「仏教以前のインドの宗教と仏教とのつながりについて」


はじめに
 古くインダス河流域地方に広がる高度な都市文明の遺跡から見つかった活石印章の文字はいまだ解読されていないが、そのなかにはいくつもの当時の信仰の断片が見つかっている。母神信仰はシヴァ神との類似点、さらにモヘンジョダロの坐像はヨーガ(瑜伽)の姿勢など。またインドの宗教文化に欠かせない樹木信仰(沙羅樹)もすでにみられるようである。
 それは、アーリア文化が浸透していく以前の西北部に定住していた牧畜農耕民族の文化であるかもしれない。よって、「仏教の起源をヴェーダの宗教ないしバラモン教との関連においてのみ見ることは難しいのかもしれない。仏教は当時の民衆の信仰を背景として生まれ、かつ成長したものである。
                     一部引用 岩波新書C150 「仏教」渡辺照宏 p.60

 釈尊が在世のころは、紀元前500年ころとされ、当時はアーリア人がガンジス川中流地方にまで侵入し定着した時代である。要するに、非アーリア人(チベット=ビルマ族)である沙門たち(仏教およびジーナ教)は、東南アジアに見られるような稲作の農耕民族を基盤とする民族的宗教であって、西から侵入してきた好戦的で狩猟=牧畜を営むアーリア人のバラモン教に対立するものと見ることもできる。

 ここで、興味ある一文を引用する。人々の苦悩や悩みに対して釈尊の答えは、「たとえばかつてヴェーダ聖典やバラモン教に説かれたような、人間の力をはるかに絶した神も、いわんや創造を司りあるいは宇宙の進行その他を管理する神も、また祈祷や呪術や魔力を演ずる神秘も、さらにはウパニシャッドに示された宇宙や人間の根源にあるという原理的存在なども、いっさい登場せず、むしろそれらはすべて斥けられる。いわば不可思議で超自然的なるものは、ことごとく排し、それに類したものもすべて捨て去る。」ことであったとの見解もある。 岩波新書103 「仏教入門」三枝充悳 p.66

1.初転法輪・・・釈尊の悟りの内容 
 釈尊は、諸の煩悩の穢れを滅することによって、真理に目覚め、悟りを啓いたとされる。その悟った真理とは、「中道」、「十二縁起」、「四諦・八正道」などが語られる。釈尊が到達した「悟り」の境地は、過去の文化的背景の上に立ち、あるいは「ヴェーダ」や「ウパニッシャド」の全面的な否定から始まり、また釈尊存命時代の新しい宗教観にも影響される中で到達できた、いわば最高の宗教であったのだろう。

2.『リグ・ヴェーダ』にみられる、古代インド信仰について
 仏教の歴史的変遷を見る時、古代のインドの諸宗教文化の特徴が散見される。ヴェーダ祭式の中で最も重要な行為は「祭火に供物を投げ入れること」で「ホーマ」といわれる。この供物を火にお供えする儀礼が、インドの民間信仰の伝統を受け継いでやがて密教にまで受け継がれていく。

3.「ブラーフマナ」の時代
『リグ・ヴェーダ』の時代からブラーフマナの時代(祭式至上主義)へ移ると、祭式は、神々をも支配すると考えられるようになる。唱えられる聖句(マントラ)のもつ呪力によって神々を祭式によって操作することにより願望が実現される。当初よりマントラは、仏教にも残っていく。

4.『ウパニシャッド』に示された原理的存在
ア、業・輪廻の思想・・・輪廻説『五火二道説』は、善因楽果・悪因苦果という原理であり、業は輪廻の原因とされた。輪廻の発想は、仏教にも影響を与える。

イ、タパス(苦行)・・・肉体を苦しめる修行によって、力が獲得され超人的な能力が実現できる。
            釈尊は、この「行」を全面否定しない。「中道」に変化させる。

ウ、ヨーガ(禅定)・・・静座し精神を統一して瞑想することで、真理の直観、悟りを得て、苦しみ 
          から解放されること(解脱)が目的とされる。仏教でも認めている。

エ、梵我一如の思想・・・梵「ブラフマン」と我「アートマン」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする。仏教では、別の解釈をする。

5.「六師外道」・・・ヴェーダ祭式以後の新しい思想。仏教徒の類似、相違点。
この時代に現れた思想が、その後のインドの思想・宗教を特徴づけた。仏教もまた、そのうねりの中から生まれてきたものであろう。いわゆる「六師外道」である。

プーラナ・カッサパの『行為の善悪否定論』・・・ウパニッシャドの否定
 行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張し、業・輪廻説にしたがうかぎり、苦を果報として受けることが避けられないとされる人々(下層階級)に対して説かれた。

マッカリ・ゴーサーラの『宿命論』・・・ウパニッシャドの否定
 厳格な宿命論にある。一切万物は宇宙を支配する原理であるニヤティ(宿命)によって定められている。輪廻するもののあり方は宿命的に定まっており、行為には、運命を変える力がない

アジタ・ケーサカンバリンの『唯物論』・・・業・輪廻の思想を否定
 唯物論。善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。人間は地水火風の四要素からなるもので、死ねば、四要素に帰り消滅するのみである。発想は、仏教の五大・六大にも影響する。

パクダ・カッチャーヤナの『七要素説』・・・行為に善悪の価値はない
 人間は、地水火風楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるものである。不動、不変で互いに他を害することがない。行為に善悪の価値はない。

ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ) ・・・ジャイナ教
 五つの制戒と懺悔を伴わせて教義とした。倫理的な生活をおくることによって心を汚れから守ることを説く点は仏教と同じ。不殺生戒は、仏教よりも徹底。「無所有」を説くのは、所有は欲求であり、欲求は行為を導く。そのため「すべて」を捨てることが求められる。また修行者の修行も、中道をとる仏教より厳格で、ひたすら試練に耐えることが重んじられる。苦行は超自然的な験力を生み、業を払い落とすとされる。特に断食が重視され、最終解脱には断食により身体を放棄することが必要。

サンジャヤの『不可知論』・・・
 あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場。仏教の「無記」の考え方に影響する。

6.釈尊入滅以後の仏教
 釈尊入滅以降の仏教集団は、数回の結集、また部派の分裂などを経過しながらも、さらに深化を進め、その教義や戒律も変化し、分化していくことになるが、またそれぞれの時代において、土俗の民間信仰をも取り入れながら、仏教は発展していく。

※参考資料
『仏教学の基礎1インド編』大正大学仏教学科
 『仏教入門』高崎直道 東京大学出版会
 『仏教』渡辺照宏 岩波新書
『仏教入門』三枝充悳 岩波新書