観音霊場について

 伝説によれば、巡礼の始めは、養老二年(718)、大和長谷寺の徳道上人によって、
西国観音巡礼が創設されました。上人は、病のため仮死状態のとき、夢の中で閻魔大
王に会い、大王は、「お前はまだ死ぬことを許さない。世に悩み苦しむ人々が多いので、
その人々を救うために、三十三カ所の観音霊場をつくり、巡礼をすすめなさい」といい、
上人は仮死状態から蘇生したのであります。そこで上人は、閻魔大王にいわれたとおり、
三十三の霊場を設定するのですが、世人は上人のいうことを信用せず、巡礼は発展し
ませんでした。第六十五代花山天皇は、在位わずか二年にして皇位を退き、十九歳の
若さで法王となりました。比叡山で修行し、書写山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、
中山寺の弁光上人を伴って、那智で修行し、西国観音霊場を参拝され、復興されました。

この両者に関する巡礼創始、中興の話は有名で、室町時代の禅僧の語録である『竹居
清事』や『天陰語録』などにも明記されており、かなり以前からの伝承であることが知られ
る。しかも、少なくとも江戸時代まで大多数の人がこれを史実として疑わなかったことは
特筆すべきことである。

 徳道上人の西国観音巡礼創設より二七〇年後のことであります。その時に那智山が
第一番になったようです。それ以外の番外が三カ寺あります。番外の法起院は、徳道
上人を祀っているところ元慶寺は、西国札所中興の祖、花山法王が剃髪し仏門に入った
寺花山院は、花山法王が、入寂までの間、仏道修行をされながら過ごされたところである
ため、番外となっています。

 しかし、史実のうえでは、近江三井寺の覚忠大僧正が、応保元年(1161)近畿地方に散
在する三十三カ所の観音霊場を七十五日かけて巡られたのが、その創始であるといわれ
ます。それは三井寺僧侶の伝記を集めた『寺門高僧記』の記録によるところ。

 したがって観音札所巡礼は、平安末期の創始で、修験者たちによるものであることが知ら
れ、そして札所のうえに「西国」の二字が冠せられるようになったのは、鎌倉時代、東国の
人々の呼称によるものであったろうと推定されている。この東国人の西国札所に寄せる熱い
思いは、やがて坂東札所の制定へとつながっていったのであり、この坂東札所の成立を前提
としてのみ「西国」という二字の意味が理解できるのです。

やがて室町時代になると一般庶民の参加が目立ってくる。そして天文六年(1537)の『東勝寺
鼠物語』には「谷汲にて札を納め、又、四国遍路、坂東巡礼などして諸国を修行仕ける」とあって、
山地方の札所という地方性からの脱却も見られる。なお、室町時代の「狂言」に「是より直に
西国、坂東八カ国を巡って霊場を拝まうと思ふが何とあらふ」とあるなど、すでに坂東と西国とは
比肩するほどの札所になっていたようである。

室町末期には西国、秩父と合わせての「百観音札所」巡礼が行われるようになると、坂東札所も
一段と賑わいを増し、江戸時代の盛況へと移っていった。

浅草寺貫首 清水谷孝尚 朱鷺書房『坂東三十三所観音巡礼・法話と札所案内』から
http://chichibufudasho.com/

 上記、「秩父観音霊場」の成立をはじめとして、各地方に「写し」とも呼ばれる、33カ所の寺院を
選定する、観音霊場が次々に成立していくのであろう。

代表的な観音菩薩霊場  
日本百観音 西国三十三所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所
東海百観音 三河三十三観音霊場・尾張三十三観音霊場・美濃三十三観音霊場・豊川稲荷
出羽百観音 最上三十三観音霊場・庄内三十三観音霊場・置賜三十三観音霊場
(上記の「百観音」は、早くは江戸期にもう成立していて、より多くの御利益を願う庶民の信仰や
それを理由にした、諸国漫遊の娯楽的要素も含まれているのであろう。

また、日本各地に観音霊場があり、特に西国33ヶ寺の本尊菩薩の像を集めてまつる堂や寺社の
裏山に石像を設置するなどの、ミニチュア巡礼も数多く存在する。