初期仏教の根幹をなす思想である「縁起」のしくみについて

 仏教という宗教への信仰は、ブッダが法(真理)を悟ったということと、その悟られた法を弟子たちに教えて説かれたということにある。その法の根幹である「縁起」について、初期仏教の仏伝をもとに追ってみる。

 パーリ聖典『律蔵』では、ブッダは7日間菩提樹の下で、悟りをひらいて後座し、「後の夜のはじめに、世尊は「縁起」を順逆の次第で思念された。」すなわち、「十二支縁起」である。その後、同じ『律蔵』で、初転法輪に関して、五比丘に、「・・如来はこの両極端に近づくことなく、中道を悟ったのである。」「比丘たちよ、中道とはなにか。それは、八支よりなる聖なる道である。」と続く。いわゆる「八正道」である。また、続いて「四諦」が語られる。

 南方仏伝(『ウダーナ』)「じつに、熱心に瞑想するバラモンに、もろもろのダンマが現れるとき、かれの疑問は一掃される。もろもろの因縁が消滅したことを、彼は知ったのである。」このことは、「自他分離的次元を超越した自他融合的な見え方の世界、およびその真の意味」であり、世界中のあらゆるものが全体としてつながりあい、融合的に関係しあっており、わたしたちはそのなかの一部でありながらしかもそのまま全体の生命を生きているという実感を、みずからの体験としてきわめて鮮明に受け取ることができたということである。この悟りによって「苦しみ」への解放(解脱)が生まれることになるのだが、十二の因縁による苦しみのその解釈の中の「輪廻」からの解放こそが、「根源的な苦しみが消滅するときに現れる自他融合的な世界のあり様」=「縁起」と見るべきである。
 ブッダの悟りの根幹である「四諦」は、「苦楽の二辺を離れること」、「放逸でもない、禁欲でもない。」(「中道」)であり、「八正道」である。その「道」とは、まさに禅定である。「それは、世間的欲楽に身を任せるでもなく、身体を苦しめて心を鍛えるのでもなく、ひたすらに心を安定し、集中して、真理の観得の努める」(引用、『仏教入門』高崎直道)ことである。 

 またつぎに、「慈悲」の観点から、「縁起」をみる。これは、大乗の涅槃観による見方であろう。大乗仏教は、涅槃(縁起)の世界、彼岸を別の天地に求めず、この生死輪廻の世界そのままが、心の転換によって涅槃(縁起)となると考えた。そこには、この世の衆生を救う仏の「慈悲」の協調が見られる。すでに「阿含」や「アビダルマ」の教えにも「四摂法」の一つに「利行」がある。常に他人のために利益となることを行うこと。「四無量心」の「慈・悲・喜・捨」。「慈」とは、他人に楽をあたえること。「悲」とは、他人の苦を除くことである。とりもなおさず、ブッダの教えの中の、「自他分離的次元を超越した自他融合的な見え方の世界、およびその真の意味」であり、「世界中のあらゆるものが全体としてつながりあい、融合的に関係しあっており、わたしたちはそのなかの一部でありながらしかもそのまま全体の生命を生きているという実感」(『ウダーナ』)
こそが、自他の隔てなく、「慈・悲」を共有することとなるのである。特に、大乗仏教においては、「利他行」を旨とするわけで、その観点から「六波羅蜜」の行が、大乗の菩薩行として発展していくことになる。

 このように見ていくと、初期仏教の根幹をなす思想である「縁起」については、ブッダが悟りを開くその発想の根源にある「自己存在」における「苦」からの脱却が、論点であろう。その論理的な出発点そのものが、「十二支縁起」であり、その「苦」からの脱却そのものが、「四諦」である。そして、その「諦め」の道こそが、四諦のうちの「道諦」である。そこに説かれる「諦」の道こそが、「八正道」である。上記の段階的な解釈の発展に欠かせない発想の根底にこそ、「中道」と「慈悲」という考え方がある。ブッダがこの悟りに至るまでのさまざまな苦行の末に、「ひたすらに心を安定し、集中して、真理の観得の努める」行の、真髄を見出したのであるし、また「自他融合的な見え方の世界、およびその真の意味」において、「全体としてつながりあい、融合的に関係しあっており、わたしたちはそのなかの一部でありながらしかもそのまま全体の生命を生きている」実感を感得したのである。


<参考文献)
※『ゴータマ・ブッダ』 羽矢辰夫 春秋社
※『仏教入門』 高崎直道 東京大学出版会