仏伝における神と魔の役割・性格について

 仏伝『スッタニパータ』の最初に出てくる魔(ナムチ)は、ブッダが精励に努め、懸命に瞑想し、束縛から安穏を求めていたときに、哀れみの言葉を口にしつつ近づいてきた。(425-426)
 そのナムチは、ブッダに「(精励をやめれば)きっとたくさんの福徳を積むことだろう。精励して何になる。(428)精霊の道は進みがたく、なしがたく、克服しがたいものだ。(429)」とブッダの傍らに立った。ここでいう、「福徳を積む」とは、当時の生き様としての裕福な生き様をいう。しかし、ブッダはそういう生き方のもの(「魔」)を「放逸者の親族」(430)と呼ぶ。中村元「原始仏教」では、「怠け者の親族」という。そして、(439)以下八つの軍隊になぞって、「欲望、不快、飢渇、割愛、沈鬱と睡眠、恐怖、疑惑、偽善と頑迷」という。そして、「放逸にならず、精励し、わたし(ブッダ)の教えの実践者」(445)になれば、安楽が手に入ると答えて、魔(ナムチ)を撃退する。以上の一連の修業への妨げは、ブッダの教えの実践による功徳を表現してものといえるであろう。

 また、『サンユッタ・ニカーヤ』では、「蛇」のエピソードがある。すなわち、蛇の形をして悪魔がブッダを誘惑しようとするが、失敗したという話だ。悪魔は、「マーラ」。「悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖をおこさせようとして、大きな蛇王のすがたを現し出して、尊師に近づいた。」そこで、ブッダは自分の断固たる心境を、魔に語る。「たとい胸に向かって槍をなげつけるようなことがあっても、生存素因のうちにあるもののなす救護を、諸々のブッダもなさない。」と。そこで、悪魔・悪しき者は、その場で消え失せた。これは、立派な覚悟をもっている人は、いかなる誘惑にも揺るがすことができない、ということである。
さらに「愛執」と「不快」と「快楽」という悪魔の娘たちが登場する。そこでは、ブッダは、「本当の修行者は、一人で修業するもの」であること、また、「多くの瞑想をするならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがない」こと。そして、「執着なきこの人は、多くの人々を、死王の束縛から断ち、死王の彼岸に導くであろう」とある。これらは、ブッダの覚悟を現すエピソードである。ブッダの教化活動の源の側面ととらえるものである。

 一方、ブッダが「悪魔たちの勧誘や恐怖に打ち勝って」その教えを広め始めたのみならず、「神」からの懇請によるものであると伝えられる。その代表的な逸話は、「梵天勧請」である。

『サンユッタ・ニカーヤ』や『大パーリニッタ経』にも記述がある。「わたしのさとったこの真理は深遠で、見難く、難解である。・・・人々には、縁起という道理は見難い。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)
そして、「このように世尊が思案している間に、心は説法に向かわずに、無気力へと傾いた。」ブッダの迷いである。その時梵天が登場する。本来、梵天は仏教以前には絶対神「ブラフマン」である。ブッダの時代には、世界の創造・支配も司る最高の神とされていた。その神「梵天」が、ブッダの心の迷いに対し、請願するのである。『律大品』では、三度梵天が請願し、「そのとき、世尊は、梵天の要請を知り、衆生への憐れみによって、仏願によって世間を観察した。」有名な「青蓮、紅蓮、白蓮」の逸話。ブッダは、娑婆主梵天に詩で答えた。「不死への門は開かれた。耳を持つものたちは信を起こされんことを。」と、説法の決意を告げる。ここに、「初転法輪」への、ブッダの決心がある。

 この「梵天勧請」について、羽矢辰夫氏は、『ゴータマ・ブッダ』において次のような解釈をする。「この逸話は、ゴータマ・ブッダの心理的葛藤を神話的に表現したものであるというように解釈され」また、「当時は新興宗教であった仏教としてみれば、最高神の名前を借りて、みずからの立場を権威づけたいという気持ちがはたらいていた」(P,94)と述べている。「さとり―逡巡―説得―翻意―説法」というシナリオと。

 さらに、上記のシナリオの初めに、ブッダが生まれたときから、「神」の祝福と、「魔」による妨害があったし、「四門出遊」、「出家」、「苦行」時にも「魔」=「苦悩」「迷い」があったに違いない。原始仏典は、それらをすべてブッダの目覚めのための、荘厳な出来事として、その教えの内容ではなく、尊さに対する脚色を大事にしたのではないだろうか。


※参考資料
 『ブッダの伝記』谷川泰教 高野山大学
 『ゴータマ・ブッダ』羽矢辰夫 春秋社
 『原始仏典』中村 元 ちくま学芸文庫