阿弥陀如来   







  ご真言 おん あみりたていせい からうん
 「(C)2004 RayLand」    種字 キリーク
                                     阿弥陀経 無量寿経 観無量寿経 (浄土三部経)

十三仏の3回忌導師。三尊形式のときは観世音菩薩と勢至菩薩を従えます。密教系では左右が逆となります。
無量寿如来、不可思議光如来、尽十方無碍光仏(じんじっぽうむげこうぶつ)とも呼びます。アミダには無量光、無量寿の意味が有ります。

現世と来世をよりよいものとするように導いてくれる仏。
過去無量劫に法蔵菩薩であったときに、世自在王仏のもとで四十八願を立てて、修行をし、悟りを得て阿弥陀仏とになり、西方に極楽浄土を建設し教えを説く。この如来の放つ無量の光明によって、さまざまな苦しみが除去され、大慈悲心によってすべてが癒されてしまう。

阿弥陀如来も釈尊と同様に、もとインドの王子でしたが48の大願を立て、修行の末如来になったといわれます。
 その大願の中に「念仏を行う者は必ず極楽浄土へ行ける」と説いていて「無量寿如来」とか「無量光如来」(無量=限りない)とも呼ばれています。

宝蔵菩薩時代に五劫と言う無限に近い間修行して四十八の誓願(無量寿経)をたて如来となったとされる阿弥陀を信仰する事により救われようとの考えから成立したものである。

梵語名、アミターユス・無量光の音訳とする説が有力視されている。 大無量寿経に阿弥陀如来の出現経過が説かれており、大乗経典に一番多く登場する如来である、人間が高邁な悟りの境地に達するのは限りなく困難な事であり死に対する絶望的恐怖感から思考されたのが阿弥陀如来と言へる。

 五劫という遠い過去に法蔵菩薩が世自在王仏の下で念仏往生による・衆生救済の四十八願を立て、成就して阿弥陀如来となった。極楽浄土とはこの阿弥陀如来の建立した西方浄土のこと。

阿弥陀さまは手の形(印相)にいろいろなバリエーションがあります。結ぶ印相の種類は多く古くは施無畏印・与願印、あるいは説法印、平安時代以降は阿弥陀定印、浄土信仰が盛んになった平安後期以降には来迎印を結ぶ例が多いようです。
印相や坐像立像の違いは信仰形態の変化により変わり施無畏与願・転法輪・(説法印)・定印・来迎印がある、説法印像は天平時代以前に多く定印(上品上生)は藤原時代から鎌倉前期に多い、そして来迎院像は鎌倉時代中期以後になる。  

一般に言はれる九品印は近世我日本で作られたもので形態化すべきではないとする説がある。
ただ平安時代中・後期には九品印(特に上品上生と来迎印)の阿弥陀如来は多く製作された。

※印相について
仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して印と呼ぶ

釈迦の五印―釈迦の様々な身振りを表わしたもの
   ・説法印(転法輪印)…釈迦が最初の説法をしたときの身振りをとらえたもの
   ・施無畏印…人々を安心させる身振り
   ・定印(禅定印)…心の安定を表わす身振りで、釈迦が悟りを開いたときの姿をとらえたもの。
    これと同じかたちで阿弥陀如来が結ぶものを阿弥陀定印、大日如来が結ぶものを法界定印と呼ぶ
   ・降魔印(触地印)…悪魔を退ける身振り(釈迦が悟りを開いたあと悪魔が悟りの邪魔をしにやってき
    た際に、釈迦が指先を地面に触れると地神が現れて釈迦の悟りを証明しこれを見た悪魔が退散した
    という話からそのときの釈迦をとらえたもの)
   ・与願印…人々の願いを聞き入れ望むものを与えようとする身振りで、深い慈悲を表わしている

九品来迎印―仏教では人間をその能力や信仰の程度によって、上品・中品・下品の三つの位のそれぞれをさらに上生・中生・下生の三つに分けた九つの段階に区別するが、阿弥陀如来は臨終の人を迎えに来る際その人にふさわしい印を示すとされる。この九種の印の総称が九品来迎印である。両手をへその前で組むのが上品、両手を胸の前に上げるのが中品、右手が上で左手が下になっているのが下品であり、親指と人差し指をあわせて輪を作るのが上生、親指と中指で作るのが中生、親指と薬指で作るのが下生である。これらの手のひらの位置と指の形の組み合わせで九種の印を表わす。(上生印を定印、中生印を説法印、下生印を来迎印と呼ぶこともある。)

   ・密教印―密教において印は単に身振りを表わすだけでなく、教理そのものも表わすようになった。
    このため密教では印が著しく発達し、種類も増えかたちも複雑になった。
    主なものとしては金剛界大日如来の智剣印(智拳印)と、胎蔵界大日如来の法界定印がある。

   ・智剣印はは両手とも親指を拳の中ににぎり、左手の人差指を立ててその第一関節までを右手の
    拳でにぎり胸の前に右拳を重ねたもの。これは密教の密教の教主である大日如来の智慧を示し
    たもので深い思索から行動に移る一瞬をとらえたものだといい右手は仏を左手は衆生を表わす
    ともいう。法界定印のかたちは釈迦の五印の定印と同じである。

その他の印―この他にも印は無数にあり全てを紹介することはできないが、代表的なものをいくつか挙げておく。

   ・安慰印…施無畏印のように右腕を曲げて手のひらを前に開いて親指と人差指で輪を作って他の
    三本の指を立てたもの(阿弥陀如来仏の下品上生印や焼くし如来の三界印などがこれに当たる)

   ・吉祥印…親指と薬指で輪を作ったもの

   ・合掌印(金剛合掌・帰命合掌)…胸の前で両手を合わせるもので普通にてのひらを合わせただけの
    ものを金剛合掌、両手を合わせて十本の指をそれぞれ交差させたものを帰命合掌と呼ぶ

インドでは二世紀頃には阿弥陀信仰は成立しており釈迦についで古い佛の一つと言える、しかし当地では現在阿弥陀と確認できる仏像は無い。

我が国には六世紀後半から七世紀初頭頃に伝わり弥勒信仰と混合された形で信仰された、代表例として奈良時代には浄土をイメージした橘夫人念持佛等がある、平安時代には定行三昧法に必要な阿弥陀堂の中で上品上生の像、更に鎌倉時代にはいろいろな来迎絵など佛教美術的にも大きな貢献をしており国宝・重文指定の文化財は最高の数にのぼる。

今も尚、西方極楽浄土で説法を続けておられると経典に説く。「南無阿弥陀仏」と称える念仏はこの仏の名を一心に称えること。念仏すれば釈迦の教法が衰えた末法の世の中にあって、いかなる衆生も憂いや不安のない極楽に往生できるという、法然や親鸞のいわゆる念仏・他力本願の教えは、この阿弥陀如来の誓願によるもの。

 弥陀一仏に帰依する阿弥陀信仰は法然・親鸞により確立。本願寺八世の蓮如の時代には全国的なものとなり、津々浦々に阿弥陀如来を安置する浄土真宗の寺院が建立された。(※浄土宗や浄土真宗の本尊。真宗の場合は立像)
 
梅原猛氏は「阿弥陀像は、奈良時代では主として説法をしている姿で表され、平安時代では坐って沈思黙考している姿であらわされ、更に鎌倉時代には立って念佛者を迎え入れる姿であらわされる」と言われる(仏像のこころ、集英社)。
平安前期より鎌倉時代にかけて阿弥陀の造像は盛んで現在国宝等に指定されている仏像はこの時代のものが阿弥陀を中心に多くを占める、これは源信・法然・親鸞・一遍等の念仏・浄土教の流れと一致する。  


四十八願
       
【1】無三悪趣の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、私の国に地獄、餓鬼、畜生のものがいるようなら、私はさとりを開きません。

【2】不更悪趣(ふきょうあくしゅ)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、その国の人々や天人が命を終えた後、再び三悪道(地獄、餓鬼、畜生)にかえるようなことがあるようなら、私はさとりを開きません。  

【3】悉皆金色(しっかいこんじき)の願   
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が真金色に輝く身になることができないようなら、私はさとりを開きません。  

【4】無有好醜(むうこうしゅ)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人の姿かたちが、まちまちで、美しいものと醜いものとがあるようなら、私はさとりを開きません。  

【5】宿命通(しゅくみょうつう)の願   
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、宿命を識らずして、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、宿命通(しゅくみょうつう)を得ないで、下、百千億那由他の諸劫の事(限りない過去のこと)まで知り尽くすことが出来ないようなら、私はさとりを開きません。  

【6】天眼通(てんげんつう)の願  
       たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、天眼通(てんげんつう)を得ないで、数限りない諸仏の国土を自由自在に見通すことが出来ないようなら、私はさとりを開きません。  

【7】天耳通(てんにつう)の願   
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天耳を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の説くところを聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚 を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、天耳通(てんにつう)を得ないで、数限りない諸仏の説法を聞き取り、すべてを記憶することもできないようなら、私はさとりを開きません。  

【8】他心通(たしんつう)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、他心を見る智を得ずして、下、百千億那由他の諸仏国中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、他心通(たしんつう)を得ないで、数限りない諸仏国土の人々の心を自在に見抜き知り尽くすことができないようなら、私はさとりを開きません。  

【9】神足通(じんそくつう)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、神足を得ずして、一念のあひだにおいて、下、百千億那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らば、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、神足通(じんそくつう)を得ないで、数限りない諸仏の国土をまたたく間にとびまわることができないようなら、私はさとりを開きません。  
 
【10】漏尽通(ろじんつう)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、もし想念を起して、身を貪計せば、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、〈漏尽通(ろじんつう)を得ないで〉、いろいろと思いはからい、その身に執着するようなことがあるなら、私はさとりを開きません。  
 
【11】必至滅度(ひっしめつど)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が、正定聚(しょうじょうじゅ)にはいり、必ず悟りを得ることがないようなら、私はさとりを開きません。  

【12】光明無量の願
      たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。 ・私が仏になるとき、私の光明に限りがあって、少なくとも百千億那由他の諸仏の国を照らすことができないようなら、私はさとりを開きません。  

【13】寿命無量の願
      たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、私の寿命に限りがあって、少なくとも百千億那由他劫までの長さでつきるようなら、私はさとりを開きません。  

【14】声聞無数の願  
    たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくとも に計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、私の国の声聞の数に限りがあり、たとえば三千大千世界の声聞・縁覚たちが、百千劫のあいだ力をあわせて計算し、その数を数え尽くせるようなら、私はさとりを開きません。    

  
【15】眷属長寿の願      
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、私の国の人々や天人の寿命は限りないものにさせましょう。しかしそれぞれの希望で、その長短を自由にする人は別として、他の人の寿命に限りがあるようなら、私はさとりを開きません。  

【16】離き嫌名(りきけんみょう)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、私の国の人々や天人に、不善のものがいたり、またその名さえあるようなら、私はさとりを開きません。  
【17】諸仏称揚の願
      たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の数限りない諸仏たちが、ことごとく私の名をほめたたえないようなら、私はさとりを開きません。  

【18】念仏往生の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚 を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる人たちが、私の至心をよりどころに、往生まちがいないという思いから、ただ念仏を申す身となるように育てます。それでも私の国に生まれることが出来ないようなら、私はさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の正しいみ教えを謗ったりする人だけは除きます。  

【19】修諸功徳(しゅしょくどく)の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せ ん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、あらゆる人たちが菩提心を起こし、もろもろの善根功徳を修め、ひとすじに私の国に生まれたいと願うなら、その人々の臨終の時、私は多くの聖者たちと、その人の前に現れましょう。それが出来ないようなら、私はさとりを開きません。  
  
【20】植諸徳本(じきしょとくほん)の願    
     たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向して わが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、あらゆる人たちが私の名を聞いて、私の国におもいをよせ念仏をとなえる功を積んで、ひたすらに私の国へ生まれたいと願うなら、私はその願いを果たし遂げさせましょう。それが出来ないようなら、私はさとりを開きません。  

【21】三十二相の願  
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、わたしの国の人々や天人が、一人残らず三十二相の仏の姿をまどかに備えられないようなら、私はさとりを開きません。  
 
【22】必至補処の願
      たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の 自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸 仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正 真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習 せん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、他の国の菩薩達が、私の浄土に生まれたなら、必ず菩薩最高の位にはいるようにしてやりましょう。しかし衆生を自由に救いたいという思いから、ひろい誓いの鎧を着て、功徳を積み、諸仏の国に行って菩薩の修行をし、それらの諸仏を供養し、無数の衆生を導いて最上の道をえさせたいというなものは、そのかぎりではありません。(菩薩最高の位にはいったものは)月並みの菩薩に超えすぐれ、菩薩の行のすべてが現れて、普賢菩薩のような徳を修めることが出来るでしょう。もしそれができないなら、私はさとりをひらきません。  

【23】供養諸仏の願  
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食のあひだにあまねく無数無量那由他の 諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、私の国の菩薩が、仏の威神力をたまわり、諸仏を供養するにあたって、極めて短い時間のうちに、無数の国々にいたりつけるようにしてやることが出来ないならば、私はさとりを開きません。  

【24】供具如意(くぐにょい)の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし 意のごとくならずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、諸仏の前で、供養の徳をあらわすにあたり、欲しいと思う供養の品を思いのままに得られないならば、私はさとりを開きません。

【25】説一切智の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説することあたはずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、あらゆる智慧をもって思いのままにに説法することが出来ないようなら、私はさとりを開きません。  

【26】那羅延身(ならえんしん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、那羅延のような、どんなことにも負けない堅固な身を得ることが出来ないならば、私はさとりを開きません。  

【27】所須厳浄(しょしゅごんじょう)の願
       たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量する ことなけん。そのも ろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が用いる一切のものが、みな清らかでうるわしく光輝き、その形は特にすぐれ、微妙であることはとても計り知れないぐらいにしましょう。人々が天眼通(てんげんつう)を得て、そのありさまやや数を知り尽くすことが出来るようであるならば、私はさとりを開きません。  

【28】見道場樹(けんどうじょうじゅ)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見す ることあたはずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩で、たとえ功徳の少ない者であっても、高さ四百万里の光り輝く菩提樹を見ることができないようなら、私はさとりを開きません。  

【29】得弁才智の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、経法をいただいて読誦し、これを人々に説き述べ、さわりのない弁才智慧を得られないならば、私はさとりを開きません。   

【30】智弁無窮の願
      たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、智慧弁才もし限量すべくは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、智慧や弁才に限りがあるならば、私はさとりを開きません。  
 
【31】国土清浄の願    
     たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩 るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、国土が清らかで、光明が十方無量の世界を照らすことが、ちょうど磨き上げた鏡に姿をうつすようにしましょう。もしそれが出来ないならば、私はさとりを開きません。  

【32】宝香合成の願
      たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に薫じて、菩薩聞かんも の、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、大地より虚空にいたるまで、宮殿、楼閣、池水や川の流れ、樹木や花など、私の国のすべてのものがみな無数の宝と無量の香りからでき、その美しい荘厳は世にこえてすぐれ、ゆかしい香りは方世界に薫じわたり、これを聞くものはみな仏道にいそしむでしょう。もしこのようでないならば、私はさとりを開きません。  

【33】触光柔ナン(軟)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、十方世界のあらゆる衆生で、私の光明に照らされこれを身に触れるものは、身も心もやわらいで、人天のそれよりもはるかにこえすぐれることでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。   

【34】聞名得忍(もんみょうとくにん)の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの 深総持を得ずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、十方世界のあらゆる衆生が、我が名を聞いて、涅槃を得るに間違いのない身となり、もろもろの深い智慧をえることができないならば、私はさとりを開きません。   

【35】女人成仏の願
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心 を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の女性達が、我が名を聞いて、喜び信じ、菩提心を発し、我が身を恥じらう思いになるならばいのちの終わってのちは、再びもとの身にはならないだろう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。  

【36】常修梵行(じょうしゅうぼんぎょう)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに、つねに梵行を修して仏道を成るに至らん。もししからずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の菩薩達が、我が名を聞いて、いのちが終わってから、常に自利利他の菩薩の行を修め、仏道をなし遂げて仏になることが出来るでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。  

【37】人天致敬(にんてんちきょう)の願   
     たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作 礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬ひを致さずといふことなけん。もししからずは、正覚を取らじ。
 ・私が仏になるとき、あらゆる世界の人々が我が名を聞いて、五体を地になげうつ最高の作法で恭しく礼拝し、よろこび信じて菩薩の行を修すならば、天人たちはこれを敬い慕うことでしょう。もしそうでなければ、私はさとりを開きません。  

【38】衣服随念(えふくずいねん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。 もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が衣服が欲しいと思ったら、それが直ちに現れ、仏の意にかなった尊い衣服が自然と身につけられるでしょう。それが、裁ったり縫ったり、染めたり、洗ったりしなければならないようならば、私はさとりを開きません。  
【39】受楽無染(じゅらくむぜん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、国中の人々や天人が受ける楽しみが、煩悩の全くなくなった聖者のようにならなければ、私はさとりを開きません。  

【40】見諸仏土の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はん。時に応じて願のごとく、宝 樹のなかにして、みなことごとく照見せんこと、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししから ずは、正覚を取らじ。  
 ・私が仏になるとき、国中の菩薩が、意のおもむくままに十方の数限りない清らかなる浄土を見たいと思うなら、いつでも願いに応じて、磨き上げられた鏡に顔が映し出されるように、宝樹の中にそれを見ることができるでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。  

【41】諸根具足の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋して具足せずは、 正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、仏のさとりを得るまで、体が完全で不自由でないようできないなら、私はさとりを開きません。  

【42】住定供仏(じゅうじょうぐぶつ)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧 に住して、ひとたび意を 発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて定意を失せじ。もししからずは、正覚を取ら じ。   
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、みなことごとく煩悩のけがれと束縛とを離れた清らかな三昧の境地をえることでしょう。この三昧にはいると、思いが発れば直ちに無数の諸仏を供養することが出来、その禅定の心を少しも乱すことがないでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。  

【43】生尊貴家(しょうそんきけ)の願 
    たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからず は、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、いのちがおわってから尊い家に生まれられるでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。 

【44】具足徳本の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。も ししからずは、正覚を取らじ。    
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、よろこびいさんで菩薩の行を励み、いろいろな功徳を身につけることが出来るでしょう。もしそうでないならば、私はさとりを開きません。  

【45】住定見仏(じゅうじょうけんぶつ)の願
      たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得せん。この三昧に住 して成仏に至るまで、つねに無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もししからずは、正覚を取らじ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、みなことごとく普等三昧の境地を得るでしょう。この三昧にはいって仏になるまで、常に一切の諸仏たちを見ることができるでしょう。もしそうすることが出来ないならば、私はさとりを開きません。  

【46】随意聞法の願
     たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲はんところの法、自然に聞くことを得ん。もししか らずは、正覚を取らじ。   
 ・私が仏になるとき、国土の菩薩達は、その希望にしたがい、聞きたいと思う法を自然に聞くことが出来るでしょう。もしそうでないなら、私はさとりを開きません。  

【47】得不退転の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取ら じ。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、直ちに不退の位にいたることができないならば、私はさとりを開きません。  

【48】得三法忍(とくさんぽうにん)の願
     たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、 もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。〉」と。     
 ・私が仏になるとき、他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、直ちに第一、第二、第三法忍と位にいたることが出来ず、諸仏の法をえたうえに、不退転の身になることが出来ないならば、私はさとりを開きません。  

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