梵網経 解説篇

 菩薩戒(ぼさつかい)とは、大乗仏教における菩薩に与えられる戒律である。

総称として「三聚浄戒」と名づけられるが、2種類の説がある。梵網系統の説では、授戒の作法は鳩摩羅什訳の『梵網経』によっており、その具体的な内容は、『梵網経』所説の「十重四十八軽戒」である。これは、「三聚浄戒」中の「摂律儀戒」である。また、『梵網経』の「菩薩心地戒品」第十は上下2巻として訳出されたが、その下巻の偈頌以後の所説を別録とした。天台は、『菩薩戒経』と名づけ、弟子の灌頂が義疏2巻を撰した。



http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/sila/jujukinkai.htm 参考にさせていただきました。

『梵網経』では、この「十重禁戒」と「四十八軽戒(しじゅうはちきょうかい)」という、58の戒めが説かれています。。

十重禁戒とは、以下の内容のものです。

十善戒
一.殺戒…いかなる生き物でも、これを故意に殺傷してはならない。
二.盗戒…一銭・一草であっても与えられていない物を盗んではならない。
三.婬戒…いかなる性行為・性交渉であっても行ってはならない。
四.妄語戒…未だ達していない聖者の境地に達した、と虚言してはならない。
五.こ酒戒…酒をこ(う)ってはならない(販売してはならない)。(「こ」は、酉に古)
六.説過戒…仏弟子同士の罪過をあげつらってはならない。
七.自讃毀他戒…自身の徳を賞讃して、他者を謗(そし)ってはならない。
八.故慳戒…財施・法施に限らず、いかなる物でも物惜しみしてはならない。
九.故瞋戒…殊更に怒りを起こし、それを悔いないことがあってはならない。
十.謗三宝戒…如何なる場合でも、三宝を謗ってはならない。

ここに挙げた戒の名は、中国の華厳宗第三祖たる賢首大師法蔵(ほうぞう)による梵網戒の注釈書、『梵網経菩薩戒本疏』によっています。他に著名な注釈書に、中国天台宗第三祖たる天台大師智(ちぎ)の『菩薩戒経義疏』があり、そこでは第六重戒が「説四衆説過戒」、第八重戒が「慳惜加毀戒」、第九重戒が「瞋心不受悔戒」と名づけられているなど、若干の異なりがあります。

また、第三重戒の「淫戒」は、出家者の場合と在家信者の場合で、その内容が異なります。出家者の場合は上に説明したとおりですが、在家信者の場合は「邪淫戒…不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。」で、五戒や十善戒と同様のものとなります。

菩薩波羅夷罪
この十重禁戒は、一般的な意味での戒とは異なり、これを破ることは菩薩として許されない重大な罪、「菩薩波羅夷罪(ぼさつはらいざい)」である、と『梵網経』では強く断罪されています。波羅夷とは、サンスクリットまたはパーリ語「パーラージカ」の音写語で、「不応悔罪(ふおうけざい)」あるいは「断頭罪(だんとうざい)」との漢訳語があります。これを現代語にすると「懺悔しても許されない罪」あるいは「死罪」となりますが、これらは「律の用語」です。律蔵において、波羅夷罪とは、「性交渉・殺人・盗難・宗教的虚言」の四つに限られるものであり、これらの内いずれか一つでも、仏教の正式な出家者である比丘が犯せば、その者はただちに僧侶としての資格を失い、僧団から追放に処せられ、二度と比丘になることは出来なくなります。ゆえに「懺悔しても許されない罪」あるいは「(僧侶としての)死罪」なのです。しかし、『梵網経』では、この波羅夷罪に十項目を挙げ、それを犯すことは「菩薩の波羅夷罪」であると説いています。では、律と同様に、これらの戒を破ることを、「懺悔しても許されない罪」あるいは「(菩薩としての)死罪」としているかというと、これが違います。『梵網経』では、これらの罪は、礼拝や読経などを繰り返すことによる懺悔を行い、その期間に何事か吉祥なる現象に、これを「好相」というのですが、遭遇したならば許されるとしているのです。


2.四十八軽戒とは。『梵網経』が説く戒には、十重戒の他に「四十八軽戒」があります。

これは、かなり具体的な行為についての戒です。普通、戒は「〜してはならない」というものですが、軽戒では「〜しなければならない」とい規定があります。この点も、梵網戒が一般的な意味での戒とは異なる点です。

       
01.軽慢師長戒
02.飲酒戒
03.食肉戒
04.食五辛戒
05.不挙教懺戒
06.不敬請法戒
07.不聴経律戒
08.背正向邪戒
09.不瞻病苦戒
10.畜諸殺具戒
11.通国入軍戒
12.傷慈販売戒 
13.無根謗人戒
14.放火損焼戒
15.法化違宗戒
16.惜法規利戒
17.依官強乞戒
18.無知為師戒
19.闘謗欺賢戒
20.不能救生戒
21.無慈酬怨戒
22.慢人軽法戒
23.軽新求学戒
24.背大向小戒 
25.為主失儀戒
26.待賓乖式戒
27.受別請戒
28.故別請僧戒
29.悪伎損生戒
30.違禁行非戒
31.見厄不救戒
32.畜作非法戒
33.観聴作悪戒
34.賢持守心戒
35.不発大願戒
36.不起十願戒 
37.故入難処戒
38.衆坐乖儀戒
39.応講不講戒
40.受戒非儀戒
41.無徳詐師戒
42.非処説戒戒
43.故毀禁戒戒
44.不敬経律戒
45.不化衆生戒
46.説法乖儀戒
47.非法立制戒
48.自壊内法戒 

  


http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-daijo/daijo-kaijo.htm

大乗仏教の持戒

現代、日本、世界に種々の問題が起きている。自分の感情、好き嫌い、利益のみを優先して、他者の感情、好き嫌い、利益を尊重せず、寛容ではない。 人は他者との関係の中で生きているのだから、他者を尊重しようというのが「戒」である。これを実践しないから、心の病気やいじめ、虐待、差別、非行・犯罪などが起きる。「戒など時代錯誤」というのが、悪しき先入見、偏見である。今一度、真摯に仏教に学ぶべきであろう。
大乗仏教の修行は持戒と禅定を重視大乗仏教の経典では、縁起の理解、思惟は浅い段階に位置づけている(1)。

行を重視した唯識説は、学問として「縁起思想」「因果」の理解のみにとどまる者を批判する。そのうち、「因果は仮説」という説明がある。
「此の正理は、深妙にして言を離れたり。因果等の言は、皆仮に施設せり。」(2)

 唯識説は、三性説で迷いと悟りを説明するが、円成実性を論理で理解しても、悟りではない。真見道という自内證の経験をいうからである。三性説の「依他起性」を理解して、わかったつもりでいると、違うのであって、依他起性も「言語によって表現される以上、なお仮説であることも了解されていなければならない」(3)

と三性説も仮説であり、理解にとどまるのを否定する。

 縁起説の教説の思惟が仏教であるという文字に執着し、自らの修行も、他者の救いもしない学問仏教を批判するのが、大乗経典である。大乗仏教の修行は六波羅蜜であり、禅定が含まれている。

(註)
(1) 華厳経では、縁起観を第六地で修行する(大正、十巻、一九四a,b。一九五a)。不退転菩薩になる無生法忍は第七地の終わりである(同上、一九九a)。従って、縁起説の理解は浅い段階にある。
(2) 「成唯識論」54頁。大正、31巻。
(3) 竹村牧男「唯識三性説の研究」春秋社、平成7年、348頁。


大乗仏教の戒

 大乗仏教の修行は六波羅蜜であるが、持戒も含まれている。これも重要な実践である。仏教は単なる思想、学問と異なり、実践する宗教である。
 大乗仏教の菩薩の戒は、一般に三種あり、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)という。摂律儀戒(しょうりつぎかい)、摂善法戒(しょうぜんぽうかい)、饒益有情戒(にょうやくうじょうかい)である。止悪(悪をなさないこと)、修善(善行をなすこと)、利他(人々の利益になるべく働くこと)である。

(1)摂律儀戒
 摂律儀戒とは、五戒とか十戒、二百五十戒等である。十戒は、次の「十重禁戒」、または、これと類似の十である。五戒は、十戒のうちの五つで、在家の戒である。悪を犯さないという内容である。
 「『瑜迦論』の三聚浄戒は有名であるが、その内容は次のごとくである。第一に「律儀戒とは、謂わく、菩薩の受くる所の七衆の別解脱律儀なり」とあり、別解脱戒を摂律儀戒の内容としている。すなわち在家の菩薩であれば、声聞乗の優婆塞と同様に五戒を受け、これを摂律儀戒の内容とするのである。律儀とは、非を防ぎ悪をとどめる意味であるが、五戒とか十戒、二百五十戒等の規則が明示されていないと、いかなる悪を離れるのかが明らかでない。」(1)

 「なお三聚浄戒は『菩薩瓔珞本業経』にも説かれる。この経には、「今、諸菩薩のために一切戒の根本を結せん。所謂る三受門あり」として、「摂善法戒とは、所謂八万四千の法門なり。摂衆生戒とは、所謂る慈悲喜捨なり。化は一切衆生に及び、皆安楽を得しむ。律儀戒とは、所謂る十波羅夷なり」と述べている。ここには三聚浄戒の順序は異なるが、ともかく摂律儀戒は「十波羅夷」であると説いている。この「十波羅夷」は『梵網経』の「十重四十八軽戒」の「十重」にあたるものであり、すなわちそれは『正法眼蔵』の十六条戒中の「十重禁戒」と同じものである。」(2)
(註)
(1)平川彰「日本仏教と中国仏教」(平川彰著作集第8巻)春秋社、1991年、483頁。
(2)同上、484頁。


十重禁戒

 摂律儀戒は、十重禁戒をあてるものがあるが、その十は、次のとおりである。
(1)不殺生(生命あるものを殺さない)
(2)不偸盗(盗みをしない、与えられたのではないものは、とらない)
(3)不淫欲(男女関係のみだらな関係をつくらない)
(4)不妄語(いつわりを語らない)
(5)不こ酒(「こ」は酉へんに古)(酒類を飲まない)
(6)不説在家出家菩薩罪過(人の罪や過ちを語らない)
(7)不自讃毀他戒(自分をほめたり、他人をけなしたりしない)
(8)不慳法財(法財を施すのをおしまない)
(9)不瞋恚(怒らない)
(10)不謗三宝(仏法僧をそしらない)

 これは、『梵網経』『瓔珞経』などにあげられている。道元の十六条戒のうちの十戒と同じである(1)。
 「次に十六条戒では十重禁戒を挙げている。(中略)
この十戒は、『梵網経』の「十波羅夷」、『瓔珞経』の「十無尽戒」と内容は同じである。ただし条文の文句は同じでない。」(2)
 「中国で一般に「菩薩戒」という場合には、『梵網経』の十重四十八軽戒を指すのである。」(3)
 「『瑜迦論』すなわち『菩薩地持経』の戒本(地持戒)は「通三乗」にもとづく戒であるために、一乗仏教が主流であった中国仏教では歓迎されなかった。そして『梵網経』や『瓔珞経』のもとづく菩薩戒が珍重されたのである。」(4)
 大乗の菩薩戒は、在家出家共通である。
 「しかるに『梵網経』の戒は在家出家の区別を立てない戒である。」(5)
 「このように『梵網戒』は在家出家共通の戒であるから、その「十重」の第三「不淫欲戒」は不邪淫戒と解釈しなければならない。在家人が受けるとすれば不淫を誓うことはできないからである。しかしその戒文に「不邪淫」(不正な男女の性関係を禁ずる)たることが明言されているのではない。」(6)


(注)
(1)道元禅師は、摂律儀戒の外に、十重禁戒を出している。十戒は同じであるが、摂律儀戒の外に、十重禁戒があるとする点は異なる。平川彰「日本仏教と中国仏教」春秋社、485頁。ただし『梵網経』『瓔珞経』とも「支那撰述」の経典とみられている(486頁)。
(2)平川彰「日本仏教と中国仏教」(平川彰著作集第8巻)春秋社、1991年、485頁。
(3)同上、491頁。
(4)同上、491頁。
(5)同上、492頁。
(6)同上、492頁。

(2)摂善法戒
 摂善法戒は、善を行うという積極的な内容である。
 「次に摂善法戒について、『瓔珞経』は上述のごとく「八万四千の法門」と示している。『瑜迦論』では、律儀戒を受けた後で「所有る一切の大菩提のために諸善を積聚するを謂う」と説明し、具体的に善行を示している。」(1)
(注)
(1)平川彰「日本仏教と中国仏教」(平川彰著作集第8巻)春秋社、1991年、485頁。


(3)摂衆生戒
 饒益有情戒は、摂衆生戒ともいう。
 『菩薩瓔珞本業経』は、「摂衆生戒とは、所謂る慈悲喜捨なり。化は一切衆生に及び、皆安楽を得しむ。」というように、「四無量心」を挙げている(1)。
 「『瑜迦論』では饒益有情のための「十一種の相」であると説明している。」(2)
 摂衆生戒は、「四無量心」である。次の記事に説明している。苦悩する衆生を救済することである。
四無量心(慈・悲・喜・捨)
(注)
(1)(1)平川彰「日本仏教と中国仏教」(平川彰著作集第8巻)春秋社、1991年、485頁。
(2)同上、485頁。


大乗の「戒」の意義

 この三聚浄戒(さんじゅじょうかい)は、実践的には、仏教のすべてを表現しているということができる。摂律儀戒を実行すれば、自分や他者を苦悩させることを止めるのであるから、煩悩の捨棄である。摂善法戒を実行すれば、苦を捨てて楽を得る善を行うのである。そのように、悪を止め、善を行うと、人々の苦悩を解決する実践を会得することになるから、苦悩する衆生を救済することができる。その救済行を実際に行うことが饒益有情戒の実行である。止悪(悪をなさないこと)、修善(善行をなすこと)、利他(人々の利益になるべく働くこと)であるから、仏教のすべてである。その実現のためには、坐禅を主とする実践が行われる。坐禅のような実践(六波羅蜜)がないと、これらの三戒は十分には実現できないからである。実際、現代の仏教研究者のほとんどすべて、戒、そのうちに含まれる「摂衆生戒」を実践していない。
 たとえば、坐禅や慈悲を否定したくなる自分の心理が、自分の感情、好き嫌いという基準による見取見ではないのかという深い反省し、しばらく、その見解を棚上げして、自分の感情、好き嫌いがどう変化していくかを洞察するのである。そうすると、坐禅や禅僧を否定、攻撃しなくても、自分の心が安楽になることを知る。そうすると、坐禅や僧侶を否定、攻撃したいと思った心理は何だったのか判明してくる。こうした営みが坐禅である。坐禅は、自分中心の思想・観念(心理療法で「認知のゆがみ」といわれる)などから起きる怒り、不安、抑うつ、嫌悪、焦燥、不満などの感情や、そこから起きる自己否定、他者障害、依存行為への衝動などを抑制、修正するのに実践的効果を発揮する。学者が自分の感情、好き嫌い、利益を優先して、戒や坐禅を否定してはならない。