インドの諸宗教文化に見られる密教の諸要素について述べなさい。

 密教の歴史的変遷を見る時、古代のインドの諸宗教文化の中にこそその原型がある。その「真言」や「護摩」を遡れば、『リグ・ヴェーダ』や『アタルヴァ・ヴェーダ』などの聖典が成立した、いわゆるヴェーダ時代(紀元前12-5世紀)にまでたどることができる。

大きく見て、3つの要素を認める。それは、「火」の文化、そして「水」の文化。さらに「マントラ」であろう。

 まず、「火」に関しては、古代ヴェーダの婆羅門の儀礼(アグニ・チャヤナという儀式)において、聖なる空間に、諸々の尊格に火の神アグニを通じて供物をお供えする。この供物を火にお供えする儀礼と密教の「護摩」を比較すると、真言密教の護摩では、まず胎蔵曼荼羅の東南の角にいる「火天」を迎える。密教が、多大にインドの民間信仰の伝統を受け継いでいったかが見える。また、原ヨーロッパ系の言語を共有する民族が、インダス川から西北インドへ広まり、パンジャブ地方に宗教文化を確立したが、それらの民族もまた、古代ペルシャのゾロアスター教やヴェーダの宗教の共通点として、火を崇拝してきたことがうかがえる。

次に「水」である。「護摩」と同様に、密教における「灌頂」という儀礼をみるに、ヴェーダの時代、王の即位に、四大海の海水を集めて頭上に注ぐ儀式があったが、『華厳経』「十地品」の「灌頂」という儀式との共通性が大きい。大乗の法の跡継ぎという理念的な儀礼だが、汎インド的な宗教儀礼としてインド一般のものとされていく。ジャイナ教はもとより、宗教や政治の主たる役割を担うものの、社会的承認の儀式として、「灌頂」が定着していったと考えられる。

「マントラ」。ヴェーダの時代以来、インドの宗教文化の重要な要素に「聖なる言葉」であるマントラがある。言葉の霊力を操る婆羅門が、絶対的権勢を得ていく。言葉そのものへの信仰が、記号としての梵字に発展していく。記号としてのことばというよりは聖なることばの象徴体系は、真言密教の顕著な特質になっていく。インドの宗教は、婆羅門という司祭階級が圧倒的な権力をもっていた。それが、広い意味での宗教的習俗として、ヒンドゥー教一般に溶け込み、仏教にもバラモン的社会規範や民間のまじないの呪文などに自然と持ち込まれていく。大乗仏教の内に密教が形成される中で、仏教のマントラが完成されていく。初期仏教の中でも、護身用の呪句であったパリッタ、さらに『法華経』や『般若経』に説かれる陀羅尼にも、密教の原型的要素があると考えられる。

さらに、紀元4-5世紀にかけて、チャンドラグプタによって興ったグプタ朝は、ガンジス中流地帯からインド全域に影響し、以前からあったバラモン教が、様々な神々や民衆の日常儀礼を内包したヒンドゥー教として再編成された。元来、人間の根源的な苦悩の救済を目指して出発した仏教も、このヒンドゥー教と重複するさまざまな民衆宗教の要素を自己の内に取り込んでいった。治病、長寿、止雨、請雨などの現実的要求を説く陀羅尼経典、諸尊を対象として供養、観想する一群の密教経典などは、この時代のものである。

雑駁に追うなら、古代インドの宗教文化のなか、バラモン教の祭式の火・供物の習慣のうえに、やがて神話となり、道徳・法律・習慣が、新しい神々への信仰を生み出し、芸能や科学とあいまって、思想・哲学に昇華し、ヒンドゥー教の体系が作られていく。それは開祖のいない民間信仰であり、シヴァ・ヴィシュヌ神に象徴される、「タントラ」であった。そんな中で、大乗仏教の観音、文殊などの新しい菩薩が生まれ、やがて初期密教の経典では、十一面観音や千手観音が登場し、病気平癒や財富増長などの現実的な祈願がなされる。6世紀には、真言・印相・マンダラが整った『陀羅尼集経』が編集される。

「タントラ」。7世紀、初期密教の時代には、護摩とマントラからさらに発展し、真言・印・ヨーガが体系化されていく。その儀軌や修法を体系化され、「所作タントラ」として密教経典とされていく。それが、やがて密教の思想的体系化がなされていき、「純密」といわれる密教経典が完成されていく。「行タントラ」としての『大日経』、瑜伽タントラとしての『金剛頂経』である。さらに、8世紀以降無上瑜伽タントラとして、思想的にも発展していくが、12世紀を最後に、イスラムの侵攻によって、インドでの仏教が壊滅する。

しかし、インドで生まれ育った密教の種・芽は、チベットや中国、またインドの地方に根付き、独自の発展を遂げていくことになる。


※参考資料
 『密教学概論』生井智紹 高野山大学
 『密教の歴史』松長有慶 平楽寺書店
 『密教』松長有慶 岩波新書
 『密教』頼富本宏 講談社現代新書