『般若経』とナーガルジュナの「空」思想について 

 紀元2から3世紀に登場する、ナーガルジュナが確立した「空」の思想およびその論証は、初期大乗仏教のピークであり、仏教発展の歴史の中で、中期仏教の時期といえる。

 釈尊の初転法輪を始まりとする初期仏教の後、アビダルマの時代の中で、大乗仏教が在家中心にや慈悲の強調の中で、発展していく。初期大乗経典の中でも、支婁迦讖訳の『道行般若経』をはじめとして、多くの「般若経典」がある。それら現存するすべてが、「空」の思想を説く。また、仏の絶対視(法身)と、仏のはたらきとしての「般若」と「方便」(慈悲行)の強調を挙げることができる。
空の理論化はナーガルジュナによって完成されるまで、必ずしも完全とはいえないまでも、空の見解が徹底して、般若経の隅々まで浸透しているという。「なにものにもとらわれない空を本旨とする般若の智によって、いっさいを直覚し洞察すべき」ことを、般若経は説き、さらにその空にもとらわれてはならない(「空亦復空」)という。さらに、利他が強調され、波羅蜜に至り、『般若波羅蜜経』があるといえる。

 初期大乗経典が出揃った紀元2-3世紀、ナーガルジュナが登場して、「空の思想」をみごとに理論化したと言われる。その主著『中論』において、徹底した論理が構築されている。また『大智度論』では、般若経を注釈しつつ、大乗の教義をまとめた業績は大きい。

 『中論』第18章の詩頌3.4
「自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は(事実を)見ない。」「内と外とに「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。」

 アビダルマでは、人間存在を七十五法に分析し、それぞれの本体と機能をもったこれら単体のみが実存であり、それ以外の自我(人格の主体)は存在しないと有部は説く。ナーガルジュナは、「自我意識・所有意識を離れた人、解脱の主体そのものも存在するものではなく、解脱の主体としての絶対の自己というものも、なお自我意識の対象にほかならない。どこまで後退しても、自我をたてようとする人間の根本的な執着を離れてはじめて、人は輪廻から自由になるのだ」という。また、それは『般若経』における「無願三昧」(願い、望み、執着するもの、そのなにものもないことを見る瞑想)を突き詰めたものといえる。

 また、『中論』第18章の詩頌5.において、「行為と煩悩の止滅によって解脱がある。行為と煩悩は思惟より生じる。それらはことばの虚構による。ことばの虚構は空性のよって滅せられる。」とある。『般若経』と同じく、ナーガルジュナもまた、神秘的直観の世界が最も理知的な表現によって語られていく。かれは、ことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だといっている。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだという。そうすれば、言葉を離れた実在に逢着する。それが「空の世界」である。「空」ということは、ものが本体をもたない、ということである。「空性」とは、ことばを離れた直観の世界の本質である。

 『中論』巻頭「帰敬偈」
「縁起は/滅することなく生ずることなく/断絶することなく常住することなく/一義ではなく多義ではなく/来ることなく去ることなく/安らかに戯論を寂滅させる/このような縁起を説いた正覚者/説法者の中の最もすぐれた人/その人(ブッダ)に私は敬意をささげる」

 『中論』第27章29.30偈
「あらゆる存在は空であるから/世界は常住である等の諸見は/何処に 誰に 何故に 生じるであろうか/一切の邪見を断じるために/慈悲によって正法を説いたゴータマに/私は敬意をささげる」

 要するに、ナーガルジュナの『中論』の本来の趣旨は、引用の巻頭と巻末の偈の象徴されるように、否定する対象が、アビダルマの象徴である説一切有部の「戯論」・「邪見」の体系である六十二見であった。そして、最大の主張が「縁起説」ないし「空観」であった。『中観』の主旨そのものが、そこにあった。

 初期仏典は、「縁起説」や「四諦」が、ブッダによって、外道の極端にかたよった理論や実践方法と対置されながら「中道」とよばれたということを伝えるが、その「中道」を般若思想を通して、「空観」としてとらえなおしたことが、ナーガルジュナの最も偉大なところではないかと思う。
 

<参考文献)
※『ゴータマ・ブッダ』 羽矢辰夫 春秋社
※『仏教入門』 高崎直道 東京大学出版会
※『空の思想』 梶山雄一・上山春平 角川ソフィア文庫