仏教の「懺悔」とは?

   法(ダルマ)という概念はとっても多岐に渡っているので、所謂法律もダルマだし、仏法 もダルマですね。
   ところで仏法における法律は何かというと、戒律です。 法律は犯せばもれなく罰則(ペナルティー)がついてきますが、
  戒律はそうとは言えませ ん。

   仏教の戒律において最も思い罪は「波羅夷罪」です。 これには4つありますので、四波羅夷と言います。
   この筆頭に来るのが「婬戒」です。 あとは「盗戒」「断人命戒」「妄説得上人法戒(=大妄語戒)」と続きます。
   仏教の戒律は破っても罰則と言うほどのものはありません。 布薩で懺悔すればいいのです。 敢えて言うなら、
   衆僧の前で告白して懺悔するのが罰ということになりましょうか。
    しかし、波羅夷罪は不可悔罪で、懺悔を許されません。 波羅夷罪を犯した比丘は不共住、つまり僧伽を追放されます。
   但し、婬戒には例外があります。

   この「懺悔」(が罰則である)という思想は、仏教の特徴をよく表していると思います。

   第1項  贖罪
     欧米でしたら罪を犯したときに求められるのは「贖罪」です。簡単にいうと「目には目を、歯には歯を」というヤツです。
     要するに、相手に詫びるために、その損害に代わる何らかの代償を提供することによって、相手の許しを得ます。
     こういった考えが近代法学の出発点になっていると思います。
     ですから法律を違犯すれば、慰謝料や罰金を払ったり、応報刑(ではないと主張する人もいるけれど、実質的には
     応報に相当するのではないでしょうか)を受けることになります。

  第2項  懺悔

    懺悔(デーサナー)には、損害を与えてしまった相手に対して許しを請うというような意味はありません。
    自己の犯した罪を他人の前に告白して、それによって罪を清めるのが目的です。

    戒律を犯してしまった場合、損害を与えた相手に対して懺悔をするのではなく、罪に穢れていない「清浄な比丘」の前で
    懺悔をします。自己の罪を発露し、再び犯すまいとの決心を表明すれば、懺悔を受ける「清浄比丘」は犯戒比丘の懺悔を
    受け入れます。それによって懺悔は成就します。

    布施が見返りを求めない施しであるように、懺悔もまた罪に対して代償を要求しないのです。

  第3項  懺悔の目的

    これはどういうことかというと、罪を犯してそれを隠しておくということは一種の苦痛です。
    心の重荷になっています。誰かに言ってしまえば楽になることってありますよね?そして心を汚す行為です。

    よって、自己の犯した罪を清浄な他者に告白し罪を公にすれば、私している(自分だけの秘密にしている)ことに
    よって重荷になっている罪を解消することができるのです。それによって罪の汚れから自己の心が開放されます。

    心の開放ということが仏教の目的の一つですから、犯戒する(罪を犯す)ということは相手に迷惑をかけたかどうか
    ということよりも、自分の心が汚れたかどうかに重点があるということになります。
    ですから、相手にどう償うかということは問われないのではないでしょうか。あくまで、犯戒した自分をまず認め、
    そしてその自分がどうあるべきか、ということが主眼なのでしょう。

                       参考: http://ruriko.hanagumori.com/