弁 才 天(C)2004 RayLand 

                           おん そらそばてい えい そわか

 弁才天(弁財天)は、仏神の1つで、大黒天や毘沙門天と同様、もともとは、インドのヒンドゥー教の神様です。
川の神サラスヴァティ(Sarasvati)(漢字で薩羅薩伐底)です。サラスは水の意味、バティーは持つもの(富むも
の)の意味です。インド5大河地域の河川の神格化したもので、一説にはインダス川の神格化とも言われてい
ます。また川のみならず河や池・湖などを含めて水を神格化したものともいわれたりもします。

 インドではサラスヴァティは言葉の女神ヴァーチュと同一視されており、妙音天・妙音楽天・美音天とも訳され、
大弁才天・大弁才功徳天・大弁才天女などとも称えられます。略して、弁天・弁天様ともいい、俗に弁才天(弁財天)という名称で親しまれています。

川の神でもある弁才天は、言葉や音楽の神とされた事(すなわちヴァーチュと同一視)が知られております。
さらには、言葉や音楽という限定された範疇の神から進んで、意味を広げ、学問や技芸の神様と信仰する
ようになったようです。

 この仏神は、人に対して、無碍(むげ)弁財を授け福知与え、延寿及び財宝を与えるように図り、
また天災地変を除滅し、かつ戦傷をもたらす天部の仏の神として崇拝された女神で、古くから
貴賎を問わず信仰されてきました。


[功徳]

 この神は、人の穢(けが)れを払い、富貴・名誉・福寿・食物と勇気、愛嬌縁結びの徳、それに子孫を恵む神
であるといわれ、一方、学問と技芸(音楽など)の神、雄弁と知恵の保護神であるともわれ、結構尽くめで非常
に有り難い神として信仰されてきました。
 また、『金光明最勝王経』(金剛明経のうち、唐の義浄漢訳のもの)の第七、大弁才天女品には
「我まさにその智恵を益し、言説弁を具足し、荘厳せしめべし」などと説かれ智恵の神様ともなりました。
また水というものは、豊饒をもたらすことから、その初めから農業神として崇拝を受けてきましたが、
豊饒は、富と結びつき、財運・財宝の神様ともなったようです なお、弁才天という名称は「弁舌の才能を
与える天部の神」という言葉の略称であります。


[お姿]

 この弁才天の御手は、8臂(8本の腕)のもの(金剛明経で説くところの弁才天)と、
2臂のもの(天台宗、真言宗で説くところの弁才天)とが(多くは半跏の座像)あります。

最初に、日本に入ってきたのは、金剛明経によるので、8臂でした。『金光明最勝王経』を
典拠とする8臂像は、弓・刀・斧・羂索・箭・三鈷戟・独鈷杵・輪をもつ姿です。
宇賀弁天の場合も、8臂ですが頭上に白蛇または老人(宇賀神)の顔を載せさらに鳥居を付すものもある。

 鎌倉時代になると、2臂で琵琶を弾く美貌とあでやかな姿の女神像が一般化したようです。
インドの弁才天は、白鳥あるいは孔雀をしたがえているようですが、日本では、弁天様の眷属は蛇です。


[歴史]

 わが国の弁才天信仰は、奈良時代に始まり、唐からもたらされた『金光明最勝王経』には仏教の護法神の
一つとして説かれます。しかし、最初の頃はそれほど人気がありませんでした。女神といえば、吉祥天が代表
だったのです。平安時代に、密教系の真言宗、天台宗によって、本来の「楽器を持った水の女神」という姿が
伝えられ、徐々に情勢が変化したのです。そして鎌倉時代に宇賀神信仰を吸収し、同様に吉祥天信仰、
宗像三女神、竜蛇信仰を次々吸収していきました。

 弁才天は、室町時代以降は、もっぱら福徳財宝を掌る神としての崇拝に始終し、名前も、鎌倉時代の頃から、
「才」が「財」に変化し、弁財天の方が普通の漢字になってしまうほどでした。七福神の1人に数えられ、さらに
民衆の信仰を集めるようになりました。そして、最高の美人としての信仰も起き、いつしか日本で最高に人気の
ある女神となりました。

 一方、弁才天は、観世音菩薩または愛染明王の権化、あるいは童女、または如意輪観音の示現(じげん)で
あると考える信仰もあったようです。民間信仰としては、先に述べた宇賀神・弁才天を夫婦神とする信仰の他に、
童女あるいは宇賀神そのものの化身とする信仰もあります。

 今日でも弁才天を祀る社寺・祠(ほこら)の多くが、河川・池・湖・用水・海浜・など水辺に位置しますが、
これは弁才天本来の河神的性格を受けついだものです。湾内の小さな島とか、瀬戸の中央にある島、
川の中の中州などにはしばしば弁天が祭られ、海の守り神として人々に信仰されていました。
そしてそういう島自体が弁天島と呼ばれているところも多くあります。

■七福神