『初期仏教思想の肝要について』
 
 最初期以来、仏教の理想とするところは、乱されることのない平安を得て、解脱が達成され、寂静(ニルヴァーナ)の確保に向かうことである。三枝充悳は、『仏教入門』岩波新書において、初期仏教思想を12の項目で、分析する。また、渡辺照宏は、『仏教』岩波新書で、ブッダの生涯に従って、次の順に初期仏教の原理を説く。

成道の原理として、@12因縁(縁起)を挙げ、初転法輪においてA中道を説く。さらに、四諦・八正道を苦から解放される道であると説く。また、『ダンマパダ』において、その「道」が、「諸行無常」、「一切皆苦」、「諸法非我」とうたわれ、いわゆる「三法印」の原型とされる。その解釈と発展によって、やがて、「一切行無常」、「一切法無我」、「涅槃寂静」の三つに集約される。
 ここで、上記を参考に、初期仏教の肝要を見ていく。

 すべての宗教の原点が、「苦」からの脱却であるならば、仏教もまた例外なく、出発点としての課題であった。釈尊は、出家後6年の修業を経て、苦からの離脱(成道)を獲得し、ブッダとなった。しかし、多くの初期仏典には、「苦とはなにか」の記述はなく、「苦」は何によって生まれるかという定義から、最終的な「涅槃寂静」へと、その教えは、発展していく。

@縁起・・・ものごとがあるのには、その原因と条件が存在するところから、はじまる。「苦」は、何によって生ずるか、苦は老死に縁って生ずる」。それが、「無明から生じ、十二の支からなる因縁によって形づけられたのが、十二因縁である。

A中道・・・上記「苦からの脱却」を最大課題とした釈尊の発想のなかで、成道に至ったのは、「中道」であると、説く。本来は、苦行も楽行も否定し、釈尊が説いた方法は、菩提樹下での瞑想であったのだが、「苦と楽」、「有と無」、「断と常」、「一辺と他の辺」と、ともに否定する考えであった。この中道の教えは、初転法輪に説かれたとされる。後に、大乗の『中論』や『中辺分別論』に発展する。

B慈悲・・・のちの大乗仏教経典にみる「慈悲」の発想は、すでに初期の釈尊の教えのなかに、その萌芽があるとみられる。『スッタニパータ』における「慈悲喜捨」(四無量心)には、釈尊の本来の理想が、「自己の完成と同時に他者の救済を実現すること」にあったことを語っているといえる。

C非我・・・初期仏典『スッタニパータ』にある「無我」については、「苦」が、「自己への執着」にその因を見出し、その「執着」が「我執」となり、「自我(アートマン)」となる。そのアートマンを否定し、「捨てる」ことこそが求められる。少し後に成立する『ダンマパダ』には、「一切の事物は、我ならざるものである」と「非我」の用語例があるが、「三(四)法印」は、「苦からの脱却」の究極の教えであろう。

D自灯明・・そしてついに、「苦からの脱却」は、自己を捨て、自我を放棄し、普遍のダンマを得て、しかる後に「寂静」なる自分に戻っていくようにと、教える。四阿含に「自己を燈明とせよ。自己を帰依せよ。」とある。究極は、「寂静(ニルヴァ―ナ)」こそが、「苦からの解放」であるのではないだろうか。


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