仏説 『父母恩重経』 (ぶもおんじゅうきょう) 対訳


 仏説 『父母恩重経』 (ぶもおんじゅうきょう)原文
 仏説 『父母恩重経』 意訳
是の如く 我れ聞けり。

或る時、佛、王舎城の耆闍崛山中に、菩薩・声聞の衆と 倶に ましましければ、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・一切諸天の人民・および竜鬼神等、法を聞かんとて、来たり集まり、
一心に宝座を囲繞して、瞬きもせで尊顔を仰ぎ見たりき。
 次のように、わたしは教えを聞きました。

あるとき、仏さまは王舎城のグリッドゥラクター山中で、ぼさつや声聞とよばれる仏弟子たちといっしょにおられました。男女の出家修行者、男女の在家信者、あらゆる神々、人々、竜や鬼神に至るまで一切の者が仏さまのお話を拝聴しようとしてやってまいりました。
そして一心に仏様をとりかこんで、またたきもしないで、尊いお顔を仰いでおりました。
 
是のとき、佛、すなわち法を説いて宣わく。
一切の善男子・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。
そのゆえは、人の此の世に生まるるは、宿業を因として、父母を縁とせり。
父にあらされば生れず、母にあらざれば育てられず。
ここを以て、気を父の胤(たね)に稟(う)けて、形を母の胎に托す
 そのとき、仏さまは、教えを説いておっしゃいます。

すべての善男子・善女人たちよ、父には慈しみの恩あり、母には悲(あわ)れみの恩がある。
だから、人がこの世に生まれるのは、前世の業を原因として、父と母の縁によるのである。
父がいなければ自分は生まれていないし、母がいなければ育っていなかった。気を父の種にうけ、肉体を母の胎内にあずけるのである。
此の因縁を以っての故に、悲母の子を念(おも)うこと、世間に比いあることなく、その恩、未形(みぎょう)に及べり。
始め胎を受けしより十月を経るの間、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)ともに、もろもろの苦悩を受く。
苦悩休む時なきが故に、常に好める飲食・衣服を得るも、愛欲の念を生ぜず、唯一心に安く生産せんことを思う。
 この因縁をもつゆえに、悲母の子を思う心は世間に比べるものはなく、その恩は未だこの世に生まれる前から及んでいるのである。
生の初めに、胎内で生まれてから10ヶ月の間に、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)すべての苦悩を受け継ぐ。
その苦悩は止まる時がないので、いつも自分の好きな食べ物や衣服を与えられても、未だわが子を愛する気持ちも湧かず、ただ心安らかに生むことを思うだけである。
月満ち、日足りて、生産の時至れば、業風(ごうぷう)吹きて、之れを促し、骨節ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、其の苦しみ耐えがたし、
父も心身戦(おのの)き懼(おそ)れて、母と子とを憂念(ゆうねん)し、諸親眷属(しょしんけんぞく)皆な悉く苦悩す。
既に生まれて、草上に墜つれば、父母の喜び限りなきこと、
猶(な)お貧女の如意珠を得たるがごとし。
その子、聲(こえ)を発すれば、母も初めて此の世に生まれ出でたるが如し。
 やがて月日が満ちて、出産のときが来れば、痛み苦しみが吹き荒れて、その出産をうながし、節々が痛み、脂汗をながし、その苦しみは耐えがたい。
父親も身も心も恐れおののき、その母親と子供を心配し、親戚一同すべての人々が、心痛める。
やっとこの世に生まれ出たら、その父母の喜びは限りなく、まるで恵まれない者が、仏の如意珠を手に入れたようである。
その子供が、泣き声を出せば、母親もやっとこの世に生まれたことを知るだろう。
爾(それより)來(このかた)、母の懐(ふところ)を寝處(ねどころ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情を生命となす。
飢えたるとき、食を需(もと)むるに、母にあらざれば哺(くら)わず、渇けるとき、飲料を索むるに、母にあらざれば咽まず、
寒きとき、服(きもの)を加うるに、母にあらざれば着ず、暑きとき、衣を撒るに、母にあらざれば脱がず。
母、飢に中(あた)る時も、哺(ふく)めるを吐きて子に啗(くら)わしめ、母寒きに苦しむ時も、着たるを脱ぎて、子に被らす。
 生まれてこのかた、母の胸を寝床とし、母のひざを遊び場にして、母の乳を食べ物とし、母の愛情をいのちとする。
飢えたときは、食べ物を探すが、母親でなければ食べないし、のどが渇いても母親でなければ飲まない。寒いとき、服をきるのも母でなければ着ない。暑いときも、母でないと脱がない。
母というものは、飢饉のときも、口に入れても吐き出して子供に与え、寒く苦しいときも、その着ている服を脱いで、子供にかけてやる。
母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。
その闌車(らんしゃ)を離るるに及べば、十指の甲(つめ)の中に、子の不浄を食らう。
計るに人々、母の乳を飲むこと、一百八十斛となす。

父母の恩重きこと、天のきわまり無きが如し。
 母でなければ養育できない。その乳母車から成長するまでに、母の10本の指のつめに残る、わが子の便や尿もまた、母は口にする。
それまでに、人の母の父を飲む量は、180石のも及ぶ。

父母の恩が重く尊いことは、天が終わりがないように広大である。
母、東西の隣里に傭われて、或いは水汲み、或いは火燒(た)き、或いは碓つき、或いは磨(うす)挽き、種々の事に服従して、家に還(かえ)るの時、未だ至らざるに、今や吾が兒(こ)、吾が家に啼(な)き哭(さけ)びて、吾を戀(こ)い慕わんと思い起せば、胸悸(さわ)ぎ、心驚き、両乳(りょうにゅう)流れ出でて、忍び堪ゆること能わず、乃ち去りて家に還る。  母は、東西の隣村に雇われて、水汲みや火炊き、臼撞きや臼引きなどさまざまに従事して、家に帰るときに、まだ家に着く前に、子供が母がいないので泣き叫び、私を恋しく思っていると考えるだけで、胸騒ぎがして、乳が流れ出て、辛抱できなくて、急いで家に帰る。
兒(こ)遙に母の歸(かえ)るを見て、闌車(らんしゃ)の中に在れば、即ち、頭動かし、脳(なづき)を弄(ろう)し、外に在れば、即ち葡匐(はらばい)して出で來(きた)り、嗚呼(そらなき)して母に向う。
母は子のために足を早め、身を曲げ、長く両手を舒(の)べて、塵土(ちりつち)を払い、
吾が口を子の口に接けつつ、乳を出(い)だして之れを飲ましむ。
是のとき母は児を見て歓び、兒は母を見て喜ぶ。
両情一致、恩愛の洽(あまね)きこと、復た此れに過ぐるものなし。
 子供は、遠くに母が帰ってきたことを見て、乳母車にいるときは、頭を動かし、首を振って、外にいれば、腹ばいして出てきたり、うめいて母の方に向かってくる。
母は、子供のために早足になり、身をかがめて両手を伸ばし、ほこりをはらって、口をつけて、乳を出して飲ませる。
そのとき、母は子を見て喜び、子供は母をみて喜ぶ。
互いに情を交わし、恩愛が満たされていることは、これ以上はない。
二歳、懐(ふところ)を離れて始めて行く。
父に非(あら)ざれば、火の身を焼く事を知らず。
母に非ざれば、刀の指を堕す事を知らず。
 2歳、やっとだっこから離れて、一人で歩く。
その父でなければ、火が身を焼く怖いものだと知らない。
母でなければ、刀が指を落とすほどの怖いものだとは知らない。
三歳、乳を離れて始めて食う。
父に非ざれば、毒の命を殞(おと)す事を知らず。
母に非ざれば、薬の病を救う事を知らず。
父母外に出でて他の座席に往き、美味、珍羞を得ることあれば、自ら之を喫うに忍びず、懐に収めて持ち帰り、喚び来りて子に与う。
十たび還れば九たびまで得。
得れば即ち常に歓喜して、かつ笑いかつくらう。
もし過まりて一たび得ざれば、則ち矯(いつ)わり啼き、佯り哭びて、父を責め母に逼まる。
 3歳。乳でなく、初めて食事をする。
父の教えでなければ、毒によって命を落とす危険を知らない。
母の教えでなければ、薬で命を救うこともしらない。
両親が外出して、よその宴会などでおいしいものや珍味を手に入れることがあったら、懐に入れて持って帰り、子供に与える。
10回のうち、9回はそうする。
子供は、与えられると歓喜して、また笑って、おいしく食べる。
もしも行き違って、食べ物を与えなければ、すぐにうそ泣きして、わめいてその父母を攻める。
稍や成長して朋友と相交わるに至れば、父は衣を索め帯を需め、
母は髪に梳り、髻を摩で、己が美好の衣服は皆な子に与えて着せしめ、己は則ち古き衣、弊れたる服を纏う。
既に婦妻を索めて、他の女子を娶(めと)れば、父母をば転(うた)た疎遠して、夫婦は特に親近し、私房の中に於て妻と共に語らい楽しむ。
 やがて、成長して友人と交際するようになると、父はきちんとした身なりをさせ、母は髪をとき、髷を結い、自分の好きな服はすべて子供に与え、自分たちは、古いくたびれた服をまとう。
そして、恋愛して、妻をめとれば、父母をすぐに疎遠にして、夫婦だけで共に語らい楽しむようになる。
父母年高けて、気老い力衰えぬれば、倚る所の者は唯だ子のみ、頼む所の者は唯だ嫁のみ。
然るに夫婦共に朝より暮に至るまで、未だ肯えて一たびも来り問わず。
或は父は母を先立て、母は父を先立てて、獨(ひと)り空房を守り居るは、猶お孤客の旅寓に寄泊するが如く、
常に恩愛の情なく、復た談笑の娯(たのし)み無し。
夜半、被(ふすま)冷にして五体安んぜず。
況んや襖に蚤虱多くして、暁に至るまで眠られざるをや、
幾度か輾転反側して獨言すらく、噫吾れ何の宿罪ありてか、斯かる不幸の子を有(も)てるかと。
 父母が高齢になり、気力も身体も衰えると、頼るところはただ自分の子供だけで、世話を頼めるのは嫁だけである。
しかし、子供夫婦は朝から晩まで、一度も親のところに尋ねて来ない。
親夫婦のどちらかが先立ってしまうと、ひとりでさみしく暮らし、まるで、一人客が旅館で泊まっているようで、全く恩愛もなく、また談笑する楽しみもない。寝るときも、布団は冷たく、体が休まらない。ましてや、布団に蚤やしらみが多くて、明け方まで眠れない。何度も寝返りを打って、独り言で「私に何の罪とががあって、このような不幸な子供を持ったのでしょうか。」と。
事ありて、子を呼べば、目を瞋(いか)らして怒り罵る。
婦(よめ)も兒(こ)も之を見て、共に罵り共に辱しめば、頭を垂れて笑いを含む。
婦も亦不幸、兒も亦た不順。
夫婦和合して五逆罪を造る。

或は復た、急に事を辧(べん)ずることありて、疾く呼びて命ぜむとすれば、
十たび喚びても九たび違い、遂に来りて給仕せず、
却りて怒り罵りて云く、「老い耄れて世に残るよりは、早く死なんには如かずと。」
 なにかあって子供を呼ぶと、こどもはまなじりをあげて怒ってののしる。嫁も孫もそれを見て、一緒になってののしり辱め、下を向いて笑ってる。
嫁もまた不幸、孫もまた不憫である。夫婦一緒になって、大きな罪をなす。あるいはまた、急に言わねばならないことがあって、すぐに呼んで命じようとすると、10回呼んでも9回来ない。やっと来ても、食事の世話もしてくれなくて、逆に怒ってののしって、「こんな年寄るまで死ななくて、早く死ねばいいのに。」と言う。
 父母これを聞いて、怨念胸に塞がり、涕涙瞼を衝きて、目瞑み、心惑い、悲み叫びて云く、
「噫(あぁ)汝幼少の時、吾に非ざれば養われざりき、吾に非ざれば育てられざりき、
而して今に至れば即ち却って是くの如し。
噫吾れ汝を生みしは、本より無きに如かざりけり。」と。

若し子あり、父母をして是くの如き言(ことば)を発せしむれば、子は即ちその言と共に堕ちて、地獄、餓鬼、畜生の中にあり。
一切の如来、金剛天、五通仙も、これを救い護ること能わず。

父母の恩重きこと、天の極まり無きが如し。

 親は、これを聞いて、辛い気持ちで胸はふさがり、涙がたまらず、眼がくらみ、心がまどい、悲しくて叫んで言う。「ああ、お前が小さいとき、私でなければ誰が養ったのか。誰が、育てたのか。なのに、今ここにいたってみれば、このざまだ。ああ、わたしは、お前を生んだのが間違いか。生まなければよかった。」と。
もしも、子供がいて、両親にこのような発言をさせるようなことがあったなら、その子供は、その言葉と共に、堕ちて、地獄道・餓鬼道・畜生道にいる。すべての如来、金剛天、五通仙も救うことができない。

これらの父母の恩の重いことは、天に極まりがないようなものである。
 善男子、善女人よ、別けて之を説けば、父母に十種の恩徳あり。何をか十種となす。


 一には 懐胎守護(かいたいしゅご) の恩

 二には 臨生受苦(りんさんじゅく) の恩

 三には 生子忘憂(しょうしぼうゆう) の恩

 四には 乳哺養育(にゅうほよういく) の恩

 五には 廻乾就湿(かいかんじゅしつ) の恩

 六には 洗灌不浄(せんかんふじょう) の恩

 七には 嚥苦吐甘(えんくとかん) の恩

 八には 為造悪業(いぞうあくごう) の恩

 九には 遠行憶念(おんぎょうおくねん) の恩

 十には 究竟憐愍(くきょうれんみん) の恩



父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。


集まっているみなさん、わけて説明するなら、以下の十種の恩徳があるのである。なにを十種とするか。


@懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
A臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
B生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩
C乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
D廻乾就湿(かいかんじつしつ)の恩
E洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩
F嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
G為造悪業(いぞうあくごう)の恩
H遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
I究竟憐愍(くつきょうれんみん)の恩

これらの父母の恩の重いことは、天に極まりがないようなものである。

善男子、善女人よ、是くの如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。
佛、すなわち偈(げ)を以て讃して宣わく、

悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、身、重病を感ず、子の身体之に由りて成就す。


月満ち時到れば、業風催促して、偏身痘痛し、骨節解体して、神心悩乱し、忽然として身を亡ぼす。


若し夫れ平安になれば、猶お蘇生し来るが如く、子の声を発するを聞けば、己れも生れ出でたるが如し。


其の初めて生みし時には、母の顔、花の如くなりしに、子の養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す。


水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁にも、乾ける処に子を廻わし、湿し処に己れ臥す。


子己が懐に屎まし、或は其の衣に尿(いばり)するも、手自ら洗い濯ぎて、臭穢を厭うこと無し。


食味を口に含みて、これを子に哺むるにあたりては、苦き物は自から嚥み、甘き物は吐きて与う。


若し夫れ子のために、止むを得ざる事あれば、躬ずから悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず。


若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之を憶い、寝ても寤めても之を憂う。


己れ生ある間は、子の身に代らんことを念い、己れ死に去りて後には、子の身を護らんことを願う。


父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。
集まっているみなさん、このような父母の恩徳にどのようにして報いればいいのか。
仏は、偈(げ)をもって、たたえておっしゃいました。

@始めて子を体内に受けて、おなかにいる10ヶ月、母の血を分けて、母の肉を栄養に、母は重病人のようになり、ただ一心に安産ができることを思うのみである。
A出産時には、陣痛による苦しみで骨節がバラけるほどの苦痛に、。身や心がおののき恐れ、突然死ぬこともある。
B出産後は、それまでの苦しみを忘れ、母は、子が声をあげて泣き出したときに、喜びに染まるのである。
C初めて子供が生まれたときには、母親の顔は花のように美しかったのに、子供を養って数年経つと、すっかり憔悴しきってしまう。

D水のようにつめたい霜降る夜も、氷のように寒い雪の朝も、乾いた所に子を寝かせ、おねしょで湿った所に自ら寝る。

E子がふところや衣服に尿するも、自らの手にて洗いすすぎ、臭穢を   いとわない。

F食事の味をまず口に含んで、子供に与えるとき、不味いものを自分で食べ、美味しいものは子に食べさせる。

G子供のためには、止むを得ず、悪事を働き道をはずしても、その報いを受けても、厭いません。

H子供が遠くへ旅立つなら、帰ってきて顔を見るまで、寝ても覚めてもわが子を心配する。

I自分が生きている間は、子供の苦しみを我が身一身に引き受けようとし、自分の死後も、あの世から子を護りたいと願う。

これらの父母の恩の重いことは、天に極まりがないようなものである。

 
是の如きの恩徳、如何にして報ゆべき。

然るに長じて人と成れば、声を抗げ気を怒らして、父の言に順わず、母の言に瞋りを含む。

既にして婦妻を娶れば、父母にそむき違うこと、恩無き人の如く、兄弟を憎み嫌うこと、怨(うらみ)ある者の如し。
妻の親族訪い来れば、堂に昇(のぼ)せて饗応し、室に入れて歓晤す。
嗚呼、噫嗟、衆生顛倒して、親しき者は却りて疎み、疎き者は却りて親しむ。

父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。

 このような深い父母の恩徳に、どのようにして報いたらいいのでしょうか。
ところが、成長しておとなになると、声をあらげて怒りをあらわし、父親の言うことに従わず、母親の言葉ににらみつける。

すでに妻をめとれば、両親にそむき逆らうこと、まるで恩がない人のようで、兄弟を憎み嫌うこと、まるで恨みがあるもののようである。
妻の親族がたまに来たら、大歓迎して、家に入れて楽しみ騒ぐ。

ああ、ああ、本末転倒して、親しいものをうとみ、疎いものを逆に親しくしてしまう。

これらの父母の恩の重いことは、天に極まりがないようなものである。
 其の時、阿難、座より起ちて、偏に右の肩を袒ぬぎ、長跪合掌して、前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して曰(もう)さく、
「世尊よ、是の如き父母の重恩を、我等出家の子は、如何にして報ゆべき。
つぶさに其の事を説示し給え。」と。

佛(ほとけ)、宣わく。
「汝等大衆よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。
出でて時新の甘果を得れば、将ち去り父母に供養せよ。

父母これを得て歓喜し、自ら食うに忍びず、先ず之を三寶に廻らし施せば、則ち菩提心を啓発せん。

父母病あらば、牀辺(しょうへん)を離れず、親しく自ら看護せよ。
一切の事、これを他人に委ぬること勿れ。

時を計り便を伺いて、懇(ねんご)ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。

親は子の勧むるを見て、強いて粥飯を喫し、子は親の喫するを見て、抂(ま)げて己が意(こころ)を強くす。

親暫く睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡(ねむり)覚むれば、医に問いて薬を進めよ。

日夜に三寶に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒えんことを願い、常に報恩の心を懐(いだ)きて、片時も忘失るること勿れ。

 そのとき、阿難が、席から立ち上がって、右の肩を脱ぎ、膝をつき合掌して、前に出て仏に申し上げます。

「仏よ、このような父母の重い恩を、われらのような出家の子は、どのようにして報いればいいのでしょうか。詳しく、教えてください。」

仏が、言いました。
「孝養を行うということは、出家在家を問わない。

もし外に出て季節にあった美味な果物などを得たならば、持ち帰って父母に差し上げるのだ。
父と母はそれを見て喜び、すぐに食べるのは忍びず、まずこれを三宝にめぐらせて感謝し、あるいは施しをするならば、すなわち無上に正しい道を求めようとする心(菩提心)がおきてくるだろう。

父と母に病があれば、その床の辺りを離れず、親しく自ら看護すべきである。すべてのことを、他人に任せてはならない。

タイミングをはかって、丁寧に食事をすすめなさい。

親は、こどもがすすめてくれるのを見て、がんばって食事をし、子供は親が食べてくれるのを、さらに親に尽くそうとする。

親は、しばらく眠ったなら、じっとその息遣いを聞き、眠ったら医者に聞いて薬を飲ませなさい。

四六時中、三宝に帰依し、親の病の癒えることを願い、常に恩に報揺る心をもって、少しの間も忘れてはならない。
」と。

 是の時、阿難また問うて云く。
「世尊よ、出家の子、能く是の如くせば、以って父母の恩に報ると為(な)すか。」

佛、宣わく。
「否。未だ以て、父母の恩に報ると為さざるなり。
親、頑にして三寶を奉ぜず、不仁にして物を残い、不義にして物を竊み、無礼にして色に荒み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽らば、子は当に極諫して、之れを啓悟せしむべし。

若し猶お闇くして未だ悟ること能わざれば、則ち為に譬(たとえ)を取り、類を引き、因果の道理を演説して、未来の苦患を拯(すく)うべし。
若し猶お頑にして未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷(ていきゅうきょき)して己が飲食を絶てよ。
親、頑闇(かたくな)なりと雖も、子の死なんことを懼るるが故に、恩愛の情に索かれて、強忍して道に向わん。

若し親志を遷(うつ)して、佛の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて淫せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、則ち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦して、婢僕忠順し、六畜蟲魚(ろくちくちゅうぎょ)まで普く恩沢を被りて、十方の諸仏、天龍鬼神、有道の君、忠良の臣より、庶民万姓に至るまで、敬愛せざるはなく、暴悪の主も、佞嬖の輔(ねいへいのほ)も、兇児妖婦(きょうじようふ)も、千邪万怪(せんじゃばんかい)も、之れを如何んともすること無けん。

是に於て父母、現には安穏に住し、後には善処に生じ、仏を見、法を聞いて、長く苦輪を脱せん、
かくの如くにして、始めて父母の恩に報るものとなすなり。」



 そのとき、阿難はまた尋ねます。
「仏よ。出家の私は、その教えをよく守ったならば、きっと父母に報いられますか。」


仏が、答えます。
ただしそれだけでは十分ではない。

もし親が頑迷であり、道理にくらく、三宝を奉じようとせず、思いやりの心がなくて人を傷つけ、不義を行って物を盗み、礼儀なくして色欲にすさみ、信用なく人をあざむき、智にくらくして酒にふけっているならば、子はまさに厳しく諌(いさ)めて、そのような行いから覚め悟らせるべきである。

もしそれでもなお、改めることが出来なければ、泣いて涙をもって自分の飲食を断て。
そうすれば、かたくなな親であっても、子が死ぬことを恐れて恩愛の情にひかされて、強く耐え忍ぶ心を起こして道に向かうだろう。


もし親が気持ちを入れかえれば、一家全員が恵みの恩を受け、十方の神仏善男善女にこの親に対して敬愛の心を持たない人はなく、どんな悪い存在もこの親をどうすることもできないだろう。


ここにおいて父と母は現世においては安らかに穏やかに過ごし、後の世には善きところに生まれ、仏を見、法を聞いて長く苦しみを巡る輪から抜け出ることが出来るだろう。
このようにして初めて父と母の恩に報ゆる者となるのである。

 佛、更に説を重ねて宣わく。

「汝等大衆能く聴けよ。
父母のために心力を盡(つく)して、有らゆる佳味、美音、妙衣(みょうえ)、車駕(しゃが)、宮室(きゅうしつ)等を供養し、
父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、若し未だ三寶を信ぜざらしめば、猶お以て不幸と為す。

如何となれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を検(ひさし)め、柔和にして辱を忍び、勉強して徳を進め、意を寂静に潜(ひそ)め、志を学問に励ます者と雖も、一たび酒食に溺るれば、悪魔忽(たちま)ち隙を伺い、妖魅(ようみ)則ち便(たより)を得て、財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)させ、怠を増させ、心を乱し、智を晦まして、行いを禽獣に等しくするに至ればなり。

大衆よ、古より今に及ぶまで、之に由りて身を亡ぼし、家を滅ぼし、君を危くし、親を辱しめざるは無し。

是の故に、子たる者は深く思い、遠く慮りて、以て孝養の軽重・緩急を知らざるべからざるなり。
凡(およ)そ是等(これら)を父母の恩に報(むくゆ)るの事となす。」と。
 仏は、さらに重ねていいます。

「みなさん、よく聞きなさい。
父母のために贅沢な暮らしを用意すれば良いわけではない。もしまだ仏、法、僧の三つの宝を信じてもらえなかったならば、なおいまだ不幸と言わねばならない。

なぜなら、思いやりの心があって施しを行い、礼儀正しく身を保ち、柔和な心で恥を忍び、努めて徳にすすみ、常に心を静かに落ち着け、学問に志を励ますものであっても、一度酒に溺れれば、心の悪魔がその隙間に忍び込み、放蕩し、姦淫し、怒り、怠け、心乱し、智を働かさず、まるで禽獣のようになってしまう。

皆のものよ。昔から今に至るまで、このように身を滅ぼし、家を滅ぼし、主君を危うくして、親を辱めないものはいない。

よって、子供であるものは深く思い、遠くおもんぱかって、父母への孝養の軽重緩急を知らなければならない。

およそこのようなことが、父母の恩に報ずることである。」と。

 是のとき、阿難、涙を払いつつ座より起ち、長跪合掌して、前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して曰(もう)さく、
「世尊よ、此の経は当(まさ)に何と名づくべき。
又如何にしてか奉持すべきか。」と。

佛、阿難に告げ給わく。
「阿難よ、此の経は父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)と名づくべし。
若し一切衆生ありて、一たび此の経を読誦(どくじゅ)せば、則ち以て乳哺の恩に報(むくゆ)るに足らん。

若し一心に此の経を持念し、又人をして之を持念せしむれば、当(まさ)に知るべし、
是の人は、能(よ)く父母の恩に報(むくゆ)ることを。



一生に有らゆる十悪、五逆、無間の重罪も、皆な消滅して、無上道を得ん。」と。

是の時、梵天・帝釈(たいしゃく)・諸天の人民、一切の集会(しゅうえ)、此の説法を聞いて、悉(ことごと)く菩提心を発(おこ)し、
五体地に投じて涕涙(ているい)、雨の如く。
進みて佛足(ぶっそく)を頂礼(ちょうらい)し、退きて各々歓喜奉行したりき。

そのとき、阿難、涙を払いながら席から立ち上がって、ひざまついて合掌し、前に進んで、仏に申し上げます。

「仏よ。この経は、まさになんと名づけたらいいでしょうか。また、どのようにして奉持すればいいでしょうか。」

仏は、阿難に告げておっしゃいます。

「阿難よ、この経は『父母恩重経』となづけるのがいいでしょう。

一度でも読誦すれば、乳哺の恩に報じたことになる。

また、もし、一心にこの経を念じつづけ、他の人にもこの経を念じさせれば、まさに、この人はよく父母の恩に報じたことになる。

一生の間につくった十悪の罪、五逆の罪、無間地獄に堕ちる重罪も全て消滅して、無上道(最高のさとりの境地)を得ることができる。」と言う。

この時、梵天帝釈天諸天、人民、ここに集まった全ての者が、この説法を聞いて、ことごとく菩提心をおこし、五体を地に投じて、涙を雨の如く流して、喜んだ。

みな、すすんで仏の足を頂き敬い、戻ってそれぞれ、歓喜しお祈りした。

 
 仏説 『父母恩重経』   仏説 『父母恩重経』 意訳