大乗が興起した理由

 仏教そのものの歴史的発展と変遷をみていくと、どの宗教教団にもみられる、教祖・経典・僧侶集団、そしてそれらをささえる在家信者の構成が、不可欠であろう。そのうえに、その大多数を占める在家信者の、その信仰の拠り所を示すことこそが、教団の存続にかかわってくる。初期および中期の仏教史において、修行者である僧侶が、その自らの高まりを求め、また教義の高度・難解性もあって、在家信者と遊離しはじめる。

『ディーガ・ニカーヤ』に「アーナンダよ、あなたたちは如来の遺骨の供養礼拝にかかわってはいけない。自分たちの目的に向かって専念し、怠らずに努力しなさい。遺骨の供養礼拝は、バラモンなどの在家の信者たちが行うであろう。」という部分がある。また、仏舎利を八分して、ストゥーパを建てたのもすべて各地の在家信者であった。ある意味、サンガの修行者たちがあまりにも在家信者に無関心であったことが、大乗が興起しうるもっと大きな原因であったのかもしれない。

初期仏教の経典である『律大品』等をみるに、すでに大乗の「他者」の意識が散見される。ブッダ「初転法輪」における四諦八正道が基本的な教えは、ブッダが自ら悟ったのち、その体験を他者と分かち合いたいと考えたものであろう。その思いが、梵天(ブラフマー神)の勧誘という心の動きで表現される。そして、最初の他者こそが、五人の修行者。その四諦のもとともいえる「中道」そして「無常」や「無我」の教えが説かれ、そこには他者とのつながりが基本とされる。そして、ブッダは「まず、人々に施しをし、みずから戒めを守れば、死んだ後に天の世界に生まれることができる」という教えを説く。(『律大品』) 

 また、四諦の第四「道諦」をみるに、道の出発点は「自らの決意」と「戒の順守を誓う」ことである。大乗仏教になると、修業の目的を明確にして、「発菩提心(発心)」を前提に据え、さらにその発心の動機を、「衆生済度の誓願」とする。道の修業(仏教の実践修行)は、「禅定」が基本とされる。そこの八正道が示され、それら具体的な実践方法「定」は、「戒」を保つことであり、「智慧」を得ることである。それが、三学(戒・定・慧)である。そして、大乗仏教ではそのなかも「戒」と「布施」が、在家信者の重要な信仰の基本になっていく。「十善戒」が説かれ、『華厳経』「十地品」にある戒波羅蜜「他利行」に至る。そして後に『瑜伽論』「菩薩地」の「三聚浄戒」でまとめられる。在家信者は、「布施を施し、戒を保てば、死後に生天の果報がえられる」という。『大智度論』や『華厳経』にあるように、大乗仏教では信を強調する。「発菩提心」に向けて行を積む、つまり仏の前身と同じ「菩薩」になること。その意向は仏の誓願に基づく「慈悲心の発露」である。

 原始仏教やアビダルマの仏教では、信は仏の語を信ずること、仏の教えに対する信頼がその基本にあったとされるのに対し、大乗仏教では、仏の人格に対する絶対的信仰を基本とする。さらに、このように仏を絶対的な高みにおきながらも、なお仏にならい仏と同じ道をたどってその位に達したいという望みを持つ。その行は、回向のみならず、仏と同じように、衆生を救済することにその成果が振り向けられるべきだとした。それが、「利他行」の実践である。

 この「利他行」を旨とする大乗仏教が、その基本に据えたのが「六波羅蜜」の行である。六波羅蜜は最初に布施を置く。やがて、華厳経や法華経に進展し、「如来蔵」という思想にまで昇っていくことになる。

奇しくも、大乗仏教が、その在家信者に重点をおく方向性のなかで、初期の仏教経典にも含まれているところの、「慈悲」であり、「利他行」をより重視して、その「行」の基本となし、理論化して、体系化して、北伝し、今日に至るのである。


※参考文献
『ゴータマ・ブッダ』羽矢辰夫 春秋社
『仏教入門』高崎直道 東京大学出版会
『仏教入門』三枝充悳 岩波新書