
    じよはかみのせつにおなじ。

  また『大日経』に云く、
    また『だいにちきょう』にいわく、

  「我、即ち心位に同なり。
    「われ、すなわちしんいにどうなり。

  一切処に自在にして、普く種々の有情、
   いっさいしょにじざいにして、あまねくしゅじゅのうじょう、

  及び非情に遍ぜり。
    およびひじょうにへんぜり。

  阿字は第一命なり。
    あじはだいいちみょうなり。

  ば字は名づけて水とす。
    ばじはなづけてすいとす、

  ら字は名づけて火とす。
    らじはなづけてかとす。
  
  うん字を名づけて風とす。
    うんじをなづけてふうとす。

  きゃ字は虚空に同じ。」
    きゃじはこくうにおなじ。」    <五大>

  この経文の初句に、我即同心位というは、
    このきょうもんのしょくに、がそくどうしんいというは、

  所謂心は、則ち識智なり。
    いわゆるしんは、すなわちしきちなり。

  後の五句は、即ち是れ五大なり。
    のちのごくは、すなわちこれごだいなり。

  中の三句は、六大の自在の用、むげの徳を表す。
    なかのさんくは、ろくだいのじざいのゆう、
    むげのとくをあらわす。

  『般若経』及び『瓔珞経』等に
    『はんにゃきょう』および『ようらくきょう』とうに

  また六大の義を説けり。
    またろくだいのぎをとけり。

注釈すると、六つの存在要素(六大)とは、世界の存在要素である五大(地・水・火・風・空)に精神要素(識大)を加えたものである。

『大日経』の「具縁品」にいうところの、

「私は、本来、生起をもつものではなく、言語を超越していること、

もろもろの罪過を離れていること、原因と条件に左右されないこと、

空の教えが広大無辺な虚空と等しいこと。」これが、六大の象徴的に表現してものである。

密教の真言でいうには、


   あ び ら うん けん うん


(1)あ字は、さとりの世界にあるすべての存在は、本来生起もないことを象徴しており、

そのことが大地の堅固さにたたえられるので、地大を表す。


(2)ば字は、さとりの世界は通常の言語で表現されないことを象徴しており、そのことが、水の持つ清めの力にたとえられるので、水大という。



(3)ら字は、さとりの世界が汚れのないことを象徴しており、すべてを焼き尽くす火の浄化力にたとえられるので、火大を表す。



(4)きゃ字は、さとりの世界が原因や条件などの働きを超越していることを象徴しており、すべてを吹き払う風の力にたとえて風大を表す。



(5)ふーむ字は、さとりの世界が虚空に等しいことを象徴しており、あらゆるものを包含する虚空にたとえて、空大をあらわしている。



(6)わたしが悟った「我覚」というのは、精神の働きであるから識大をあらわす。

原因ともいうべき修行の段階では、「識」と呼び、結果であるさとりの段階では、「智」という。

「智」は、実に「覚」であるから。



梵語のボダボウジは、ボダ(ブッダさとる)という語根から派生した語である。

ゆえに、もろもろの経典中にあらわされるサンミャクサンボダイという語は、

古い訳では、「遍知」と漢訳され、新しい訳では、「等覚」と訳す。

これは、「覚る」と「知る」の意味が相い通じあっているからである。

この『大日経』において、<識った>とあるところを<さとった>とするのは、

世界の本来生起しないことを知ることが重要であるから、<さとった>と表現したのである。

「識」と「覚」という相違が生じるのは、修行段階か、さとりの段階かという区別、あるいは、心の本体か、心の現象かという異なりがあるにすぎない。

この『大日経』のげには、五仏の瞑想の境地を要約して、

以上のようにといたのである。

また『金剛頂ゆが修習毘る遮那三摩地法』にいうには、

「もろもろの存在は、本来生起しない。

その本性は、通常の言葉や説明によっては表現されない。

原因・条件の生ぜしめるところであり、あたかも虚空である。」

この言葉も、『大日経』と同じである。

ここでいう<もろもろの存在>とは、もろもろの心である。

心の本体とその作用は、その数が計り知れないがゆえに、もろもろという。

「心」と「識」は名称が異なっているが、意味内容は通じている。

したがって、天親(世親)論師は、「すべての存在は、ただ心の表徴のみにすぎないと説いて、

唯識の説を成立させている。

その他のことは、先の『大日経』の説と同じである。

また、『大日経』の「阿じゃり真実智品」に次のようにいう。

「我は、実に心の位相と同じである。

あらゆる場所に自由自在であり、種々の生き物、

また生き物でないものすべてに遍在している。

阿字は、第一の生命である。
ア 「仏とは、天地の生命と共に無限の命を持っている。」


ば字を名づけて、水大という。
 水大  うるおい   すべてを受け入れる作用
  「仏とは、その姿も心も我々の言葉筆に尽くしがたい偉大な存在」

ら字を名づけて、火大とする。
 火大  あたためる   すべてを成熟させる作用
「仏とは、自らの迷いや外の障りに汚れない、清浄なきれいな存在」


  風大  うごき  すべてを養っていく作用
うん字を名づけて、風大とする。
カ) 「仏とは、どう成仏したか原因も条件も想像におよばない存在」

きゃ字は、虚空と同じである。」
  空大  他をさまたげない  すべてを包容する徳
キャ 「仏とは、宇宙大の体を持ち何の障りもなく自由自在に働く存在」

(  識大  分別する  すべてを選び決めていく徳
ウン 「仏とは、清らかな心をもとに、正しく認識し、判断するすぐれた能力を持つ」)

この経文の最初に、「我は、心の位相と同じである」とあるが、

ここでいう「心」まさに「識智」のことである。

あとのあ字以下の五句は、実にこれらは五大を説いている。

中間の「あらゆる場所に云々」という三句は、六つの存在要素の自由なる作用と、さまたげがないという徳性を表している。

『般若経』および『瓔珞経』などにも、

また六つの存在要素の意義が説かれている。
六大の能生・所生 (ろくだいののうしょう・しょしょう)

  是の如く六大、能く一切の仏、及び一切衆生
    かくのごとくろくだい、よくいっさいのほとけ、
    およびいっさいしじょう

  ・器界の四種法身・三種世間を造す。
   きかいとうのししゅほっしん・さんしゅせけんをぞうす。

  故に、大日尊、如来発生の偈を説いて曰く、
    かるがゆえに、だいにちそん、にょらいはっしょうの
    げをといてのたまわく

   能く随類形の   諸法と法相と
     よくずいるいぎょうの  しょほうとほっそうと

   諸仏と声聞と   救世の因縁覚と
     しょぶつとしょうもんと  ぐぜのいんねんがくと

   勤勇の菩薩衆とを生ず  及び人尊もまた然なり
     ごんゆうのぼさつしゅうとをしょうず
     およびにんそんもまたしかり

   衆生と器世界と  次第に成立す
     しゅじょうときせかいと しだいにじょうりゅうす

   生住等の諸法   常恒に是の如く生ずと。
     しょうじゅうとうのしょほう 
     じょうごうにかくのごとくしょうずと。

  この偈は何の義をか顕現する。
    このげはなんのぎをかけんげんする。

  謂く、六大能く四種法身と曼荼羅と
    いわく、ろくだいよくししゅほっしんとまんだらと

  及び三種世間とを生ずることを表す。
    およびさんしゅせけんとをしょうずることをあらわす。

  謂く、諸法とは心法なり、
    いわく、しょほうとはしんぽうなり、

  法相とは色法なり。
    ほうそうとはしきぼうなり。

  また次に、諸法というは通名を挙げ、
    またつぎに、しょほうというはつうみょうをあげ、

  法相とは差別を顕わす。
    ほうそうとはしゃべつをあらわす。

  故に、下の句に
    かるがゆえに、しものくに

  「諸仏・声聞・縁覚・菩薩・衆生・器世間、
    しょぶつ・しょうみょう・えんがく・ぼさつ・
    しゅじょう・きせけん、

  次第に成立す」と云う。
    しだいにじょうりゅうす」という。

  また次に、諸法とは法曼荼羅、
    またつぎに、しょほうとはほうまんだら、

  法相とは三昧耶身なり。
    ほうそうとはさんまやしんなり。

  諸仏乃至衆生とは、大曼荼羅身なり。
   しょぶつないししゅじょうとは、だいまんだらしんなり。

  器世界とは、所依の土を表す。
    きせかいとは、しょえのどをあらわす。

  この器界とは、三昧耶曼荼羅の総名なり。
   このきかいとは、さんまやまんだらのそうみょうなり。

  また次に、仏・菩薩・二乗とは、智正覚世間を表す。
    またつぎに、ほとけ・ぼさつ・にじょうとは、
    ちしょうがくせけんをあらわす。

  衆生とは衆生世間なり。
    しゅじょうとはしゅじょうせけんなり。

  器世界とは即ち是れ器世間なり。
    きせかいとはすなわちこれきせけんなり。

  また次に、能生とは六大なり。
    またつぎに、のうしょうとはろくだいなり。

  随類形とは所生に法なり。
    すいるいぎょうとはしょしょうのほうなり。

  即ち四種法身、三種世間是れなり。
    すなわちししゅほっしん、さんしゅせけんこれなり。


 このような六つの存在要素は、すべての仏、及びすべての生き物・

物質世界などから成る四種の仏のあり方と、三種の世界を造り出しているのである。

それゆえに、大日如来自らが、本源たるあらゆるものを生み出すことを示す詩文を、説いていうには、

  あらゆる種類に応じた形をとる
  もろもろの存在と、その姿と

  もろもろの仏と、教えを聞いてさとるもの(声聞)と 
  世を救う因縁をさとるもの(縁覚)と、

  励み努力する菩薩たちをよく出生する。 
  仏陀(人尊)もまた同様である。

  生き物の世界も、いのちなきものの世界も順々に成立するだろう。

  生まれ、存在し、変異し、滅するという四種の様相を具えたもろもろの存在は、常にこのように生じるのである。


この詩は、いったいどういう意味を表しているのだろうか。


六つの存在要素が、よく四種の仏のあり方と、曼荼羅と、


および三種の世間とを生じることを表している。


もろもろの存在とは、心からなる存在のことである。


存在の姿とは、物質的存在のことである。


また次に、もろもろの存在とは、存在するものを全体的に述べたものであり、

存在のすがたとは、それらの相違点を述べたものである。


それゆえ、以下の句で、


「もろもろの仏と、教えを聞いてさとるもの、因縁をさとるもの、菩薩、生き物、いのちなきものの世界が、

順々に成立するであろうと述べている。


また次に、もろもろの存在とは、文字によって表現された曼荼羅である。


存在のすがたとは、象徴物によって表現される存在である。


もろもろの仏、いきものとは、具体的姿・形を具えた曼荼羅存在である。


いのちなきもののせかいとは、よりどころとなる環境世界を表している。


このいのちなきものとは、象徴物によって表現される曼荼羅の総体である。


また次に、よく生じるというのは、六つの存在要素があらゆるものを生み出すことである。


あらゆる種類に応じた形をとるものとは


、生み出された存在のことである。


すなわち、四種類の仏のあり方と三種類の世界のことである。

以上を要約すると、六つの存在要素、つまり六大が、仏をはじめわれわれ生きとし生けるもの、そして生命のない各世界を含むすべてを生み出す存在であることが知られる。

六大の能造・所造(ろくだいののうぞう・しょぞう)

  故に、次にまた言く、
    かるがゆえに、つぎにまたいわく、

  「秘密主、曼荼羅の聖尊の分位と、
    「ひみつしゅ、まんだらのしょうそんのぶんいと

  種子とひょうじとを造すること有り。
    しゅじとひょうじとをぞうすることあり。

  汝、当に諦らかに聴くべし。
    なんじ、まさにあきらかにきくべし。

  吾、今演説せん。即ち偈を説いて給わく、
    われ、いまえんぜつせん。
    すなわちげをといてのたまわく、

    真言者円壇を   まず自体に置け
      しんごんしゃえんだんを まずじたいにおけ

    足より臍に至るまで  大金剛輪を成じ
      あしよりほぞにいたるまで 
      どいこんごうりんをじょうじ

    此れより心に至るまで  当に水輪を思惟すべし
      これよりむねにいたるまで 
      まさにすいりんをしゆいすべし

    水輪の上に火輪あり  火輪の上に風輪あり」と。
      すいりんのうえにかりんあり 
      かりんのうえにふうりんあり」と。

  謂く、金剛輪とは阿字なり。阿字は即ち地なり。
    いわく、こんごうりんとはあじなり。
    あじはすなわちじなり。

  水・火・風は文の如く知んぬべし。
    すい・か・ふうはもんのごとくしんぬべし。

  円壇とは空なり。
    えんだんとはくうなり。

  真言者とは心大なり。
    しんごんしゃとはしんだいなり。

  長行の中に謂うところの聖尊とは、大身なり。
    じょうごうのなかにいうところのしょうそんとは、
    だいしんなり。

  種子とは法身なり。
    しゅじとはほっしんなり。

  ひょうじとは三昧耶身なり。
    ひょうじとはさんまやしんなり。

  かつま身とは、三身各各に之を具せり。
    かつましんとは、さんみおのおのにこれをぐせり。

  具に説かば、経文に広く之を説けり。
    つぶさにとかば、きょうもんにひろくこれをとけり。

  文に臨んで知んぬべし。
    もんにのぞんでしんぬべし。

『大日経』「秘密曼荼羅品」には、


「秘密主よ。曼荼羅に配される聖なる諸尊の位置と、


各尊を表す文字と、各尊を表す持物等を作ることがある。


あなたは、まさに理解して聞きなさい。


私は今、そのことを説明しよう。


  真言の修行者よ。まず、自らの身体に曼荼羅輪を起想しなさい。


  足から臍に至るまでを、金剛輪であるとし、


  そこから心臓に至るまでを、まさに水輪であると思いなさい。


  その水輪の上に火輪があり、火輪の上に風輪がある。」


この偈を解釈して、金剛輪とは、阿字のことである。


阿字は、実に大地を表す。


水・火・風については、次の文にあるように理解しなさい。


円壇とは、空大のことである。


真言の修行者とは、精神を有するものであるから、識大を表している。


また経文に説く、聖なる諸尊とは、尊格を姿・形・で表現した曼荼羅のあり方を指す。


各尊を表す文字とは、尊格を梵字で表した曼荼羅のあり方を指す。


各尊を表す持物等とは、尊格を象徴物で表現した曼荼羅を指す。


尊格の動作によって表現した曼荼羅は、先の三種の曼荼羅にそれぞれ具わっている。

詳しくは、経文に広く説かれている。

実際に経文にあたって理解すべきである。
 
『大日経』「悉地出現品」と六大説

  また云く、大日尊の言く、
    またいわく、だいにちそんののたまわく、

  「金剛手、諸の如来の意より生じて、
    「こんごうしゅ、もろもろのにょらいのいよりしょうじて、

  業戯の行舞を作すこと有り。
    ごっけのぎょうぶをなすことあり。

  広く品類を演べたり。
    ひろくほんるいをのべたり。

  四界を摂持して心王に安住し、
    しかいをしょうじしてしんのうにあんじゅうし、

  虚空の等同なり。
    こくうにとうどうなり。

  広大の見・非見の果を成就し、
    こうだいのけん・ひけんのかをじょうじゅし、

  一切の声聞、びゃく支仏、諸の菩薩の
   いっさいのしょうもん、びゃくしぶつ、もろもろのぼさつの

  位を出生す」と。
    いをしゅっしょうす」と。

  この文は、何の義をか顕現するや。
    このぶんは、なんのぎをかけんげんするや。

  謂く、六大能く一切を生ずることを表す。
   いわく、ろくだいよくいっさいをしょうずることをあらわす。

  何を以ってか知ることを得るや。
    なにをもってかしることをえるや。

  謂く、心王とは識大なり。
    いわく、しんのうとはしきだいなり。

  摂持四界とは四大なり。
    せつじしかいとはしだいなり。

  等虚空とは空大なり。
    とうこくうとはくうだいなり。

  この六大は能生なり。
    このろくだいはのうしょうなり。

  見・非見とは欲・色界・無色界なり。
    けん・ひけんとはよく・しきかい・むしっかいなり。

  下は文の如し。
    しもはもんのごとし。

  即ち是れ所生の法なり。
    すなわちこれしょしょうのほうなり。

  此の如くの経文は、
    かくのごとくのきょうもんは、

  皆六大を以て能生と為し、
    みなろくだいをもってのうしょうとなし、

  四法身・三世間を以て所生と為す。
    しほっしん・さんせけんをもってしょしょうとなす。

  この所生の法は、上、法身に達し、
    このしょしょうのほうは、かみ、ほっしんにたっし、

  下、六道に及ぶまで、
    しも、ろくどうにおよぶまで、

  そ細隔てあり、大小差ありと雖も、
    そさいへだててあり、どいしょうさありといえども、

  然れどもなお六大を出でず。
    しかれどもなおろくだいをいでず。

  故に仏、六大を説いて
    ゆえにほとけ、ろくだいをといて、

  法界体性と為し給う。
    ほっかいたいしょうとなしたまう。
また『大日経』で大日如来がおっしゃるには、


「金剛手よ、もろもろの如来の意から生じて、


人々を自在に教え導くための行為やふるまいをなすのである。


その時、広く種々の範疇があることを明らかにする。


四つの世界を摂し保って心の本体を確立させ、


遍在することは、あたかも虚空のごとくである。

広大
なる見える結果(見)、及び見えない結果(非見)を完成させ、


すべての教え聞いて悟る者、独力でさとるもの、もろもろの菩薩の

位を出生するのである。」と。

この文句は、いかなる意義を表しているのか。


答えていうには、六つの存在要素が、よくすべてを生じるということを、あらわしている。

では、何をもって、そのことを知り得るのか。

答えて、心の本体(心王)とは、識大のことである。


四界を摂し保つとは、地・水・火・風の四大のことである。


虚空に等しいとは、空大のことである。


これら六つの存在要素は、ものを生じるものである。

見・非見とは、欲望の世界・物質からなる世界・純粋精神世界である。


それ以下は、経文に説くとおりである。


すなわち、これらは、生み出されるもの(所生)である。


このような経文は、


すべて六つの存在要素をもって生み出すももとして、


四種類の仏の身体と三種類の世界を生み出されるものとしている。


これらの生み出されるものは、上は、真理の当体である仏身から、


下は、六道という六つの存在領域に至るまで、


粗大なものと微細なものという相違があったり大小という相違があるとはいえ、


それでもすべて六つの存在要素と関係がないものはない。

それゆえに、如来は、六つの存在要素を

さとりの世界の根本であると説かれたのである。
顕教と密教の六大説

  諸の顕教の中には、
    もろもろのけんぎょうのなかには、

  四大等を以て非情と為す。
    しだいとうをもってひじょうとなす。


  密教には、則ち此れを説いて
    みっきょうには、すなわちこれをといて

  如来の三摩耶身と為す。
    にょらいのさんまやしんとなす。

  四大等、心大を離れず。
    しだいとう、しんだいをはなれず。

  心色、異なると雖も、
    しんしき、ことなるといえども、

  その性即ち同なり。
    そのしょうすなわちどうなり。

  色即ち心、心即ち色、
    しきすなわちしん、しんすなわちしき、

  無障無げなり。
    むしょうむげなり。

  智即ち境、境即ち智、
    ちすなわちきょう、きょうすなわちち、

  智即ち理、理即ち智、
    ちすなわちり、りすなわちち、

  無げ自在なり。
    むげじざいなり。

  能・所の二生有りと雖も、
    のう・しょのにしょうありといえども、

  都て能・所を絶せり、
    すべてのう・しょをぜっせり。

  法爾の道理に何の造作か有らん。
    ほうにのどうりになんのぞうさかあらん。

  能・所等の名は、皆是れ蜜号なり。
    のう・しょとうのなは、みなこれみつごうなり。

  常途浅略の義を執して、
    じょうずせんりゃくのぎをしゅして、

  種々の戯論を作すべからず。
    しゅじゅのげろんをなすべからず。

  是の如くの六大法界体性所成の身は、
    かくのごとくのろくだいほうかい
    たいしょうしょじょうのみは、

  無障無げにして、
    むしょうむげにして、

  互相に渉入相応し、
    たがいにしょうにゅうそうおうし、

  常住不変にして同じく実際に住せり。
    じょうじゅうふへんにしておなじくじっさいにじゅうせり。

  故に頌に、
    かるがゆえにじゅに、

  「六大無げにして常にゆがなり。」と曰う。
    「ろくだいむげにしてつねにゆがなり」という。

  無げとは、渉入自在の義なり。
    むげとは、しょうにゅうじざいのぎなり。

  常とは、不動不壊等の義なり。
    つねとは、ふどうふえとうのぎなり。

  ゆがとは、翻じて相応と云う。
    ゆがとは、ほんじてそうおうという。

  相応渉入は、即ち是れ「即」の義なり。
    そうおうしょうにゅうは、すなわちこれ「そく」のぎなり。

もろもろの一般仏教の教えでは、


四つの存在要素を単に物質的なものとみなしている。


それに対して、密教では


それらのものを如来の象徴と考えている。


四つの存在要素などは心という存在と無関係ではない。


心と物質は、異なるといっても


その性質は同じである。


物質(色)は、すなわち精神(心)、精神すなわち物質であり、

両者の間にはさわりがなくさまたげがない。

主観である認識(智)は、すなわち客観となる対象(境)であり、


対象は、すなわち主観異ならない。


認識は、すなわち道理、道理はすなわち認識であって、


互いに自由に関連しあっている。


生み出す主体(能)と生み出される客体(所)があるといっても


究極的見地からいえば、すべて主客の対立を離れている。


あるがままの自然の道理には、どうしてそのような対立があろうか。


主客等の名称は、すべてこれらは象徴的作用にすぎない。


世間で行われている皮相的な意味にとらわれて


さまざまな言葉の虚構に基づく議論をなすべきではない。


このような六つの存在要素からなるさとりの世界の存在は


さわりなく、さまたげなく、


相互に交渉して相応しあい、


永遠に不滅であって、そのまま真実にして究極的な境地である。

したがって、詩文に、


「六つの存在要素はさわりなく、常に結びつきあっている。」と説く。


さわりなくとは、自由自在に交渉しあう意味である。


永遠とは、動かない・壊れない等の意味である。


結びつきあうとは、梵語のヨーガを翻訳して「相応」という。

相応しあい、交渉しあうことが、すなわち「即身成仏」の「即」の意味である。
四種曼荼各離れず

  「四種曼荼各離れず」とは、
    「ししゅまんだらおのおのはなれず。」とは

  『大日経』に説かく、
    『だいにちきょう』にとかく、

  「一切如来に三種の秘密身有り、
    「いっさいにょらいにさんしゅのひみつしんあり、

  謂く字・印・形なり」と。
    いわくじ・いん・ぎょうなり」と。

  字とは法曼荼羅なり。
    じとはほうまんだらなり。

  印とは、謂く、種々のひょうじ、即ち三昧耶曼荼羅なり。
    いんとは、いわく、しゅじゅのひょうじ、
    すなわちさんまやまんだらなり。


  形とは相好具足の身、
    ぎょうとはそうごうぐそくのしん、

  即ち大曼荼羅なり。
    すなわちだいまんだらなり。
 
  この三種の身に、各威儀事業を具す、
    このさんしゅのしんに、おのおのいぎじごうをぐす、

  是れをかつ磨曼荼羅ろ名づく。
    これをかつままんだらとなづく。

  是れ四種曼荼羅なり。
    これししゅまんだらなり。
偈の「四種の曼荼羅が、それぞれ葉なれることがな。」とは、

『大日経』の「説本尊三昧品」にいうことには、


「すべての如来には、三種類の秘密の表現形態がある。

それは、梵字と印相と形像である。


梵字とは、種子で表現する曼荼羅のことである。


印相とは、さまざまの象徴物、すなわち象徴物で表現する曼荼羅のことである。


形像とは、姿・形を具えている身体、


すなわち尊形曼荼羅のことである。


この三種類の身体に、各々たたずまいや働きが備わっているのを、

働き(立体)曼荼羅と名づける。


以上が、四種類の曼荼羅である。
『金剛頂経』の四種曼荼羅

  もし『金剛頂経』の説に依らば、四種曼荼羅とは、
    もし『こんごうきょう』のせつによらば、
    ししゅまんだらとは


  一には、大曼荼羅、謂く、
    いちには、だいまんだら、いわく、

  一一の仏菩薩の相好の身なり。
    いちいちのぶつぼさつのそうごうのしんなり。

  またその形像を彩画するを大曼荼羅と名づく。
    またそのぎょうぞうをさいがするをだいまんだらと
    なづく。


  また五相を以て本尊のゆがを成ずるなり。
    またごそうをもってほんぞんのゆがをじょうずるなり。

  また大智印と名づく。
    まただいちいんとなづく。

  二には、三昧耶曼荼羅、
    にには、さんまやまんだら、

  即ち所持のひょうじの刀剣、輪宝、金剛、蓮華
    すなわちしじのひょうじのとうけん、りんぼう、
    こんごう、れんげ


  等の類是れなり。
    とうのたぐいこれなり。

  もしその像を画するも、また是れなり。
    もしそのぞうをがするも、またこれなり。

  また二手を以て和合し、
    またにしゅをもってわごうし、

  金剛縛を発生して、印を成ずる、是れなり。
    こんごうばくをはっしょうして、いんをじょうずる、
    これなり。


  また三昧耶智印と名づく。
    またさんまやちいんとなづく。

  三には法曼荼羅、本尊の種子真言なり。
    さんにはほうまんだら、ほんぞんのしゅじしんごん 
    なり。

  もしその種子の字を各本位に書く、是れなり。
    もしそのしゅじのじをかくほんいにかく、これなり。

  また法身の三摩地、及び一切契経の文義等、
    またほっしんのさんまじ、およびいっさいかいきょう
    のもんぎとう、


  皆是れなり。
    みなこれなり。

  また法智印と名づく。
    またほうちいんとなづく。

  四にはかつま曼荼羅、
    しにはかつままんだら、

  即ち諸仏菩薩等の種種の威儀事業、
    すなわちしょぶつぼさつのしゅじゅのいぎじごう、

  もしは鋳、もしは捏等もまた是れなり。
    もしはちゅう、こしはねつとうもまたこれなり。

  またかつま智印と名づく。
    またかつまちいんとなづく。


もしも『金剛頂経』の経典の説によると、四種類の曼荼羅とは、


第一の「大曼荼羅」とは、


一つ一つの仏・菩薩の姿・形をそなえた身体である。


また、その形像を彩りして描いたものを「大曼荼羅」と呼ぶ。


さらに、五段階の観法をもって、金剛曼荼羅本尊の大日如来をその身に体現することである。

また、大いなる仏の智恵を象徴する「大智印」と呼ぶ。


第二の「三昧耶曼荼羅」とは、


すなわち諸尊が持っている目印の刀剣・輪宝・金剛杵・蓮華


などの類がこれである。


もしそれらの形を描いたものがあれば、それも「三昧耶曼荼羅」である。

また左右の両手を合わせて、


金剛縛の印契を結び、そこから種々の印相を作り出すのも、「三昧耶曼荼羅」である。


第三は、「法曼荼羅」である。本尊を表す梵字の種字と秘密にして真実の語句「真言」がこれである。


もしその梵字の種字をそれぞれの諸尊の配された位置に正しく書いたものがあれば、それが、「法曼荼羅」である。


また、さとりの当体としての仏身の境地、及びあらゆる経典の文章表現とその意味内容も


すべてみな「法曼荼羅」である。


また教えや言語として表現された仏の智恵のしるし「法智印」とも呼ばれる。


第四は、「かつま曼荼羅」である。


もろもろの仏・菩薩等のさまざまのあり方や働きがこれであり、


また鋳造したもの、こねて作ったものなども「かつま曼荼羅」である。


また活動として表現された仏の智恵のしるし「かつま智印」とも呼ばれる。
不離

  是の如くの四種曼荼羅・四種智印、その数無量なり。
    かくのごとくのししゅまんだら・ししゅちいん、
    そのすうむりょうなり。


  一一の量、虚空に同じ。
    いちいちのりょう、こくうにおなじ。

  彼れは此れを離れず、此は彼れを離れず。
    かれはこれをはなれず、これはかれをはなれず。

  猶し空光のむげにして逆えざるが如し。
    なおしくうこうのむげにしてさかえざるがごとし。

  故に「四種曼荼羅各離れず。」と云う。
    かるがゆえに「ししゅまんだらかくはなれず。」という。

  不離は、即ち是れ即の義なり。
    ふりは、すなわちこれそくのぎなり。
このような四種類の曼荼羅、またそれらと不離の関係にある仏の智恵のしるしは、その数が量り知れない。

それでいて、一つ一つの大きさは虚空と同じである。

そして、各曼荼羅がお互いに関連しあい、不離である。

それは、たとえば空間と燈明の光が、さまたげあうこともなく、さからいあうこともなく、溶け合っているようなものである。

それゆえに、「四種類の曼荼羅が、それぞれ真実の相をあらわしそのまま離れることがない。」と説くのである。

離れることがないのは、すなわち「即」という意味である。
三密加持して速疾に顕る

  「三密加持して速顕る」とは、謂く、
    「さんみつかじしてそくしつにあらわる」とは、いわく、

  三密とは、一には身密、二には語密、三には心密なり。
    さんみつとは、いちにはしんみつ、ににはほみつ、
    さんにはしんみつなり。


  法仏の三密は、甚深微細にして
    ほうぶつのさんみつは、じんじんみさいにして

  等覚・十地も見聞すること能わず、故に蜜と号う。
    とうがく・じゅうじもけんもんすることあたわず、 
    かるがゆえにみつとごうす。


  一一の尊、等しく刹塵の三密を具して
    いちいちのそん、ひとしくせつじんのさんみつをぐして

  互相に加入し、彼此摂持せり。
    たがいにかにゅうし、ひししょうじせり。

  衆生の三密もまた是の如し。
    しゅじょうのさんみつもまたかくのごとし。 

  故に三密加持と名づく。
    かるがゆえにさんみつかじとなづく。

  もし真言行人有って、この義を観察して、
    もししんごんぎょうじんあって、このぎをかんさつして、

  手に印契を作し、口に真言を誦し、
    てにいんけいをなし、こちにしんごんをじゅし、

  心、三摩地に住すれば、
    こころ、さんまじにじゅうすれば、

  三密相応して加持するが故に、
    さんみつそうおうしてかじするがゆえに、

  早く大悉地を得。
    はやくだいしっじをう。
「仏と我々との三種の行為形態が、不思議な働きによって応じあうとき、すみやかにさとりの世界が現れる」というのは、


三密とは、第一に身体、第二には言葉、第三には心のそれぞれの深遠なはたらきである。


真理の当体としての仏の身体・言葉・心の三種の活動は、きわめて奥深くこまやかであって、


さとりの内容が仏と等しい菩薩や、それ以下の十段階の修行する菩薩も見聞し覚知することはできない。だから深遠なはたらき(密)という。


一つ一つの尊格は、いずれも均等に無数の三種の行為形態をそなえており、

お互いに力を加えあい、相互に支えあう関係である。

我々の身体・言葉・心の行為形態もまた同じである。

その結果、「仏と我々との三種の行為形態が、不思議な働きによって応じあう」(三密加持)と名づけるのである。

もし、真言密教の修行者の一人が、この意味を正しく観察して、

手に印契を結んで、口に真言を唱えて、


心を瞑想の境地に集中するならば、

ほとけとわれわれのそれぞれの三種の行為形態が、相応じあい、力を加えあうから、


すみやかに偉大なさとりの感性の境地を得るのである。
『金輪時処儀軌』の三種真言

  故に、『経』に云く、
    ゆえに、『きょう』にいわく、
  
  「この毘る遮那仏の三字の密言、
    「このびるしゃなぶつのさんじのみつごん、

  共に一字にして無量なり。
    ともにいちじにしてむりょうなり。

  適に印・密言を以て心を印すれば、
    まさにいん・みつごんをもってむねをいんすれば、

  鏡智を成じて、速やかに
    きょうちをじょうじて、すみやかに

  菩提心金剛堅固の体を獲。
    ぼだいしんこんごうけんごのたいをう。

  額を印すれば、当に知るべし、
    ひたいにいんすれば、まさにしるべし、

  平等性智を成じて、速やかに
    びょうどうしょうちをじょうじて、すみやかに

  灌頂地の福聚荘厳の身を獲。
    かんじょうちのふくじゅしょうごんのみをう。

  密語を以て口を印する時、妙観察智を成じて、
    みつごをもってくちをいんするとき、
    みょうかんさつちをじょうじて、


  即ち能く法輪を転じて、仏の智慧身を得。
    すなわちよくほうりんをてんじて、
    ほとけのちえしんをう。


  密言を誦じて頂を印すれば、成所作智を成じて、
    みつごんをじゅじていんすれば、
    じょうしょさくちをじょうじて、


  仏の変化身を証し、能く難調の者を伏す。
    ほとけのへんげしんをしょうし、
    よくなんじょうのものをふす。


  この印・密言に由って自身を加持すれば、
    このいん・みつごんによってじしんをかじすれば、

  法界体性智毘る遮那仏の虚空法界身を成ず。」と。
    ほっかいたいしょうちびるしゃなぶつの
    こくうほっかいしんをじょうず。」と。

『金剛頂経一字頂輪王ゆが一切時処念誦成仏儀軌』では、


「毘る遮那如来のオン・ボク・ケンの三字からなる秘密の言葉は、


いずれも一文字で表現されるが、その意味は計り知れない。


印相と真言でもって、適切に心をその場所としてあてれば、


鏡のようにすべてを映し出す智慧を完成して、すみやかに


さとりの心が金剛のように堅固になった身体を得る。


次に額にその場所としてあてれば、


あらゆるものを平等に知る智慧を完成して、すみやかに、


菩薩の資格を得た境地における福徳のあつまりで荘厳された身体を得る。


秘密の真言をもって、その場所として口にあてれば、あらゆるものを正しく観察する智慧を完成して、


すぐによく教えを説き、仏の智慧の身体を獲得する。


秘密の真言をとなえて、自己の頂きにあてれば、なすべきことをなしとげる智慧を完成して、


仏が救済するために現した身体を実感し、導き難いものを教化することができる。


これらの印契と真言によって、自ら自身の不思議な力を加えるならば、


さとりの当体をその智慧とした毘る遮那如来の虚空のような広大・深遠なるさとりの身体を得るであろう。」と。
『観智儀軌』の法身真如観 

  また云く、
    またいわく、

  「法身真如観に入って、
    「ほっしんしんにょかんにいって、

  一縁一相平等なること、
    いちえんいっそうびょうどうなること、

  猶し虚空の如し。
    なおしこくうのごとし。

  もし能く専注して無間に修習すれば、
    もしよくせんちゅうしてむげんにしゅうしゅうすれば、

  現生に則ち初地に入り、
    げんじょうにすなわちしょじにいり、

  頓に一大阿僧祇劫の福智の資糧を集む。
    とみにいちだいあそうぎごうのふくちのしりょうを
    あつむ。


  衆多の如来に加持せらるるに由るが故に、
    しゅうたのにょらいにかじせらるるによるがゆえに、

  乃し十地・等覚・妙覚に至って薩般若を具し、
    いましじゅうじ・とうがく・みょうかくにいたって
    さはんにゃをぐし、


  自他平等にして一切如来の法身と共に同じく、
    じたびょうどうにしていっさいにょらいの
    ほっしんとともにおなじく、

  常に無縁の大悲を以て、
    つねにむえんのだいひをもって、

  無辺の有情を利楽し、大仏事を作す。」と。
    むへんのうじょうをりらくし、だいぶつじをなす。」と。
また『成就妙法蓮華経王ゆが観智儀軌』にいうには、


「さとりの当体である仏身を真理にはかならないとする観想に入るならば、主観と客観が平等にして区別がなくなることは、


あたかも虚空のごとくである。


もし、よく専念して、絶え間なく修行したならば、


この身このままで、すぐに菩薩の修行すべき十段階のうち最初の段階に入り、


すみやかに、本来は無限の時間を必要とする福徳と智慧の功徳を集めることができる。

数多くの如来の不思議な力をくわえられることによって、


より高位の十段階に至った菩薩・さとりの内容が仏と等しい菩薩・妙なる智慧がそなわった位のものに至るまで、あらゆるものを知る智慧をそなえ、


自己と他者とが平等にして、すべての如来のさとりの当体と同じく、


常に分け隔てのない広大なる慈悲でもって、


かぎりなき生き物に利益を与え、安楽にし、偉大な仏としての活動を行うのである。」と。
『五秘密儀軌』の成仏法

  また云く、
    またいわく、

  「もし毘る遮那仏自受用身所説の
    「もしびるしゃなぶつじじゅゆうしんしょせつの

  内証自覚聖智の法、
    ないしょうじかくしょうちのほう

  及び大普賢金剛さったの他受用身の智に依らば、
    およびだいふげんこんごうさったの
    たじゅゆうしんのちによらば、

  則ち現生において曼荼羅阿じゃ梨に遇逢い、
    すなわちげんじょうにおいてまんだらあじゃりにあい、

  曼荼羅に入ることを得。
    まんだらにいることをう。

  為く、かつ磨を具足し、普賢三摩地を以て
    いわく、かつまをぐそくし、ふげんさんまじをもって

  金剛薩たを引入して、その身中にいる。
    こんごうさったをいんにゅうして、そのしんちゅうに
    いる。


  加持の威徳力にゆるが故に、
    かじのいとくりきによるがゆえに、

  須ゆの頃に於いて当に無量の三摩耶、
    じゅゆのあいだにおいてまさにむりょうのさんまや、

  無量の陀羅尼門を証すべし。
    むりょうのだらにもんをしょうすべし。

  不思議の法を以て、能く弟子の倶生我執の種子を
  変易して、
    ふしぎのほうをもって、よくでしのくしょうがしゅうの
    ししをへんにゃくして、


  時に応じて身中に一大阿僧祇劫の所集の福徳を
  集得して、
    ときにおうじてしんちゅうにいちだいあそうぎごうの
    しょじゅうをじっとくして、


  則ち仏家に生在すと為す。
    すなわちぶっけにしょうざいすとなす。

  その人、一切如来の心より生じ、仏口より生じ、
    そのひと、いっさいにょらいのこころよりしょうじ、
    ぶつくよりしょうじ、


  仏法より生じ、法花より生じて、仏の法財を得。
    ぶっぽうよりしょうじ、ほっけよりしょうじて、
    ほとけのほうざいをう。


  法財とは、謂く三密の菩提心の教法なりと。
    ほうざいとは、いわくさんみつのぼだいしんの
    きょうほうなりと。


 <此れは初めて菩提心戒を授かる時、阿じゃ梨の
  加持方便に由って得る所の益を明かす。>
    <これははじめてぼだいしんかいをさずかるとき、
    あじゃりのかじほうべんによってうるところのやくを
    あかす。>


  わずかに曼荼羅を見れば、能く須ゆの頃に浄信す。
    わずかにまんだらをみれば、よくしゅゆのあいだに
    じょうしんす。


  歓喜の心を以てせん都するが故に、
    かんぎのこころをもってせんとするがゆえに、

  即ち阿頼耶識の中に於いて金剛界の種子を種う、と。
    すなわちあらやしのなかにおいてこんごうかいの
     しゅしをう、と。


  <この文は、初めて曼荼羅海会の諸尊を見て得る所の
   益を明かす。>
    <このぶんは、はじめてまんだらかいえのしょそんを
     みてうるところのえきをあかす。>


  具に灌頂受識の金剛名号を受く。
    つぶさにかんじょうじゅしきのこんごうみょうごうを
    うく。

  此れより已後、広大甚深不思議の法を受得して、
    これよりいご、こうだいじんじんふしぎのほうを
    じゅとくして、


  二乗・十地を超越す。
    にじょう・じゅっちをちょうえつす。

  この大金剛薩た五密ゆがの法門を、
    このだいこんごうさったごみつゆがのほうもんを、

  四時に於いて行住坐臥の四威儀の中に、
    しじにおいてぎょうじゅうざがのしいぎのなかに、

  無間に作意し修習すれば、見聞覚知の境界に於いて、
    むげんにさいししゅじゅうすれば、けんもんかくちの
    きょうかいにおいて、


  人・法二空の執、悉く皆平等にして、
    にん・ほうにくうのしゅう、ことごとくみなびょうどうに
    して、


  現生に初地を証得し、漸次に昇進す。
    げんせいにしょじをしょうとくし、ぜんじにしょうしんす。

  五密を修するに由って、
    ごみつをしゅうするによって、

  涅槃・生死に於いて染せず著せず、、
    ねはん・しょうじにおいてぜんせずじゃくせず、

  無辺の五趣生死に於いて広く利楽を作し、
    むへんのごしゅしょうじにおいてひろくりらくをなし、

  身を百億に分かち、諸趣の中に遊んで、
    みをひゃくおくにわかち、しょしゅのなかにあそんで、

  有情を成就し、金剛薩たの位を証せしむ。
    うじょうをじょうじゅし、こんごうさったのくらいを
    しょうせしむ。


 <此れは儀軌法則に依って修行する時の不思議の法益を
  明かす。>」と。
    <これはぎぎほっそくによってしゅぎょうするときの
     ふしぎのほうやくをあかす。>」と。

  また云く、
     またいわく、

  「三密の金剛を以て増上縁と為して、
    さんみつのこんごうをもってぞうじょうえんとなして、

  能く毘る遮那三身の果位を証す」と。
    よくびるしゃなさんじんのかいをしょうす」と。

また、『金剛頂ゆが金剛薩た五秘密儀軌』には、

「もし、毘る遮那如来が自らさとりを享受する仏身として説かれた

内面のさとり、自らさとった聖なる智慧の教え


および偉大にしてあまねく賢明な金剛薩たの、他社にさとりを享受せしめる身体の智慧に依拠するならば、

この生涯において、さとりの世界に導き入れてくれる師に出会い、

曼荼羅の行を通して、さとりの世界に入ることができる。


すなわち、授戒の作法を完全に行い、あまねく賢明な瞑想の境地に


金剛薩たを引き入れて、弟子の身中に入れしめるのである。

この不思議な働きのすぐれた力によって、


弟子は、たちまち、まさにはかり知れないほどの多くの誓願や、記憶の能力を体得するだろう。


思慮を超えた不思議な方法で、よく弟子が生まれつき具え持っている自我に対するとらわれの原因をとりのぞき、


時に応じて、弟子の身中に、無限の時間をかけて集められる福徳と智慧とを集合させるのである。


こうして弟子は、仏の家族のものとして、仏法の世界に生まれかわるのである。


その生まれ変わった人は、すべての如来の心から生じ、仏の口から生じ、


仏の教えの導きにより生じて、仏の教えの宝を得る。


仏の教えの宝とは、すなわち三種の行為形態をとって、表されるさとりの心に基づく教えのことである。」


<この文章は、真言密教の修行者が、悟りを求める心に基づく戒めを初めて授かるときに、師匠が弟子に対して不思議な力による手立てによって、弟子に与えられる利益を明らかにしたものである。>


「少しだけでも曼荼羅を見れば、弟子は、たちまちに清らかな信心をおこす。

そして、歓びの心をもって、曼荼羅を仰ぎ見るゆえに、


実に根本識(アーラヤ識)の中において、金剛界のさとりの種子が植え付けられるのである。」

<この文は、弟子が初めて曼荼羅の世界に集会した多数の諸尊を見て、得るところの利益を明らかにしたものである。>

「弟子は、仏の位を受け継ぐ儀式において授かる金剛名号を完全に受ける。

これより以後、広大にしてはなはだ深く、しかも思慮を超えた教えを得て、

教えを聞いてさとる者、独自にさとる者、および十段階の位にある菩薩すら超越するのである。


この偉大なる金剛薩たと、欲・蝕・愛・慢の四種の煩悩がさとりにほかならないとして観想する教えを、


昼夜四回、日常の行・住・坐・臥のあらゆる暮らしにおいて、


絶えず心がけ、修行するならば、見聞し、あれこれ認識する境地において、

実態としての我がなく、しかも固定的存在もないという二種の見解に対する執着もことごとくなくなり、


現世において、初めて宗教的な歓びが生じる段階(初地)を体得し、次第に高い位に昇っていく。


金剛薩たと欲・蝕・愛・慢という五尊が相応しあった教えを修めることによって、


さとりの境界である涅槃にも、また迷いの境界である生死の世界にも染まらず、執着しない。


地獄・餓鬼・畜生・人・天の生存領域のはてしない生死の繰り返しの中にあっても、幅広く、他人を利益し、安楽ならしめ、

身体を百億に分かち、もろもろの生存領域の中で思いのままに行動し、

人々を導いて金剛薩たの位を体得させるのである。」


<この文は、『五秘密儀軌』の規則に依って修行する時に得られる思慮を超えた仏法の利益を明らかにしたものである。>

また『五秘密儀軌』に説いていうには、

「金剛のごとく堅固な三種の行為形態を積極的な間接原因として、


よく毘る遮那如来の三種の仏身(さとりの当体・さとりの功徳を享受する身・衆生の救済のために現れた身体)の境地を体得するのである。
速疾に顕わる

  此の如くの経等は、皆この速疾力
    かくのごとくのきょうとうは、みなこのそくしつりき

  不思議神通の三摩地の法を説く。
    ふしぎじんつうのさんまじのほうをとく。

  もし人有って法則を欠かずして昼夜に精進すれば、
    もしひとあってほっそくをかかずちゅうやに
    しょうじんすれば、

 
  現身に五神通を獲得す。
    げんしんにごじんつうをぎゃくとくす。

  漸次に修練すれば、この身を捨てずして
    ぜんじにしゅうれんすれば、このみをすてずして

  進んで仏位に入る。
    すすんでぶついにいる。

  具には経に説くが如し。
    つぶさにはきょうにとくがごとし。

  この義に依るが故に、
    このぎによるがゆえに、

  「三密加持して速疾に顕わる」と曰う。
    「さんみつかじしてそくしつにあらわる」という。

  加持とは、如来の大悲と衆生の新人とを表わす。
    かじとは、にょらいのだいひとしゅじょうの
    しんじんとをあらわす。


  仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、
    ぶつじつのかげ、しゅじょうのしんすいにげんずるを
    かといい、


  行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。
    ぎょうじゃのしんすい、よくぶつじつをかんずるをじと
    なづく。


  行者、もし能くこの理趣を観念すれば、
    ぎょうじゃ、もしよくこのりしゅをかんねんすれば、

  三密相応するが故に、
    さんみつそうおうするがゆえに、

  現身に速疾に本有の三身を顕現し証得す。
    げんしんにしっそくにほんぬのさんじんを
    けんげんししょうとくす。


  故に速疾顕と名づく。
    ゆえにそくしつけんとなづく。

  常の即時即日の如く、
    つねのそくじそくじつのごとく、

  即身の義もまた是の如し。
    そくしんのぎもまたかくのごとし。
以上のような経典などは、いずれもこのすみやかな力


すなわち思慮を超えた超自然的能力を起こす瞑想の境地の教えを説いている。

もしも、ある修行者が儀軌に説かれている法則どおりに誤たずに昼夜に励み努めたならば、


この身このままで、五種類の超自然的能力を獲得する。


順序を踏んで修練するならば、この身体を捨てないで、


進んで仏の位に入ることができる。


詳しくは経典に説かれているとおりである。


以上のような意義に基づいて、


「仏とわれわれとの三種の行為形態が、不思議な働きによって応じあうとき、すみやかにさとりの世界が現れる」というのである。

加持とは、如来の大悲と、人々の信心を表している。


あたかも太陽の光のような仏の姿が、人々の心の水を照らし、そこに現われるのを、加といい、

真言密教の行者の心の水が、よく仏の太陽を感じとることを持と呼ぶのである。

修行者が、もしよくこの真理を心に重いこらすならば、

三種の行為形態が相応じるから、


この身において、すみやかに本来備え持っている三種の仏身を顕現し、それを体得することができるのである。

それゆえに、すみやかにさとりの世界があらわれるというのである。


日常、「即時」とか「即日」というように、


「即身」という意味もまた同様である。要するに、本来そなえ持っている三種の仏身がすみやかに顕れ出ることによって、人々は実在たるさとりの世界を実感することができるのである。
重重帝網なるを即身と名づく

  「重重帝網なるを即身と名づく」とは、
    「じゅうじゅうたいもうなるをそくしんとなづく」とは、

  是れ則ち比喩を挙げて、
    これすなわちひゆをあげて、

  以て諸尊の刹塵の三密、
    もってしょそんのせつじんのさんみつ、

  円融無げなることを明かす。
    えんゆうむげなることをあかす。

  帝網とは因陀羅珠網なり。
    たいもうとはいんだらしゅもうなり。

  謂く、身とは我身・仏身・衆生身、是れを身と名づく。
    いわく、しんとはがしん・ぶっしん・しゅじょうしん、
    これをしんとなづく。


  また四種も身有り。
    またよんしゅのしんあり。

  言く、自性・受用・変化・等流、
    いわく、じしょう・じゅゆう・へんげ・とうる、

  是れを名づけて身と曰う。
    これをなづけてしんという。

  また三種有り。
    またさんしゅあり。

  字・印・形、是れなり。
    じ・いん・ぎょう、これなり。

  是の如く等の身は、縦横重重にして、
    かくのごとくらのしんは、じゅうおうじゅうじゅうにして、

  鏡中の影像と灯光の渉入との如し。
    きょうちゅうのようぞうととうこうのしょうにゅうとの
    ごとし。


  彼の身、即ち是れ此の身、此の身、即ち彼の身、
    かのみ、すなわちこれこのみ、このみ、すなわちか
    のみ、


  仏身、即ち是れ衆生身、衆生身、即ち是れ仏身なり。
    ぶっしん、すなわちこれしじょうしん、しゅじょうしん、
    すなわちこれぶっしんなり。


  不同にして同なり、
    ふどうにしてどうなり、

  不異にして異なり。
    ふいにしていなり。
「あらゆる身体が、帝釈天の持つ網についている宝珠のように、幾重にも重なり合いながら映しあうことを、即身という」というのは、

この句は、たとえをあげて、

もろもろの仏たちの国土を砕いて塵にしたほど無数にある三種の行為形態が、

まどかに完全に融けあい、さまたげがないことを明らかにしている。

句にある帝網とは、仏法を守る天部の代表帝釈天の宮殿に張り巡らされている宝玉をちりばめた網のことである。この網は、一つ一つの結び目に宝の玉がつけられていて、あたかも万華鏡のように、限りなく互いに映しあっている。同じように、以下に説明するさまざまの身体がお互いに映し合い、融合しあっている。

「身」には、わが身体(我身)、仏の身体(仏身)、生きとし生けるものの身体(衆生身)があり、これらを「身」と呼んでいる。

また、仏の性格を考える立場からみれば、四種類の身がある。

自性(さとりの当体そのものとしての身体)、受用(さとりを自ら享受し、かつ他人に享受せしめる身体)、変化(人々を教化するために姿をかえて現われる身体)、等流(救われるものと同等の姿をとって現われる身体)である。

これらも、「身」と名づけることができる。

また三種類の「身」がある。

字(梵字によって表現される仏の身体)、印(印契などの象徴物によって表現される身体)、形(姿・形をとる形像によって表現される仏の身体)である。


このようなさまざまな「身」が、縦横無尽にかかわりあっていることは

たとえば多くの鏡を向かい合わせ、その間にある物体を置くと、相互に限りなく映し合うこと、もしくは、多数の灯明をならべて置くと、お互いに照らしあって、個別の光を区別できないことと同様である。

各身が相互にかかわるさまは、この「身」はすなわちこの「身」であり、この「身」はかの「身」であるという関係で表現される。

同様に、仏の身体は、すなわち生きとし生けるものの身体であり、生きとし生けるものの身体は、すなわち仏の身体にほかならない。

このように、不同でありながら同一であり、不異でありながら異なるのである。
三等無げの真言

  故に、三等無げの真言に曰く、
    かるがゆえに、さんとうむげのしんごんにいわく、

  あさんめい ちりさんめい さんまえい そわか
    (原文は、梵字)

  初めの句義をば無等と云い、
    はじめのくぎをばむとうといい、

  次をば三等と云い、
    つぎをばさんとうといい、

  後の句をば三平等と云う。
    あとのくをばさんびょうどうという。

  仏・法・僧、是れ三なり。
    ぶっぽうそう、これさんなり。

  身・語・意、また三なり。
    しんごい、またさんなり。

  心・仏及び衆生、三なり。
    しんぶつおよびしゅじょう、さんなり。

  是の如くの三法は、平等平等にして一なり。
    かくのごとくのさんぼうは、びょうどうびょうどうに
    していつなり。

  一にして無量なり。無量にして一なり。
    いつにしてむりょうなり。むりょうにしていつなり。

  而も終に雑乱せず。故に
    しかもついにぞうらんせず。かるがゆえに、

  「重重帝網なるを即身と名づく」と曰う。
    「じゅうじゅうたいもうなるをそくしんとなづく」という。
だから、三つのものが等しく妨げなく融合しあっていることを示す真言

あさんめい ちりさんめい さんまえい そわか

この真言の最初の「あさんめい」の句の意味を「等しくない」といい、

次の「ちりさんめい」の意味を「三つのものが等しい」といい、

最後の句の「さんまえい」の意味を「三つのものが平等」というのである。

この場合、三つのものとは、例えば、仏・その教え・その教えを守る人の三つの要素がある。


身体・言葉・心もまた、三つの要素である。


心と仏と生きとし生けるものも、三つの要素である。


以上のような三つの存在は、まったく平等であって、かつ一つである。


一つであって、しかも量り知れないほど多い。量り知れないほど多くて、しかも一つである。


しかも、最終的にそれらが混乱したり、破綻をきたすことはない。


従って、「あらゆる身体が、帝釈天の持つ網のように、幾重にも重なり合いながら映しあうことを、即身という」というのである。
『大日経』の如来法身

  「法然に薩般若を具足す」とは、
    「ほうねんにさはんにゃをぐそくす」とは、

  『大日経』に云く、
    『だいにちきょう』にいわく、

  「我は一切の本初なり、号して世所依と名づく。
    「われはいっさいのほんじょなり、
    ごうしてせしょえとなづく。

  説法等、比無く、本寂にして上有ること無し」と。
    せっぽうとう、ほんじゃくにしてうえあることなし」と。

  謂く、我とは大日尊の自称なり。
    いわく、われとはだいにちそんのじしょうなり。

  一切とは無数を挙ぐ。
    いっさいとはむしゅをあぐ。

  本初とは、本来法然に是の如くの、大自在の、
    ほんじょとは、ほんらいほうねんにかくのごとくの、
    さいじざいの、


  一切の法を証得するの本祖なり。
    いっさいのほうをしょうとくするのほんそなり。

  如来の法身と衆生の本性とは、
    にょらいのほっしんとしゅじょうのほんしょうとは、

  同じくこの本来寂静の理を得たり。
    いなじくこのほんらいじゅくじょうのりをえたり。

  然れども衆生は、覚せず知せず。
    しかれどもしゅじょうは、かくせずちせず。

  故に仏、この理趣を説いて、
    ゆえにほとけ、このりしゅをといて、

  衆生を覚悟せしめたもう。
    しゅじょうをかくごせしめたもう。

  また云く、「諸の因果を楽欲する者、
    またいわく、「もろもろのいんがをぎょうよくするもの、

  かの愚夫の能く真言と真言の相とを知るに非ず。
    かのぐふのよくしんごんとしんごんのそうとをしるに
    あらず。

  何を以ての故に。因は作者に非ずと説けば、
    なにをもってのゆえに。いんはさしゃにあらずと
    とけば、


  かの果も則ち不生なり。
    かのかもすなわちふしょうなり。

  この因、因すら尚し空なり。
    このいん、いんすらなおしくうなり。

  云何が果有らんや。当に知るべし。
    いかんがかあらんや。まさにしるべし。

  真言の果は、悉く因果を離れたり」と。
    しんごんのかは、ことごとくいんがをはなれたり」と。

  上の文に引く所の、「我、本不生を覚り、
    うえのぶんにひくところの、「われ、ほんぶしょうを
    さちる、


  乃至因縁を遠離せり」のげ、
    ないしいんねんをおんりせり」のげ、

  及び「諸法本より不生なり。乃至因業なり、
    および「しょほうもとよりふしょうなり。
    ないしいんごうなり、


  虚空に等し」、是の如く等のげは、
    こくうにひとし」、かくのごとくのじょとうのげは、

  皆法然具足の義を明かす。
    みなほうねんぐそくのぎをあかす。
『大日経』の「転字輪曼荼羅行品」に次のように説いている。


「われは、すべての存在の根本(本初)であり、世の人々の拠り所と呼ばれる。


さとりの教えを説法すれば、比べるものもなく優れている。」と。


これを説明すれば、われとは、大日如来が自らを称していわれたものである。


すべてとは、数にかぎりがないことを指す。


すべての存在の根本とは、本来、おのずと自然に、このような自由自在に存在しているすべてのものを


知りうるものの根源であるということを意味している。


さとりの当体そのものである如来の身体と、いきとし生けるものの本性は、


いずれもこの本来やすらかなさとりの真理を具えているのである。


しかしながら、生きとし生けるものは、そのことをさとらず、意識もしていない。

そのために、仏は、この心理のおもむきを説いて、

生きとしいけるものにさとらせたまうのである。

また、『大日経』の「悉地出現品」にいうには、「世界の存在を説明するにあたって、固定的な因果関係に固執するものが少ないが、そのような愚かなものは、

真言の意義とその真実の相を知らない。

それはなぜであろう。原因たるものは、行為の主体そのものではないと考えれば、

原因に対応する結果は生起しないことになる。


その理由は、原因すら、固有の本性を持たないものであるから、

どうして結果というものが存在しようか。


したがって、真言の結果というものは、固定的な因果関係を離れたものであると理解すべきである。」と。


これまでに引用した「私は万物が本来的に生じないこと。直接・間接の原因を離れていること。(をさとる)」という詩文、


および「もろもろの存在は、本来生起せず。原因等の行為は、


あたかも虚空のようである。」というような詩文は、


いずれも、あるがまま審理をそなえ持っているという意味を明らかにしたものである。
『金剛頂経』の金剛法身

  また『金剛頂経』に云く、
    また『こんごうちょうきょう』にいわく、

  「自性所成の眷属、金剛手等の十六大菩薩、
    「じしょうしょじょうのけんぞく、こんごうしゅらの
    じゅうろくだいぼさつ、

  乃至各各に五億倶ていの
    ないしおのおのにごおくくていの

  微細法身の金剛を流出す」と。
    みさいほっしんのこんごうをるしゅつす」と。

  是の如く等の文は、また是れこの義なり。
    かくのごとくらのぶんは、またこれこのぎなり。

また、広義の『金剛頂経』に属する『金剛峯楼閣一切ゆがゆぎ経』にいうには、


「存在の本性そのものから成る随伴者である金剛菩薩等の十六菩薩の、


おのおのが、五億倶ていという無限の数ほどの


微細にして堅固なるさとりの身体を流出する。」


このような経文もまた、あるがままの真理をそなえているという意味を示したものである。
法然具足

  法然とは、諸法自然に、是の如くなることを顕わす。
    ほうねんとは、しょほうじねんに、かくのごとくなることを
    あらわす。


  具足とは成就の義、無欠少の義なり。
    ぐそくとはじょうじゅのぎ、むけつしょうのぎなり。

  薩般若とは梵語なり、古く薩云と云うは訛略なり。
    さはんにゃとはぼんごなり、ふるくさつうんというは
    けりゃくなり。


  具には薩羅婆枳嬢嚢と云う。
    つぶさにはさらばきじゃのうという。

  翻じて一切智智と云う。一切智智とは、
    ほんじていっさいちちという。いっさいちちとは、

  智とは決断簡択の義なり。
    ちとはけつだんけんちゃくのぎなり。

  一切の仏、各五智・三十七智、
    いっさいのほとけ、おのおのごち・さんじゅうしちち、

  乃至刹塵の智を具せり。
    ないしせつじんのちをぐせり。
あるがまま(法然)というのは、あらゆるものが、自然に現に存在していることを明らかにしている。


そなえもつとは、完成しているという意味であり、欠けたり少ないところがないという意味。


薩般若とは、梵語である、古くはさつうんと略音写されているが、詳しく言えば、「サッパンニュ」を音写して略したものである。


正確には、「サルヴァジュニャーナ」といい、漢訳では、「一切智智」という。一切智智とは、


智とは、決断し、えらびとるという意味である。
 

すべての仏は、おのおのが五つの智慧、三十七の智慧、


さらには国土を砕いて塵にしたほどの無数の智慧をそなえているのである。
心数心王刹塵に過ぎたり、各五智際智を具す

  次の両句は、即ちこの義を表す。
    つぎのりょうくは、すなわちこのぎをあらわす。

  もし決断の徳を明かすには、則ち智を以て名を得。
    もしけつだんのとくをあかすには、すなわちちを
    もってなをう。

  集起を顕わすには、則ち心を以て称とす。
    じっきをあらわすには、すなわちこころをもってなとす。

  軌持を顕わすには、則ち法門に称を得。
    きじをあらわすには、すなわちほうもんになをう。

  一一の名号、皆人を離れず。
    いちいちのにょうごう、みなじんをはなれず。

  是の如くの人・数、刹塵に過ぎたり。
    かくのごとくのじん・すう、せつじんにすぎたり。

  故に、一切智智と名づく。
    ゆえにいっさいちちとなづく。

  顕家の一智を以て一切に対して、
    けんけのいっちをもっていっさいにたいして、
 
  この号を得るには同ぜず。
    このなをうるにはどうぜず。
詩文の次の第二・第三の両句は、すべての仏が、あらゆるものを知る智をそなえもっていることを表している。


もし決断の徳性と関連づければ、心という名で呼ばれる。


真理の軌範を保持するという徳性と関連づければ、法という名前で呼ぶ。


これら「智」「心」「法」という名称は、いずれの「人」を離れてあるものではない。


このような「人」は、数は計り知れないほど多い。


だから、すべての人々がそなえもっている智慧という意味で、「一切智智」と名づけるのである。


この点、一般の仏教の人々が、一つの智慧でもってあらゆることを知るという意味で「一切智智」という語を用いるのとは、


事情が異なっている。
心王・心数

  心王とは法界体性智等なり。
    しんのうとはほっかいたいしょうちとうなり。

  心数とは多一識なり。
    しんじゅとはたいっしきなり。

  「各五智を具す」とは、
    「おのおのごちをぐす」とは、

  一一の心王・心数に各各に之有ることを明かす。
    いちいちのしんのう・しんじゅにおのおのに
    これあることをあかす。

  無際智とは高広無数の義なり。
    むさいちとはこうこうむすうのぎなり。

詩文中の心そのものとは、さとりの当体をその本性とする智慧などを指す。
 

心の作用とは、現象界の区別等を認識する智である。


「それぞれに五つの智慧をそなえる」とは、


一つ一つの心そのものと心作用に、おのおの五つの仏の智慧がそなわっていることを証明している。


際限のない智慧とは、高く・広く、かつ限りなく無数なる智慧の遍在を示す意味である。
「円鏡力の故に、実覚智なり

  「円鏡力の故に、実覚智なり」とは、
    「えんきょうりきのゆえに、じっかくちなり」とは、

  此れ即ち所由を出だす。
    これすなわちしょゆをいだす。

  一切の諸仏、何に因ってか覚智の名を得たもうとならば、
    いっさいのしょぶつ、なにによってかかくちのなを
    えたもうとならば、


  謂く、一切の色像、悉く高台の明鏡の中に現ずるが如く、
    いわく、いっさいのしきぞう、ことごとく広大の
    めいきょうのなかにげんずるがごとく、


  如来の心鏡もまた是の如し。
    にょらいのしんきょうもまたかくのごとし。

  円明の心鏡、高く法界の頂に懸かって寂にして、
    えんみょうのしんきょう、たかくほっかいのいただきに
    かかってじゃくして、


  一切を照らして不倒不謬なり。
    いっさいをてらしてふとうふびゅうなり。

  是の如くの円鏡、何れの仏にか有らざらん。
    かくのごとくのえんきょう、いずれのほとけにか
    あらざらん。


  故に「円鏡力の故に、実覚智なり」と曰う。
    かるがゆえに「えんきょうりきのゆえに、
    じっかくちなり」という。
八句めの「それらの智慧をもって、明らかな鏡のようにすべてを照らし出すから、真実をさとったものとなるのである。」というのは、


実に、「即身成仏」という命題の理由をしめしたものである。


問っていう、すべての仏たちは、どういう理由で、さとったものという名称を得られるのであろうか。


答えていう、すべてのものの、形をとった映像が、高い台の上にある明らかな鏡ななかにことごとく映し出されるように


如来に心の鏡のなかにも、すべてのものが映しだされる。


そのような如来の円満で明らかな心の鏡は、そろりの世界に高くかかって、静かに


あらゆるものを照らし、倒れることも、誤ることもない。

このような完全無欠な鏡のような智慧は、いずれの仏もそなえもっているものであり、仏と本質的に異ならない生きとし生けるものも、その可能性を持っているのである。

以上のようなわけで、「あらゆるものは、この身このままで仏であり得ることを証明して、それらの智慧をもって、明らかな鏡のようにすべてを照らし出すから、真実をさとったものとなるのである」というのである。
 即身成仏義(全文)