遍路十経

 いままでに、学んだ経典の中で、特に私が個人的に出会ったり、感動したお経をここにご紹介しようと思います。このサイトで、対訳を掲載しています。掲載する順番ですが、私が出会い、私の心理変化の順番にします。だって、根拠がありません。ただ、いくつかの経を勤行する次第とするなら、順位がありそうです。それは、また別のところでのお話とします。

 ここでは、それぞれのお経との出会いや内容のご紹介などのエピソードをお話ししましょう。

  1.仏説摩訶般若波羅蜜多心経
  2.薬師如来本願功徳経
  3.密厳院発露懺悔文
  4.阿弥陀如来根本陀羅尼
  5.妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五
  6.大樂金剛不空眞實三摩耶經 般若波羅蜜多理趣品
  7.金剛界礼懺 第五 至心廻向
  8.九条錫杖経  
  9.梵網経
  10.父母恩重経 


  1.仏説摩訶般若波羅蜜多心経

 初めての本格的なお寺参りは、西国観音霊場33ヶ寺巡礼でした。納経帖を手に入れて、ご朱印をいただくのがうれしかったです。お参りの方々を拝見し、またネットなどでだんだん勉強して、知識が増えてきますと、最低限『般若心経』は覚えなくてはいけないと思うようになります。

 当時、車通勤でしたから、CDでお経を聴き、耳から覚えることにしました。早速本屋さんに行って、解説本でCDが付いているものを購入。2冊目購入。あれ?少し以前のものと違う。お坊さんの詠み方も、一部言葉も違うのです。

 よく読んでみますと、宗派や個人のお坊さんでも違うのです。
  
 例、題名が、「仏説・・」とついているものとついていないもの。(お写経も同じです。)これは、真言宗だけが、「仏説」とつけます。
 ・・・・経典の解釈や教えによって、異なるようです。自分の宗派や覚えているほうでいいと思います。(檀那寺やお願いしているお坊さんの説に従うのが、いいですね。)

 眼で見て、耳で聞き、手で書いて、口で唱えると意味が分かってくる。(眼 耳 鼻 舌 身 意)そのとおり、最初は覚えられるかなあと思っていましたが、何度も繰り返すと覚えるものです。ただ、前述しましたが、できるだけ癖のない唱え方がいいですね。

 お遍路に出ていると、たくさんの団体や個人の方々と出会いますが、結構くせがきつくて、妙な節のある唱え方を聞きます。

 教えでは、「雨だれが落ちるように、よどみなく一定のリズムをもって唱える。」のだそうです。後述しますが、お経を唱えるコツは、4字ずつ区切って詠んでいくことです。

 ・・・・意味を考えて、詠んでいくと乱れます。詠むときは、意味でなく、リズムを大切にします。うまく理解していくと、息継ぎが意味の切れ目と、リズムの切れ目が合うところにできていきます。(これは、至難の業ですがね。)

 ・・・・知識です。お経はインドから中国に伝わります。そして、中国から日本に伝わりました。大乗仏教ですね。その時代や中国での、ヒンズー語から中国語への翻訳の過程で、当時の韻旋律(四六駢儷体)が、詩文としてリズムをもって適用されたようです。だから4.4.4.4.・・と区切って詠むと、もくぎょうや錫杖のリズムで詠めるのですね。

 ・・・・知識です。平安仏教では、お経の読み方に「声明(しょうみょう)」という旋律をつけて詠み方が伝わりました。真言宗や天台宗に今も伝わっています・ 日本の歌謡曲や民謡の原型だとも言われます。

 (音で区切る)・・・手でトントンとリズムをつくって詠んで見てください。(2箇所くるうところがあります。)
 仏説  摩訶  般若  波羅 蜜多  心経    観自  在菩薩    行深  般若  波羅  蜜多
 ぶっせつ まか   はんにゃ  はら  みた   しんぎょう かんじ   ざいぼさ    ぎょうじん はんにや  はら  みた

 時照 見五   蘊皆   空度  一切   苦厄  舎利  子色  不異  空空  不異  色色 
 じしょう けんご   うんかい  くうど   いっさい  くやく   しゃり   ししき   ふい   くうくう  ふい   しきしき

 (意味で区切る)対訳
  仏説  摩訶 般若波羅蜜多 心経  観自在菩薩 行深 般若波羅蜜多時
   
  照見五蘊皆空 度一切苦厄  舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
  

 さて、長くなりましたが、「般若心経」ですが、もっともポピュラーで、もっとも有名なお経ではないでしょうか。浄土宗や浄土真宗などでは、お唱えしませんが、ほかの宗派ではたいてい詠みます。

 でも、やっぱり一番難しいお経です。わたしもこのサイトで意訳をこころみましたが、なんとも難解です。すべての教えを理解してこそ、真の意味が分かるのでしょうか。解釈本も多くでています。一度、ご覧ください。

 お大師さん(弘法大師)の「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」という著作があって、それを読みますと、お大師さんの解釈がすこしだけ見えます。それで、その中身をつないで私なりの意訳をさせていただきました。 ひろさちやさんの心経 前田孝道師の心経 

 特筆すべきは、「心経のご真言」だと思います。
 『ぎゃあてい ぎゃあてい はらぎゃあてい はらそぎゃあてい ぼんじそわか』

 いろんな方の訳をみて、初めて気づいたのは、このご真言は、悲しみではなく祝福の語であるということです。

 昔から言われていることですが、本来なら生きているうちに仏道に帰依し、信仰を深めなければならないのですが、衆生はそれが足りない。だから、死んだときに生きているうちの修行を まとめてする。それが、いつの間にか葬式だけの仏教になってしまったのだとか。

 ぎゃぁてい  ぎゃぁてい  はらぎゃぁてい  
   行き行きて、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、行きて、静かな涅槃の境地に至り。
   去り去りて、去れる者よ、彼岸に去れる者よ、去りて、根源的なさとりに入る。

 はらそうぎゃぁてい ぼんじそわか
   彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。

 ですから、わたしは、最近いつもお葬式では、ここから極楽浄土に成仏くださいねと送り出しています。お四国の札所では、ご本堂と大師堂の二箇所で必ずお唱えします。このときは、仏の深遠な教えによってお守りください。深く帰依申し上げますと、お唱えしています。



  2.薬師如来本願功徳経

 私が、手にした最初の経本が、これです。仏教の勉強を始めて、また西国観音霊場から西国薬師巡礼を始めて、できたらお薬師さまのお経が読みたいと思いました。ネットで注文して、手に入れました。ですから残念ながら、まだ読経はできません。ですが、まあ漢文ですからまずは対訳をしていこうと思いました。これもネットで、何人かの方々がUPされていますから、それも参考にしながらです。

 とても興味深かったのは、その内容。一般の経典の特徴もわかってきました。お経ってなにが書いてあると思いますか。般若心経は、深い仏教の真髄が難しい言葉で書かれます。ですからみんなそうだと思っていました。

 なんと、違うのですよ。詳しい考察
 日本にもたらされた膨大なお経のほとんどが、三蔵法師玄奘がインドから持ってきた経典の中国翻訳本。それも、釈迦入滅後の第一結集のときに、阿難(アーナンダ)が記憶していたものを、書き取った書物。だから、たいていのお経は、「如是我聞(にょぜがもん)」で始まります。「そのとき私は、このように聞きました。」

 たくさんの弟子たちが集まっている、ある場所で、お釈迦様は、こんなお姿で、このようにお話になりました。または、そのとき、ある弟子の一人が、お釈迦様に尋ねました。お釈迦様は、このようにお答えになりました。

   [お薬師さまの名前]

 [十二の大願](詳細は、別掲「薬師経対訳」をご覧ください。)

 [日光・月光](お釈迦さまが、「浄瑠璃世界」の住人を説明します。)

 [八大菩薩](薬師八大菩薩です。「曼荼羅」の「八大菩薩」ではないのですが・・。)

 [四天王](四天王は、文殊菩薩の命令を受けるんですね。)

 [薬師の願](こうすればいいというのが、わかりやすい。)

 [薬師の功徳](私たち衆生は、どうすればいいんでしょう。)

 [救脱菩薩](この菩薩のことは、分かりません。奈良の秋篠寺に仏像があるようです。梵天といらっしゃる。)

 [お薬師の祭り方](49という数字が出てきます。)

 [九難(不慮の死)]

 [十二神将](お薬師さんをまもる12の神。お寺の仏像配置も興味深いですよね。)
意外でしたが、お経というのは、ある場面で、そのお経のテーマである仏様の解説や解釈をまるで舞台の台本のように、場面設定や登場人物、時には雷がなっていて、質問者と答えるお釈迦様の対話形式で、ダイナミックにその教えが説かれていきます。ですから、お経を読みあげるという行為は、その場面に同時に存在し、追体験することなんだと思います。

 だから(私の解釈ですが、)、お経は暗唱するものではなくて、見て、聞いて、読んで、その仏と一体化する行為だと思います。常に、経本を見るのが正しいのです。

  
 もう何年も前ですが、仏教を学ぶきっかけとなって、仏教理解の手立てとした仏様です。

 ■瑠璃の発心  ■瑠璃の経文  ■瑠璃の仏土 ■瑠璃の東園 ■瑠璃の仏尊
   祈りとは?    仏とは?    浄土とは?   方角は?    曼荼羅?




  3.密厳院発露懺悔文 密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)

 私がこの「懺悔文」(お経ではありません。)に出会ったのは、順番としては、高野山の歴史を勉強していたとき、弘法大師(空海)の次に、真言宗を立て直した人は誰なのだろうという単純な疑問からです。

 wikiでは、「真言宗中興の祖、興教大師覚鑁が、腐敗した真言宗総本山金剛峰寺の内紛に深い憂いを持ち、金剛峰寺内の自所「密厳院」において3余年に及ぶ無言行を敢行し、その後、一気に書き上げたそうです。」とあって、いろんな方々の発言にも、空海の後継者としてあげるなら、また空海の後、偉大な真言宗の僧侶をひとりあげるなら、興教大師覚鑁(かくばん)様でしょう。

 高野山といえども、弘法大師がお山を拓かれて、しばらく経つと、荒廃してきます。10世紀には火災もあって、世間から忘れ去られていくようです。そのとき、僧侶もまたすさんでいって、まさに真言宗の危機。覚鑁和尚は、自らにも厳しく高野山を再興されます。また、いろいろな弟子たちの活躍もあって、真言宗は18派にも分化し貴族や武士に支えられて発展していきます。

     


 高野山の刈萱堂のとなりに、今も密厳院という坊がありますが、高野山一の橋から奥の院への参道途中に密厳院という小さなお堂があります。中ノ橋を過ぎて、43段の階段(覚鑁坂)を上ります。奥の院に向かって右側にあるお堂に籠っておられたのでしょうか。

    

  ほとんどの参拝者は素通りされますが、高野山僧侶の方は皆さんお祈りされます。いまでも、尊敬されておられるのが感じられます。

     密厳堂内部の興教大師像

  その後興教大師覚鑁様は、大阪和泉の根来寺でお山をおりて生涯を送られます。奈良の長谷寺を本山とする豊山派(ぶざんは)は、覚鑁様がメインです。お経で、ご宝号(南無大師遍照金剛)のあと、南無興教大師(なむこうぎょうだいし)と唱える経は、豊山派の経です。
    
 「懺悔文」(さんげもん)の中身ですが、いつ読んでもどきどきします。お坊さんはいまも、なにかあったらこの文を日常に読まれるそうです。「耳痛い」そのものです。

 『1.われは懺悔する。妄想にとりつかれて、もろもろの罪を犯してきました。
  2.身と口と意(こころ)の行いは、つねにひっくりかえり、多くの悪行を誤って犯してきました。
  3.財産を惜しんで人に施さず、気の向くままに、ふしだらな生活をし、戒めなどまったく守らなかった。
  4.よく腹を立て、我慢をしない。怠けることばかり考えて、少しも努力をしない。心はいつも乱れているが、座禅などしたことがない。
  5.道理にはずれているのに、智慧を磨こうともしない。
  6.六波羅蜜行などしたことがないのは、かえって地獄行きのもとをつくっているのだ。
  7.僧侶の名を借りて寺院を汚し、僧侶の格好をしてお布施をもらっているのだ。
  8.授けられた戒律は、とっくに忘れてしまい、学ぶべき修行は嫌いになっている。
  9.諸仏が嫌がっていることを恥とせず、菩薩たちを悩ませていることを恐れない。
 10.遊びまわり、冗談を楽しんでいるうちに年をとり、人に心にもないお世辞や、嘘をいっている間に、むなしく日は過ぎていく。
 11.善き友を避けて、愚かな友と親しみ、善いことをしようとしないで悪いことをしてしまう。
 12.名誉がほしいので自画自賛をし、徳の高い人を見ては、ねたましく思う。
 13.自分より劣った人を見ては高慢になり、金持ちの暮らしを聞いてはあこがれ、貧乏な暮らしを聞いてはおぞましく思う。
 14.過失で殺すも殺意を持って殺すも殺人にかわりなく、強盗にしてもコソ泥にしても盗人にかわりがない。
 15.触れても触れなくても、不倫な行為は不倫である。
 16.悪い言葉や悪い心のはたらきが互いに重なって、仏を観想しても心が落ち着かず、経を読んでも間違える。
 17.もし善いことをしても、その結果を期待するから、かえって迷いの世界に入るもととなる。
 18.毎日の暮らしのなかで、知らないうちにたくさんの罪を犯している。

  いま、仏・法・僧の三宝のおん前で告白いたします。なにとぞ慈悲のお心でおゆるしください。ここに、すべてを懺悔いたします。自らの行いと、言葉と、心の動きによってできた罪を、わたしはすべての人に代わって、懺悔いたします。なにとぞ、すべての人が悪行の報いを受けませんように。』

 私、お参りする度に「どうかお叱りください。」と手を合わせます。

  流麗な七五調の和文体です。いいですね。大好きな 蓮如上人の「白骨の御文章」 と同じ。


  4.阿弥陀如来根本陀羅尼 阿弥陀陀羅尼 

 阿弥陀如来様は、人が亡くなったときに、お迎えに来られる仏ですよね。「極楽浄土」に連れて行ってくださるありがたい仏です。ご真言は、「おん あみりた ていせ(ぜ)い から うん」

 「甘露」という言葉があります。
  wikiでは、甘露(かんろ)とは、中華世界古代の伝承で、天地陰陽のが調和するとから降る甘い液体。インド神話で不死の霊薬とされたアムリタを、漢訳仏典では中国の伝承の甘露と同一視し、甘露、醍醐と訳す。

     
 この陀羅尼には、「あみりた(甘露)」という音が、10回繰り返されます。この響きに魅了されました。よく口ずさむのですが、真言宗のお葬式で詠まれる陀羅尼です。私の日常勤行次第では、大金剛輪陀羅尼にしています。

         のうぼう あらたん のうたら やぁや
       のうまく ありや みたぁ ばぁや  
       たたぎゃたや あらかてぃ さんみゃく さんぼだや たにゃた
       おん あみりてい
       あみりとう どはんべい
       あみりた さんばべい
       あみりた ぎゃらべい
       あみりた しってい
       あみりた ていせい
       あみりた びきらんでぃ
       あみりた びきらんだ ぎゃみねぃ
       あみりた ぎゃぎゃのぅ きちきゃれぃ
       あみりた どんどび そばれぃ
       さらば あらた さたねぃ
       さらば きゃらま きれぃ しゃきしゃ よぅ きゃれぃ さわか


     48の功徳を顕わし、私たちを導いてくださる仏です。


  5.妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経■観音経読解 ■観音経偈

 いわゆる観音経は、全部で2062文字あります。長行(じょうごう)という散文の部分が、2/3。続いて偈文(げもん)という五言の長歌。最後に短い長行です。

 観音霊場の巡礼をしていますと、やはり熱心なかたは、「観音経」を詠まれます。長いですよね。CDを持っています。車でも聞きますが、諳(そら)んじるなんてできません。せめて、意味だけでも知っておきたいと、対訳をUPしました。また、簡単な内容分析もしましょう。

 「みなさんが、7つの難、3つの毒におかされたなら、そのとき観世音菩薩の名を呼べば、助かるでしょう。19種類の説法で、33種類の姿に変えてあらゆる者たちにその教えを諭そう。

 どんな時でも、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」(観音の名を呼んで念じれば)、すべてが救われる。

 もっとも有名なのは、「観音経偈(げ)」です。本来は5言ですが、お経として詠むときは4字区切りです。すごくリズムがあって、聞いていて同じ音が繰り返される、ある種の境地に入る独特な呪術的経文です。これこそ、錫杖を振るのがいいでしょうか。

 種田山頭火は、山口県小郡に其中庵(ごちゅうあん)を結びます。庵名は、観音経の「其中一人 作是唱言(ごちゅういちにん さぜしょうごん)」を借用したものとされています。

    観音経の一節に、
  『 若三千大千国土    満中怨賊  
    有一商主将諸商人  斉持重宝経過険路
    其中一人作是唱言   諸善男子勿得恐怖
    汝等応当一心称    観世音菩薩名号
    是菩薩能以無畏   施於衆生汝等若
    称名者於此怨賊    当得解脱 』

 もし、この世に多くの盗賊がおり、その中を商い主が率いる諸々の商人が貴重な宝物を持って、険しい路を通り過ぎ様とする時、その中の一人が「皆さん、恐れることはありません。観世音菩薩の御名を一心にお唱えしたなら、観世音菩薩は救ってくださいます」これを聞いた商人達は「南無観世音菩薩」と唱え、その功徳によって盗賊の難から逃れる事が出来た。

 そんなみなさんに声がかけられる人間に、私もなりたいと思いました。


  6.大樂金剛不空眞實三摩耶經 般若波羅蜜多理趣品(理趣経)■理趣経対訳 ■理趣経内容

 初めて、CDで高野山の声明を聞いたとき、身の毛が逆立つような感動がありました。理趣経は常に詠まれます。真言宗ではいかなるときも必須です。

 般若理趣経または、理趣経 (完全なる悟りへの道を述べた経)という意味です。一般的にお経は中国から伝わったものですから、その時代の中国の読み方は基本です。またいまの日本語が呉音、漢音などの混同ですから、現代の漢字の読み方と一部違います。理趣経は、漢音で読むのが基本です。
    
 たいていのお経は、「如是我聞(にょぜがもん)」で始まります。「そのとき私は、このように聞きました。」これが、漢音では、「じょしがぶん」になります。理趣経は、「じょしがぶん」です。

 また、声明(しょうみょう)といって、お経を独特の節回しで詠んで行く方法も伝来しました。やはり、平安密教の時代です。ですから天台宗や真言宗がその伝統を受け継いでいるといえます。それぞれに流派はあって伝えられています。

 高らかに、「おん さらば さとば そうぎゃらか ・・」と始まって、「みょうーびーるしゃなー」、「たいらー きんこうー ふこー しんじー さんまやけいー」、そして「じょしがぶーんー」です。

 全部で17段構成になっていて、あの金剛界曼荼羅の右上の「理趣会」をベースに曼荼羅16仏の働きが語られます。

 あまりに長いこともあって、お坊さんは場面にあわせて、段落の終わりに、「乃至」とつけて一部省略します。そして第17段までとんで、「百字の偈(げ)」をよみます。
   
その後、「善哉 善哉 大薩捶 善哉 善哉 大安樂」(せんざい さんざい だいさった・)と。子供のころからここが一番好きでした。いみも分からないのですが、お仏壇で、月参りの院住さん(いんじゅさん)は、「せんざい」と始まったら、ああもうすぐ終わるなあなんて思っていましたね。

その後、「ひろー しゃだふー」と11回続きます。これを「合殺」といいます。よく聞くと10回目だけが、「ひろしゃだー」といって、「ふー」がないんですよ。

 最後の「入阿字(にゅうあじ)」が、とても印象的です。そうなんだ、「阿」に入るんだ・・なんてね。「阿字観」は、こういうことなんだと思います。じっとお聞きしていて、「阿」の境地に入れたらいいですよね。最近は、「阿」字を心に浮かべながら、その境地に浮かぶようにしています。


  7.金剛界礼懺第五至心廻向  ■至心廻向 

 ずっと以前、勤行次第に興味があっていろいろな宗派やお坊さんのお経を調べていて、出会ったお経です。お坊さんのお経の「回向文(えこうもん)」が、在家の日常勤行の回向文と違うことに気づいたんです。

 「さんがい ずいき げんせいふく・・」というのを聞いて、なぜ在家の私たちには紹介されないのだろうかと疑問でした。それだけではなくて、曼荼羅の勉強をしていたら、■金剛界禮懺 ■胎蔵界禮懺 というお経があるんです。たくさんの仏様をたたえるお経です。小野仁海様が作った曼荼羅への懺悔のお経ですかね。『曼荼羅供』などのときにお唱えするのですね。

 そこで、私なりの勤行次第を作りたいと思い、お坊様とも相談して、作りました。
   (普禮真言)(祈願文)(懺悔文)(三帰)(三竟)(十善戒)(発菩提心真言)(三昧耶戒真言)(開経偈)(四智梵語)(大日讃)(不動讃)(百字の偈) 『理趣経』(四智漢語)(心略漢語)(佛讃)(般若心経)(金剛界至心廻向)(本尊真言)(光明真言)(ご寶号)(高野神明真言)(先祖供養)(胎蔵界回向方便)(普禮真言)

 この二つの回向文は、終わり方が同じなんです。 『きべいていれい たいひ (ひ)ろしゃだぶ』 といいます。ここが、大好きなんです。 まだうまく覚えていないのですが、短いですから早く覚えたいですね。


 8.九条錫杖経  ■九条錫杖対訳

 錫杖は、お地蔵さんが持っておられる仏具ですよね。遍路に出るようになって、金剛杖をついているわけですが、先達さんやお坊さんは、錫杖を持っておられます。金剛杖には、鈴をつけている方が多いですね。錫杖のあの音、あれこそなんだか、一気に魂を浄土に連れて行ってくれるような、そんな気持ちになります。

 お地蔵さんの勉強をして、錫杖経に「九条」と「三条」があることも知りました。三条は、九条の省略版みたいですね。この「九条錫杖経」は、祈願や供養のときにお唱えするようです。

 実は、平成23年3月11日の東北大震災のとき、私なりに何かできないかと思いました。想像できないほどのたくさんの人々が亡くなられました。懇意にしていただいていますお坊さんも被災されたのに、毎日あちこちから見つかるご遺体を拝んで供養されていることを聞いて、この「九条錫杖経」をあげてもらいたくて、一尺の長さの錫杖をお贈りしまして、仙台で拝んでいただいています。

 あのサラサラサラサラという錫杖の音は、いつ聞いてもいいものです。

 いま、私も先達になり、赤い錫杖を持つようになりました。金剛杖です。それを突いて歩きます。そのたびに出るシャンシャンという音が、大好きです。


 9.梵網経 ■梵網経解説 ■梵網經本文 ■梵網経(読み付き)

 梵網経の経文の中に「菩薩波羅夷罪」(ぼさはらいざい)という言葉が、何度もでてきます。

 人は、生まれながらにして三毒を持っています。赤い血に引き継がれたDNAの記憶のなかに。人として生まれ、生きていかねばならない私たちは、常に失敗し、人を傷つけ、悔いながら日々を送るのです。仏教は、懺悔を許しません。永遠に悔いに中で生きるのです。日々、仏に参り、経を詠み、真を尽くす(三密の行)こと。たぶん、それだけ。

 私の心が、わたしを許すことはないかもしれません。私の人を信じる心が常に揺れ動くようになってしまったことを。わたしはまた、どこまで愛しても愛されても、信じても許されない「罰」を与えられたのだろうと思います。修羅の道を歩むしかない。不条理の坂道を、仏と共に歩くしかない。
  
 梵網経の十重禁戒は、一般的な意味での戒とは異なり、これを破ることは菩薩として許されない重大な罪、「菩薩波羅夷罪(ぼさつはらいざい)」である、と『梵網経』では強く断罪されています。

 波羅夷とは、サンスクリットまたはパーリ語「パーラージカ」の音写語で、「不応悔罪(ふおうけざい)」あるいは「断頭罪(だんとうざい)」との漢訳語があります。これを現代語にすると「懺悔しても許されない罪」あるいは「死罪」となりますが、これらは「律の用語」です。

 律蔵において、波羅夷罪とは、「性交渉・殺人・盗難・宗教的虚言」の四つに限られるものであり、これらの内いずれか一つでも、仏教の正式な出家者である比丘が犯せば、その者はただちに僧侶としての資格を失い、僧団から追放に処せられ、二度と比丘になることは出来なくなります。

 ゆえに「懺悔しても許されない罪」あるいは「(僧侶としての)死罪」なのです。

 『梵網経』では、この波羅夷罪に十項目を挙げ、それを犯すことは「菩薩の波羅夷罪」であると説いています。では、律と同様に、これらの戒を破ることを、「懺悔しても許されない罪」あるいは「(菩薩としての)死罪」としているかというと、違うのです。『梵網経』では、これらの罪は、礼拝や読経などを繰り返すことによる懺悔を行い、その期間に何事か吉祥なる現象「好相」に遭遇したならば、許されるとしているのです。

 そうです。仏教の「戒」は、戒めや刑罰というよりも、やはり生きる目標であって、指針。そして、たとえそれが死罪に値するとしても、「懺悔」し続け、ひたすら「行」ずることによって、「認められる」のではなくとも、「生きる」ことにおいて、仏の子として、存在は否定されないという解釈です。


  10.父母恩重経 ■父母恩重経(対訳)
   
 私が、この経に出会ったのはもう随分前です。ある方から紹介されました。でも、そのときには余りに直截的で、好きではありませんでした。また、偽経といって、インドから伝わった経ではなくて、中国で作られたり日本でできたりした、時代的には新しいものもあります。どこか、そんなことで、素直に内容を読めなかったのかもしれません。

 H24年1月19日、この日は私にとってとても印象的な日になりました。私の4人目の孫が、生まれた日です。昼から、お休みをいただいて、嫁の入っている病院に向かっていました。同時に、職場の方の一人息子が、高校の校舎から飛び降りた日でもありました。

 このお経は、生まれてから成人するまで、ずっと続く親の愛情を知り、深く親の恩に感謝し、祈りなさいという教えが述べられます。詠み方によっては、押し付けがましい親の愛情とも読めるのですが、もっと素直に読めば、その通り親への感謝を忘れてはいけないなあと思います。

 嫁には、こうして孫を見せられた自分の親に対する感謝と、生まれてきた子供にするべき親としての役割を知らせようと思いました。そんな時、同時に職場で、親より先に自ら旅立った17歳の若者に、いささかの恨みと衝動的だったか、それが耐えられない深い嘆きだったのか、どうか安らかにこれからの親を守ってあげてほしいと祈りました。

 先日、49日のお参りに行きました。墓は当分作らない。親の墓ができたら、一緒にいれてやりたいと父親が話していました。泣きました。どんなことがあっても親より先に逝ってはならないよ。できることならば、仏説盂蘭盆経によって、目連さんにお願いして、現世にもどしてあげたい。父、母の嘆きは、いつまでも続いていくだろうから。

 生まれる命、消える命。そのどの命にも、連綿とつながる縁と因。すべてを受け入れて、感謝して生かされる命のともし火を輝かせたい。そんな思いが、この経にはあります。