私だけの仏教(pii派)

                 講談社+α新書『私だけの仏教』玄侑宗久著

   いい本に出会いました。この本は、いわゆる仏教の入門書でしょうが、
   わたしはひとつの示唆を受けたおもいです。
   きっと1年も前に出会っていたら、数ページで捨てていたでしょう。でも、
   今たくさんのことを学び書いてある内容もほとんど理解できます。渇い
   た土に、水がしみ込むように、わかっていきます。
   もちろん、まる覚えではなく、内容をさらに自分なりに解釈しようと思い
   ます。そこで、この本の内容を参考にしながら、
   「私の(pii派)仏教」をつくりあげていきたいとおもいます。

  ●仏教の寛容性について。
   
  以前、道慧さまに「数珠を買いたいのですが、本連にすべきでしょうか?」とBBSに書き込みました。天台宗の方です。「あなたが気に入ったものなら、それでいいですよ。」と教えていただきました。

  高野山のある寺院に「愛染さまの拝み方を、教えてください。」とメールしました。一度は、島根からの深夜夜行列車からの携帯メールで、またお忙しい最中に、「ご真言をひたすら唱えればいいですよ。あなたが思うお経をあげればいいです。」というお返事をいただきました。

  最初は、そのお答えに頼りなさを感じ、素人を拒絶し適当に答えられたのかとも感じました。もっと具体的に、もっと威厳と規律の中で明確な答えを期待していました。

  でも、いまなら分かります。仏教は、いや信仰はその枠にとらわれ、またある形でしかできないものでは、ないのです。また、ある寺院で、また師の相伝で伝えるべく形式と個人の信仰は異なりますから、まねしてもだめなんですね。

  『私だけの仏教』で玄侑宗久師は、釈迦以後の仏教の歴史を追いながら、また日本の仏教の伝来からの経緯をたどりながら、大乗仏教、そして日本仏教各宗派の特徴までおしえてくださいます。

  日本文化の寛容というのは、本質的に新しいものを否定するのではなく、すべて自分流に変化させ
  取り入れて、独自の発展をしていく
国民性です。

  ●「仏教」とは? 

   あくまで実践するための仏教
    「仏教」=「行」をともなった「仏道」 自らが、高まり深まる努力による信仰心だと思います。

   釈尊のこと 5.仏教の発生とその基本
    「初転法輪」・・・すべての仏教の基本。
    仏像や絵姿も人間の切実な要求により生まれた象徴的な存在。それを生んだ背景の理解。

    南伝仏教・・・「四諦(したい)」、「無我
    北伝仏教・・・さらに「中道」、「十二因縁」、「五蘊

    仏教を学ぶ時の、欠かすことのできない認識。
     「無常」、「無我」、「中道」、「縁起」

    ☆「思想的、学問的なものよりも、人間的魅力を作り上げること。」
     「自分の様子を魅力的に変化させるような実践的信仰をもつこと。」

   教科書的区分に惑わされてはいけない

  「南伝・北伝」、「小乗・大乗」、

    「根本分裂」・・・戒律の解釈で仏滅100年後に上座部と大衆部に仏教は分裂します。
    「第二結集」・・・布施の解釈で、完全分裂。

     南に広がった上座部の考え(南伝、小乗)
     紀元前一世紀頃から、北(中国)に広がった仏教は、寛容で「律」に柔軟だったようです。

    中国では、儒教や老荘思想との混淆が、進んでいきます。
    位牌や年忌法要は儒教からの影響。僧侶の衣服で、紫色(禁色)が最高位なのは、道教。

    「般若経」や「法華経」で南伝仏教を「小乗」と呼び、蔑視したとか。
    最初は、上座部の「説一切有部(せついっさいうぶ)」だけを呼んだが、後上座部すべてをいう。

    「根本分裂」以後、200年ほどで大衆部9部、上座部11部。各宗派は、多くの経を編纂し、「律」
    の整備をし、解説としての「論」をつくる。 これらを、「三蔵」(経・律・論)という。

    「小乗」は、釈尊一仏を礼拝する。
    「大乗」は、多くの仏や菩薩たちを生む。(大乗諸仏)
       過去七仏ーーーー釈尊(諸仏、菩薩等に変化)−−−−−未来仏(弥勒仏)

    ☆「大乗仏教では個人の解脱だけでなく、救済というテーマがクローズアップされる。それは、智慧から慈悲への移行」といえる。

     「廻向」の思想が意味を大きくもっていく。「空」、「信」、「三昧」、「方便」、「こころ」。

  「顕教・密教」、「自力・他力」

    「顕教」とは、「語られた言葉に真理は顕れている。」という考え。
    「密教」とは、言葉に表現できない真理を重大視する。古代ヒンズー教の秘儀や呪文をいれる。 「護摩」や「陀羅尼」、「真言」。

  通仏教   宗派に関係なく共通するもの。
   「七仏通戒偈」、三帰依」、「八正道」、「四弘誓願(しぐせいがん)

    七仏通戒の偈
      「諸悪莫作」       様々な悪い行いをしてはならない
      「衆善奉行」
       多くの善い行いをしなさい
      「自浄其意」
       心は自ずから清浄なものになっていく
      「是諸仏教」      これが諸々の仏の教えである

 これは『七仏通戒の偈』といわれるもので、一偈の中に仏教の要旨を簡潔に現しています。
 「七仏」とは、お釈迦様から過去へさかのぼった七代の仏を指しており、「久遠の昔(過去七代の仏さま)から連綿と受け継がれてきた」という深い意味があります。
 「通戒」というのは「略した戒(戒律)」ということで、例えば五戒(殺生をしない、盗みをしない、不倫をしない、偽りを語らない、酒に溺れない)十戒、二百五十戒など、戒律には細目が色々あるが、それらのすべてを言い含めたものです。

    他のところでも述べましたが、私は「戒」という「苦行」をあまり良しとしません。制約される気分です。
    制約は行動も発想も規制される思いです。しかし、「制約」と考えず「方向性」、「指針」と思えば救われます。


   三学「戒・定・慧
    「戒」によって、人は生命力の向かうべき方向性を規定し、
    「禅定(ぜんじょう)」。方向性の定まった生命力が、善悪を論じることもない状態になり、
    「智慧」を生む。

  「対機説法」と観音様
   お釈迦様は、相手によってその説法が哲学的であったり、日常の分かり易い言葉であったりしました。
   第一回結集の後、最も多くを記憶していた阿難(アーナンダ)の暗誦部が記録されたため、経はとても身近に
   なりました。

   それは、「観世音菩薩」の33変化に象徴されます。
   「最も言うことを聞きやすい人の姿で現れて、真理を語る」方法論です。
   ものごとには、絶対的基準などないとすれば、それぞれの個人において変化するものなら、
   法華経第25章「観音経」にある
     無尽意観世音菩薩有如是  自在神力遊於娑婆世界 
         「観音様は、このように自在神力で娑婆世界に遊ぶ」
   
    ☆人のためや何かの利益のためになすのではなく、「正しい」からするのでもなく、
      「楽しい」から、「遊ぶ」のです。こころ「遊ばせる」喜びこそ、信仰なのでしょうか。


   ●1. 自覚 「苦」と「信」

     お釈迦様は、「四苦」、「八苦」からの解脱を目指して修行を始めました。わたしは、「愛別離苦」、「怨憎会苦」が一番辛いですね。
     愛する人と別れなければならない苦悩。嫌な人と会うこと。求めても得られない苦悩。
     
     「五蘊(ごうん)」(色・受・想・行・識)というすべてが、「五蘊盛苦」(健康で盛んであるがゆえの苦悩。
     『青い鳥』(メーテルリンク)にいう「渇いてないのに飲む幸福」、「飢えてないのに食べる幸福」
     そんな「欲」がおこる、人間の「邪悪性」、「悪魔性」、「利己性」、「残忍性」・・・・

     ☆「苦悩」から永遠に解放されることがない、そんな「苦」からの解脱の方法は?

     「四諦(したい)」・・・「苦・集・滅・道」
       「苦悩があるからには、それは発生(集)したのであり、発生したからにはそれは除去(滅)することができ、そのための具体的実践法(道)もありうる。」

       「人間には本来高次元の智、あるいは清明な意識が実現できる能力の芽(一切智)が、各自の心霊のなかにまどろんでいる。その上で、あらゆる苦悩はその芽が「無知」ないし「迷妄」(無明)によって覆われているため発生する。」

       「一切智」がさまざまな混同によって隠されているために起こり、それを除去する方法(道諦)もちゃんと存在する。

    「道諦」とは、「八正道」をいう。
      正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」
      「言葉や思考や行動を制限する「戒」、それによって正しい生活が導かれ、そうした生活と日々心がける努力によって「禅定(ぜんじょう)」がもたらされ、はじめて「智慧」が発現しやがて「解脱」に到ることができる。」

    『如来蔵経』・・・「一切衆生の如来蔵は常住不変」
      すべての人に如来になる可能性があり、それは胎が成長するように成就する。
    『大般涅槃経』・・・「一切衆生悉有仏性」(すべての人にはことごとく仏性がある)
    『華厳経』「如来性起品」や『宝性論(ほうしょうろん)』も。

    『大乗起信論』では、それぞれの意識の変容を通して「自性清浄心」となる。

    ☆きっとそうなんだ。自分の心の中にも、仏になる要素が必ずあるんだ。それならば、磨かないと!そう信じる気持ちが「発心」なんだよね。

     私は、縁あって「薬師如来と愛染明王」を心にお守りしています。その際、「おすがり」するために祀るのではなく、あくまでその仏像に象徴される技術や力、特性を習得するために祀ります。

     すがる相手ではなく、辿り着くべき目標なんですね。

     ・観音様の持つ限りない慈悲や智慧。お地蔵様のどこでも即座に行ってくださる憂いなき行動力は、いずれ開花させたい自分のなかの能力ですね。


    3.「戒」という自己規制の意味

     「律」とは、集団の罰則規定。
     「戒」は、目指すべき生活習慣であり、習慣的自己規制です。

     「五戒」・・・「不殺生戒」、「不偸盗戒」、「不邪淫戒」、「不妄語戒」、「不飲酒戒」
     ☆いや、しかしこれほどきつく難しいものもありませんね。
     「十善戒」・・・「不奇語」、「不両舌」、「不悪口」、「不慳貪」、「不瞋恚」、「不邪見」

     人が生活するときに、なんらかの心の制約として「戒」を求め、無指向性の心の、どこへほとばしるかわからないエネルギーの方向付けだと考えることにします。

     「戒」は、怯えるものではなく、佛罰(ばち)があたるものでもない。

     
作者は、「戒(こころざし)」とよませています。

    4.六波羅蜜という菩薩行

     「波羅蜜」とは、「彼岸」にいたるための実践的方法論。
     「此岸(しがん)は、煩悩に悩み苦しむこと。」「彼岸は、平和で穏やかな状態」

     「布施(ふせ)波羅蜜」、「持戒(じかい)波羅蜜」、「忍辱(にんにく)波羅蜜」、「精進(しょうじん)波羅蜜」、「禅定(ぜんじょう)波羅蜜」、「智慧または般若波羅蜜」

     このなかの「布施(ふせ)波羅蜜」と「忍辱(にんにく)波羅蜜」は、上記三学と「精進」とは別に、対人・対社会的な実践目標として新たに加わりました。

    一、「布施(ふせ)波羅蜜」
     「無欲でありたい」=「人の喜ぶのをうれしくおもう」

     ☆人のためでなく、自分の喜びとして生きたい。人を愛するということは、実は「本当にその人のために、何一つできるものなどない。命をあげることも、痛みをとってあげる事もできない。ただ、そうなることを祈るだけ。」かもしれない。だから、できることを惜しみなく差し出すこと。それが、布施!

    二、「持戒(じかい)波羅蜜」
     「戒(こころざし)」。「欲」をむさぼらないこと。人の邪魔をせず、また重荷にならないこと。
     釈迦『不害の説法』
      「誰もが自分を可愛いと思っている。しかし、あらゆる人がそう思っていることを深く認識し他人が己を可愛がりたい気持ちを、害してはならない。」

     ☆押し付けがましい愛、独善的な愛、独占欲、名誉欲、評価欲。「なんのため」、「誰のため」。

    三、「忍辱(にんにく)波羅蜜」
     『西遊記』・・・孫悟空=「瞋恚」。「天」や「人」を呪い、恨む気持ちはないか?←「忍辱」
              猪八戒=「貪」。 「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」。          ←「持戒」
              沙悟浄=「痴」。 「無思慮」、「無判別」、「無知」。        ←「精進」

     ☆責任を他に転嫁しない生き様。

    四、「精進(しょうじん)波羅蜜」
     「路」でなく「道」を進もう。「路」は、行き止まる小さな道。「道」とは、終わりのない大きな道。
 
     ☆終わりなき終点を目指す生き方。「努力そのものを楽しむこと。」
      『坐れば坐っただけの仏』道元禅師

      
「初発心のとき、すなわち正覚(しょうがく)を成す。」
      (初めて悟りを求める心を起こしたとき、たちまち正しい悟りを成就する。」(『華厳経』)


    五、「禅定(ぜんじょう)波羅蜜」
      苦悩を解決するのは、なにより意識の変容を促すこと。
      そのために、ある種の精神集中状態になること。「禅」、「読経」、「瞑想」。

      五智・・・第五識=「マナ識」無意識の自己執着
            第六識=「アーラヤ識」生まれる前から持っている習慣的行為や体験・思考が
                  DNAによって持っている。「含蔵識」

                  「地獄」や「餓鬼」「畜生」は、「アーラヤ識」に潜む自己の姿。自己愛。

      そんな誰もが持っている「マナ識」、「アーラヤ識」を越えて、「空」になることが、
      「空」の認識こそが、「智慧」を生む土壌である。だからこそ人はすべて「仏」である。

      「自分の中に潜むあらゆる可能性を意識化する作業が瞑想であり、そうして次々に意識化
      され、おとなしくなった自己の奥底に、霧が晴れ水面が見えてくるように現れるのが「清浄心」
      になりおおせたアーラヤ識。
      
    六、「智慧または般若波羅蜜」
      「空」とは、固定的実体を否定する概念。
      物理学的にも心理学的にも、目前に存在する実体は、すべて永遠不滅でも永久不変でもない。

      正のエントロピーの法則にしたがって、集束したものは必ず拡散する。
      人の意識も、例外ではない。

      五智・・・「大円鏡智」=私たちの心に残る残像は、「執着の雲」に覆われている。
            鏡は、映るときだけをあるがままに映す。いつでもあらゆるものが、ありのまま映る。
           「法界体性智」=宇宙の調和が、心の中で体現される。

      ☆本来持って生まれたはずの「智慧」が、暮らしや意識の固執によって、重くなったり汚れて、曇っていく。それを目指して磨かなくては。そうして、いつの日か、意識しないで 「空」になることを信じて。

    5.
      一番最初に書きましたが、日本の仏教はいろいろな宗派や、また宗派もまた多岐に分かれます。でも、面白いのは宗派間の争いがないとか。時代の政治との争いや、弾圧は歴史に刻まれていますが。

      結局は、「自分派」といっても、生まれ育った状況とか環境で、影響をうけてるんですよね。私は、西高野街道に沿った村で育ちました。(今もそうですが)近くの村も含めて、真言宗以外の宗派を知りません。

      あの陀羅尼や真言に含まれるよく分からない神秘性。限りない魅力です。
      口にするやいなや「自己陶酔」に近い快感が、あります。


      『理趣経』の危険性は、空海以来言われています。かなりの高僧以外、門外不出であった
      はずです。いまも、真言宗では本来「理趣経」は僧侶以外は読みません。


      しかし、あえて心の解放・開放こそが「空」に近づくものかもしれません。
      「素直」、「率直」そして、いつの日か「心の欲するままに従えども、矩を越えず。」(論語)の境地に達するまで、「失敗」、「苦渋」、「嫉妬」、「憎悪」すべてが「行」(「難行」)です。

      十善戒のいくつもを、犯しながらも、「知らない」で犯すのでなく、手を合わせて詫びながら犯し続ける日々こそ、「悟り」に近づくことですよね。


    ●

      「禅定」の際の心の方向性としての、「四無量心(しむりょうしん)」。
      「慈・悲・喜・捨(じひきしゃ)」

      「慈」・・・他者への無差別的ないつくしみ
      「悲」・・・他人の悲しみに自己を同化する力
      「喜」・・・嫉妬することなく他人の喜びを、ともに喜べる心
      「捨」・・・感情の突出した部分を捨てること

      「十二因縁」
      無明ー行ー識ー名色ー六入ー  蝕ー受ー愛ー取ー有ー生ー老死」

    ☆『四弘誓願』(しぐせいがん) 『五大願』(ごたいがん)
     1.衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
           私たちは未完成だけれども、たくさんの人が幸せになれるように勤めます。
     2.煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
           尽きる事のない煩悩ですが、できる限りなくしていきます。
     3.法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
           釈迦様の教えは無限に深いですが、そのすべて学ぶよう勤めます。
     4.仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
           最上の悟りを得て、仏様と同レベルに達するまで行を積みます。
     5.菩提無上誓願證(ぼだいむじょうせいがんしょう)
                  菩提は無上なり 誓って証せんことを願う
               ※真言宗では、菩薩・如来に学びます。(五大願)

 ☆私は、「薬師如来」に「金剛さった」を感じました。「智」の仏、普賢菩薩・虚空蔵菩薩。次に、「愛染明王」の五鈷杵と五鈷鈴にも「金剛さった」を見ました。 「愛」の矢を持つ降三世明王・金剛夜叉明王。歓喜天、毘那夜加。 「発心」にして「菩提」。まるでメビウスの輪のように、「金剛界曼荼羅」のそれのように循環し巡る「智」の渦を、この肌に感じたい。迫りくる邪を退散させる不動明王。生まれ出ずる「愛」の胎蔵曼荼羅。中胎八葉院は、胎内の優しさ。愛染明王。周りのすべての人は、観音菩薩。どこでも守ってくださるのが地蔵菩薩。生前から見ていてくださる阿しゅく如来。



 ●「自分章」

    深まりの方向性と努力(行)

     『秘密曼荼羅十住心論』、その要約の略本が『秘蔵宝鑰』
 
   第一住心異生羝羊心 (いしょうていようしん)
  無知なものは迷って、自分の迷いを悟っていない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。

   第二住心愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)
 他の縁によって、すぐさま控えようとおもう。他の者に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するのと同じ。
 
   第三住心嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 天上の世界に生まれ、しばらく復活できる。まるで幼児や子牛が母に従うように一時の安らぎにすぎない。

   第四住心唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説はみんなこのようなものだ。

   第五住心抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
 一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除きただひとりで、さとりの世界を得る。

   第六住心他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
 すべての衆生に愛の心を起こすことによって、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする。

   第七住心覚心不生心(かくしんふしょうしん)
 あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じればなんらの相(すがた)なく安楽である。

   第八住心一通無為心(いちどうむいしん)
 現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。

   第九住心極無自性心(ごくむじしょうしん)
 水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。

   第十住心秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
 密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現されるのである。


  三毒と三密

    人の醜さは、身(行動)と口(言葉)と意(心)のよって現れます。身口意または身語意といいます。それを認識した上で、自分で自分を磨き、成長させていかなければなりません。「怒りを静める術(すべ)」と「欲望に打ち勝つ精神力」と、そして「人を信じ、人から信じられる誠実さ」を。

    それらを日常の行いと発言や会話とその時々に揺れ動く心によって、生きていかねばなりません。どうすれば、いつになったらこころの思うままに行動し発言し判断しても、過ちを起こさない生き様ができるのでしょう。

    人は、生まれながらにして三毒を持っています。赤い血に引き継がれたDNAの記憶のなかに。人として生まれ、生きていかねばならない私たちは、常に失敗し、人を傷つけ、悔いながら日々を送るのです。

    仏教は、懺悔を許しません。永遠に悔いに中で生きるのです。日々、仏に参り、経を詠み、真を尽くす(三密の行)こと。たぶん、それだけ。

  「加持成仏(かじじょうぶつ)」
       だから、仏らしい生活をより求められてくる。 → お勤め、行の必要性。
       三密の行・・・手に印を結び、口に真言を唱え、心三摩地に住する。
           印契・・・すべての仏像や仏画では、仏菩薩は必ず印を結ぶか、何かを持っています。座禅の姿、説教をしている姿のもっとも特徴的な場面の形状。如来と私たちを結び、互いの意志を確かめ合うサイン。
           真言・・・言語学的には、インドの梵語、サンスクリット語ですが、意味をなさない語句や単語の羅列であったり、雨やものの擬音だといわれます。ただご真言を読んでもなにもなりません。何度も繰り返すことによっていつか意味を持った言葉に聞こえてくるし、見えてくるそうです。
           心、三摩地・・・瞑想に入って心を仏の心に統一すること。

   「自分が仏だと思うように努力して、その気持ちになりきっていくこと。」

  「顕得成仏(けんとくじょうぶつ)」
       三蜜の行を続けていくと、もともと私たちの身にそなわっている仏の徳は顕れてくるのです。行と考えず、三蜜の生活を送ることを信条にすることですね。


    私の心が、わたしを許すことはないかもしれません。私の人を信じる心が常に揺れ動くようになってしまったことを。わたしはまた、どこまで愛しても愛されても、信じても許されない「罰」を与えられたのだろうと思います。

    修羅の道を歩むしかない。不条理の坂道を、仏と共に歩くしかない。阿修羅は、正義の神。しかし、力の神帝釈天に勝てない戦いを永遠に続けます。

  ●
補章

   
  昔の映画で、主人公の男性は、生前最愛の女性に「愛してる」と言いませんでした。ずっと心残りだったのでしょうか。
    そして、死してその魂は、最愛の女性の中に「思い出」として残るのではなく、「感性」として残ります。危険を感じたり、直感のなかに語りかけ、以後の彼女の生き方を守ります。

    そんな人でありたい。しかし、いますぐにすべての俗を捨てて出家の道を歩めない。捨てられない「欲」に固執しています。だからこそ、すこしづつ、近づくことでしょう。

    いま一度、自分に問おう。どうか永遠に遍路道を歩こうではないか。これからも、学び、深め、高まっていきます。ご指導ください。