遍路三度(3) 高野へまた

 実は、8月二度目のお四国、高知を計画していたのですが、日程や台風などの理由で
 行けなくなってしまいました。そこで、一泊ですが高野山の宿坊に泊まる計画を立てました。

 8月20日(日)早朝の南海電車高野線で、「九度山」駅まで行って、そこからあの慈尊院(お大師様
          のお母さんのお寺)に向かい、有名な町石道(ちょういしみち)を高野山大門へ徒歩
          で行きます。


 春に、家から高野街道を歩いて10里。
 途中での道間違いもあって3日かかったので
 すが、今回はお山で泊まりますから、
 何時になってもいいでしょう。

 朝、6時53分金剛駅から急行橋本行き。
 乗り換えて、高野山行きの普通電車で
 7時40分に「九度山」に到着です。

 日曜の朝。金剛山登山の人や折りたたみ
 自転車を持った方など、休日の客がぱらぱら。

 どうやら、町石道に向かう人はいないようです。
 連日の炎天下、もう大阪は亜熱帯。35℃以下には
 下がらないんです。

 あの紀ノ川のほとりにある慈尊院まで、2km。
 以前歩きましたから、迷うことなく到着しました。
  途中、真田庵(真田幸村)を通り、赤い橋を過ぎれば、お寺に到着です。早速、お参りして今日の無事をお祈りしました。お大師さんが、月に9度もお母さんに会いに来られたという(九度)お寺。








 その道(町石道)を180町(108m×180町)を歩きます。1町ごとに石が立っていて、あと何町かが分かるのです。話によると、この道が正式の高野山への参道であったとか。お四国を満願した遍路は、和歌山港から紀ノ川をさかのぼり、ここ慈尊院からいよいよ最後のお山を登ります。橋本で泊まって、一日かけます。

真田庵

 だって、のぼりばかりのお山です。20-25kmあるのですから
 当然ですね。そして、上の宿坊で泊まり、早朝に高野山奥の院にお礼参りするのです。

 慈尊院 

 今日、私は純粋に高野山詣ということで、夢にまで見た町石道を「いざ高野へ」。
 慈尊院出発が、8時過ぎ。パンフレットでは、160町までがとてもきついのぼり坂です。
 丹生神社の階段中ほどに、180町の石があります。女性が、ボランティアガイドの方の説明を受けています。
 (実は、ずっとこの方々と抜きつ抜かれつだったんです。)

 

 神社を過ぎると、いよいよ山道に入っていきます。これから20kmあるかと思うと、いささか自信がなくなります。
 家もなくなりますから、水の準備が絶対ですよね。500mlを2本。(少なかったことを後悔しました。)
 170町石からは、舗装している柿山の農道です。ここが一番きついのぼりですね。木々の日陰を探しながら、
 本当にヒーヒーでした。少し前をおじいさんとお孫さん二人に犬が楽しそうに歩いています。

  

 こっちは、声も出ないでうつむきかげんで、一歩ずつ。展望台では、あのご家族が元気そう。寄らずに、とにかく
 のぼりが終わるところまで。シートを広げて、大休憩。(休憩中抜かされた方に、「お店を広げていますな。」と)

 

 あのおじいちゃんたちが、通過。お孫さんたちは元気元気。六本杉から下の神社に下りるらしいです。
 どうやら通過する方たちとの会話で、高野山まで行くひとは、ほとんどないらしいです。

 そうですね、上で泊まるか、よっぽどの健脚でないと行けませんよ。わたしは泊まりますから、時間の
 心配がありません。心配は、体力ですね。

 ずっと柿山です。枝をくぐるように進みます。雨引山の鉄塔から、本格的な遍路道です。もう金剛杖なしでは
 あるけません。おじいさん達と、休憩のずれの度に、ご挨拶ですよ。

     

 「一里石」手前のお地蔵さん。私が先に到着して休んでいると、あのおじいさん達がやってきました。
 おじいさんは、リュックからパンを一個。包装から出して、一個まるごとお地蔵さんに。「エー、全部?」と
 お孫さん。すると、少年も「ぼくもハイチューあげよう。」と。また学びました。子々孫々、信仰が受け継がれて
 いく本来の姿ですよね。「前にもお供えして、わずか1時間後に戻って見ると、もうお供えのパンがなかった。
 お地蔵さんが食べたのかねえ。」と笑顔で話してくれました。そうですね、きっとそうですよって、私も思える
 ような会話でした。

   

 やっと、六本杉まできました。大休憩です。わたしもパンを食べました。少年が、ここの木が杉なの?いや、
 このあたりはみんな、ヒノキだよ。杉はないな。女性を案内しているボランティアガイドのかたも、なぜここを
 六本杉というのか、伝承もないんですよと。

 六本杉 

 さて、ここでおじいさん達とはお別れです。彼らは、坂道を下って丹生都比売神社(にゅうつひめ)にお参りして
 夏休みのおじいさんとのハイキングとするらしい。私は、一路お山に向かいます。町石は、136番です。

 草を掻き分け、二つ鳥居に向かい、鳥居前のきつい坂道をあがると二つ鳥居の展望台です。谷の向こうに
 村が見えて、しばらくは辛さを忘れます。

 

 ここから、少し下り坂。前が開けてきたと思いきや、そこはゴルフ場です。何番ホールか分かりませんが、
 ティーアップしているお客さん。「こんにちは」とキャディーさん。皆さん親切に、道案内。「ご苦労さま」と。

 金剛杖の遍路ですから、ハイキング客でないこともご存知。(ふふふ、ゴルフ三昧の後ろめたさ?!)
 なんて思いながら、神田地蔵堂。

  

 のこりわずかな水が心配で、村が見えるものの、道は山の中。自動販売機があるわけもなし。とほほ。
 またもや、山の中。平坦ですが、湧き水もなし。

 道がぬかるんできました。赤土で、グチュグチュ。太陽に水が、銀色にギラギラ。そうです。ここは、丹生の
 里。赤土に含まれる硫化水銀ですね。水銀は、薬です。その昔、丹(水銀)を採取する山人が歩いた道。

 お大師さんは、その丹生の神に迎えられ、高野山を拓いたとか。陀羅尼(丹)助(だらにすけ)という腹薬が
 あります。仁丹だって丹(に)ですよね。丹生神社のもとは、これです。
 靴が泥だらけになりましたが、すぐ乾きます。

 

 
  「納屋」と地図にはありますが、壊れた農小屋ですね。いつの間にか、町石は、86番です。
  もう100町来たのですね。だれもいない、通らない山道です。蝉の声がむなしくも、岩にしみいる暑さです。
  やまの尾根つたいに送電線の下を進みます。とうとう最後の水を飲み干しました。矢立までは、水無しです。

  どうやら、左の膝裏が傷んできました。段を上がるときに、左足で踏ん張れない。杖と右足を頼りに、とぼとぼと。
  老人が、歩幅を小さくちょこちょこ歩くのが分かりました。歩幅を極端に短くすると、膝の負担が減るのです。

 

  でも、30cm以上の段がとてもきつい。ゆっくりゆっくりです。そのうち、右も痛んできました。どうも今日は、
  足が散々です。本当に歩けるのでしょうか。

  道が、下りになり、車の音が聞こえて来ました。どうやら、高野山ドライブウェイです。何度も車では走って
  いましたがまさか、こんな道が斜面の上にあるなんて、思ったこともありませんでした。

 60町石 

  ドライブウェイに出てきました。ここしかトイレも水もありません。この矢立は、高野山に行く道と和歌山の町へ
  いく花園町・清水町の方面との交差点です。町石は、60番。

  矢立茶屋で「やきもち」をいただきました。パンもたべました。お水を500ml2本購入。
  たくさんの車が行きかいます。トイレがあるので、みんな休憩します。ベンチで眺めていました。わたしも、
  以前は「なぜ歩くのか?」とあきれていましたが、同じ目で見て行きます。

 地図の下から登ります。
 車道を横断し、家の間からすぐに、また町石道に入ります。

 町石道180町の中で、三度きついのぼりがあります。
 ひとつは、160町あたりの最初ののぼり。次が、この矢立の
 のぼり。最後に大門前の階段のところです。

 このあたりは、お大師さんの伝承が残る「袈裟掛石」と
 「押し上げ石」があります。

   

 うっそうと茂った森の中で、まさしく遍路道です。ときおり
 発見する「遍路マーク」や遍路札が、歩くものには、励みにも
 慰めにもなります。

 膝裏が痛くて、くやし涙がでてきます。一歩がきつくて、
 一歩が出なくて、もうまわりも見れません。足元だけをみて、
 たとえ30cmずつでも、前に前に。その進みだけが、今いる
 あかしです。

 『進めば、進んだだけの仏かな』人生にも似たり。
 この苦悩こそが、豊かな行として、喜びとなる。
 『法楽と苦行』という言葉を思い出しました。

 
 

 途中で、また車道と交差します。
 大休憩。シートに倒れかかって、Tシャツを替えて、靴下を
 交換。もう3時です。

 予定では、3時過ぎには大門に到着しているはずなのに。
 休憩していると、足は少しも痛くない。勝手なものですよね。

 お参りを済ました車が、どんどん下りてきます。みんなじろじろ
 見ていきます。町石は、もう50番を過ぎています。

 さて、最後の頑張りで出発しましょう。
 展望台にきました。

 遠く重畳たる山並みを望み、一息つきます。

 ふと、山道を上から下へ、すごい速さで過ぎていく「ものかげ」
 を見ました。いや、見たような気がします。くろい犬くらいの
 霧のかたまりのようなものが。

 最近、時折そんなのが見える時があります。恐ろしいものでは
 ありません。私たちの世界と違うなにかです。

 トトロのような世界があるのかもしれませんね。
 それが見えるようになったことを、とてもうれしく思います。




 最後、大門手前ののぼりに近づくあたりは、渓流つたいの道があります。「ベンチあり」というところ。
 最後の休憩ですね。25番の町石。あと3kmもありません。本当なら、1時間もかかりませんね。

 鬱蒼とした山道の中で、ふと開けた広場。サクラが数本。春の山桜を、空想で愛でながら、最後の力を振り絞って
 いざ、大門へ。まだか、まだかと上げって行くと、とうとう町石の残りの距離が一桁に。大師よ、力を!

  

 車道に出たすぐ前が、大門です。篇額に高野山の文字が浮かんでいます。着きました。4時です。
 8時間かかりました。あの12番焼山道も8時間かかりませんでした。あそこは、登ったり下ったり3回でした。
 今回の町石道は、ずっと登りです。比較はできませんが、いつも今回が一番きつい。過ぎればどんなことでも
 たのしい過去。そんなものですね。

 大門裏に、6町の石。後1kmもなく宿坊です。今日は、お参りしないで、まっすぐ宿坊に向かいます。
 へろへろで、中門跡。金剛峰寺前。信号を曲がって、すぐに今日の宿坊「一乗院」です。

     こんなベンチは、いかがでしょう。

 門をくぐり、ちょうど水道がありましたので、お杖を洗いました。お寺の方も見ておられます。玄関でお迎え
 いただきました。

  一乗院 左の二階が客室です。トイレ付で15000円。高級です。

  写真左上の封筒には、しゃもじとお札が入っていました。

 案内されたお部屋は、料理旅館なみの素敵なところ。まだ新築の木の香り残る部屋です。
 待望の精進料理も、三の膳まである高級料理です。お写経用紙もいただきました。明日の阿息観の体験も
 お願いできました。よかった。今夜は、お遍路いつものように8時には消灯します。明日の朝は、6時15分から
 ご本堂で「声明」勤行です。目を閉じれば、浄土の眠りです。

 何度も仕事でいろいろな宿坊に泊まりました。あるときは、廊下に白いものが浮遊していて大騒ぎしたり、
 ある宿坊では、部屋になにかいて、そこで眠った人が高熱を出して、高野山病院で点滴をしてもらった経験も
 あります。どこかで、高野山宿坊の怪を恐れてもいましたが、まったく思い出すこともなく朝まで寝ました。

 8月21日(月)

  翌朝、5時には目覚めていました。6時過ぎに全館放送があって、朝のお勤めがご本堂であります。
 各部屋からぞろぞろとお客さんが出てこられます。全部で30名くらいでしょうか。

 輪袈裟、お念珠を持参してお参りしました。ご住職以下数名の方の入場。一乗院のご住職は、あの「大曼荼羅会」
 を総指揮された佐伯大僧正です。讃が始まり、理趣経です。至心回向。わたしは、百字偈と回向は覚えています
 が、あとは持参の経本で追いました。お経のあと、法話を聞きました。奇しくも今日は報恩日(お大師様の日)。

 部屋に戻ると、すでに朝食の準備ができています。8時30分から「阿息観法体験」です。
 早めに部屋を出て、お寺の各お部屋の襖絵や額を拝見しました。狩野探幽の画や金輪曼荼羅などをみました。
 お寺のパンフレットでは、秘仏愛染明王像が。お坊さんに聞きますと、お大師様の隣の小さな厨子だそうです。
 ゆっくりお参りしました。


  

 いよいよ「阿息観」です。部屋まで、お迎えがありご本堂まで行きます。12人の体験者。
 ご住職の息子さま佐伯公応師は、阿字観の指導で有名な方です。もちろん、阿字観はわずか1時間の初体験で
 できるわけがありませんよね。数息法から順次マスターしていくものですよね。それでも私は、ワクワクの絶頂。

 真っ暗にしたご本堂。わずかな蝋燭の明かりに、阿字観ご本尊。(ちょっと座る位置からは遠いですが、偶然
 にも私の正面には、お大師さまがおられます。師の低い響く声で、説明が始まりました。



 調身(ちょうしん)・・・半跏座(はんかざ)と印(法界定印)、座り方の指導です。



 調息(ちょうそく)・・・腹式呼吸。出息・入息の方法を。目の位置や意識の持ち方を教えていただきました。



 正観(しょうかん)・・・「阿」を観想するのですが、これが難関ですね。息を吐くときに、「あー」と声を出すのが
              よかったですよ。個人差で時間がずれますので、お堂がずっと「あー」の声で満ちて
              きます。そして、合図で静寂な世界に引き込まれていきます。真っ暗なはずなのに、
              半閉じのまぶたには、月の明るさで明るく底のない空間に包まれていきました。



 出定(しゅつじょう)・・・ゆっくり目を開けて、印を解き、両手を頭から足へなでおろすんです。

 あっというまの時間でした。もう1時間ですよ。まだ、阿字観まではいきませんが、いい体験でした。
 これから、普段での呼吸でも訓練して行こうと思っています。

 時間がもう10時です。さて、奥の院にお参りしましょう。お世話になったお寺の方にお礼を言って
 大伽藍に戻って、今度は奥の院までの町石をたどりながら36町歩きます。今日は、お参りですから、
 口をすすいでから、オイズルを着ます。菅笠は持ってきませんでしたが、あの石鎚神社のてぬぐいを
 頭にかぶっています。

 金堂、大師堂、大塔とお参りして、愛染堂です。えーー、お護摩の真っ最中ですよ。またまた堂内に
 入り、お護摩の火と煙で暑いのですが、時間を忘れてご本尊を見つめていました。ちょっと発見したのは、
 護摩木を焚く時に、油を注ぐんですね。気づきませんでした。

  

 天弓愛染さまの、あの弓と矢を持つ手、そしてお顔をゆっくり拝見させていただきました。2度目です。
 最高の日になりそうです。

 愛染堂の前には、1町の石。奥の院を目指しましょう。10町がビルマの塔の横。16町が、一の橋。
 報恩日ですから、テントをたててお参りの人にお接待ですね。

大師堂   不動堂(国宝?)

 こころなしか、歩みが速い。早く大師にお会いしたい。

 さあ、一の橋からずんずん進みます。観光の方や遠くからのお参りの方は、有名な武士のお墓を見物
 しておられます。私は、やっぱり途中のお地蔵さまと町石を探しながらの道です。みなさんより早いですね。

 姿見の井戸。興教大師密厳院。そして奥の院。あの橋を渡って、結界です。お写経も納めて、裏のご廟へ。
 蝋燭の立てる隙間もなくびっしり。たくさんの方が、敬虔な祈りの中です。私もたくさんの方に混じって、
 心経を。おひとり、経本頼りにたどたどしくも理趣経をあげています。いつか、ゆっくりきちんと理趣経を
 あげたいと思います。

一の橋かるかや堂右横密厳院

 そうだ、お世話になっている方々に高野山のお土産を送ろう。遠くに住んでおられるんだ。簡単にここ
 和歌山の山の中高野山には、来れないはず。私は、いつでも来れる果報者。代参も兼ねているんだ。
 住所を知っているお二人の方に、「みろく石」(饅頭)を。そして、自分の庭に高野槙を植えよう。いつも
 高野山で槙の切り枝を買って帰るんです。いつか大木になれば、いつでも仏壇にお供えできるから。
 苗を買おう。

  「かさ國」(みろく石本舗)さん

 帰りは、中の橋のバス停のレストランでそうめんを食べました。この高野参りが、また新たなわたしの
 通過点としての思い出になりました。バスには乗らないで、また消防署まで歩いて戻ります。もう、
 今度は、どの宿坊に泊まろうかなんて思いながら、道行く人と挨拶を重ねながら歩きました。若いお坊さん
 は、立ち止まって合掌してくださいました。「ご苦労様です。」と。ありがたいです。みなさんの幸せを祈ります。

  高野の無縁仏は、独特のピラミッド型です。

 あの「みろく石」本舗かさ國さん。仏手柑(ぶっしゅかん)という手に似た柑橘系の蜜柑を甘煮にした
 超高級菓子があるんです。もう20年も前に、確か5cm角位のが数千円したように思います。薄く切って、
 お茶菓子にします。ありがたいんです。

 朝生菓子の「くるみ餅」と「わらび餅」。昔ながらのケースに入っています。奥に喫茶があり、熱いほうじ茶。
 最高ですよ。ちょうど外国のカップルが、饅頭を買って座りにきました。英語で、なにか手で持って食べる
 ナプキンがほしいと言っています。店の方も大慌て。見ていました。「くろもじ」の使い方を説明しようかな
 とも思ったのですが、まあいいかと。お店の方がパニックで、セルフのお茶を説明しなかったんです。

   くるみ餅(105円)

 眺めていたのですが、やっぱり気になって、熱いお茶か冷たいお水がありますよって、声をかけました。
 すぐに彼の方が、お水を汲みに。女性が「ありがとう」と日本語で。よかった。せっかく世界遺産の高野山に
 きてるんですから、やっぱりいい思い出を持って帰ってほしいですからね。私は英語はまったくの苦手ですが、
 仕事の関係で、多くの外国人と会っていますから、あまり抵抗がありませんので、よかったです。
 彼らの幸せも祈りましょう。

 さて、数珠屋四郎兵衛前の停留所からバスでケーブル駅まで。280円。下りはケーブルにします。
 いいお参りでした。味をしめたわけではないのですが、もうこれからは高野山は日帰りはできませんね。
 四季の高野に参りたいですね。

 子供が小さいときは、雪の高野によくきました。大きなつららや雪遊び。娘が中学校の時は、冬の高野に
 電車で行きたいといいだして、毎年雪の高野に来ました。あたたかいうどんをいまも時々話します。

 私が、ものこころつくころから、亡き父は、家族の行楽に高野山が定番でした。大伽藍の経堂で、いつも弁当を
 広げていた幼い頃の写真が懐かしい。

 20年以上前、仕事(夏季勉強合宿)で高野山の宿坊に毎年4泊5日泊まっていました。下見も含めれば何回
 来たでしょう。また研修で、研修講師で何年も高野山にあがりました。台風で、がけ崩れ通行止めや大木が
 ばたばた倒れてしまった年もありました。国際交流で我が家にホームステイしたすべての外国の方を案内し
 高野山に来ました。思えば、すでに100回は越えていますよ。地図が書けるくらいです。

 でも、信仰の意味と気持ちを明確にもったものではありません。生活に根ざした、そこに高野山がありました。
 お山の行事は一度も行ったことがありません。(だって混みますから)。しかし、本来の信仰というのはそんな
 ものですよね。生活の中に浸透したものなのですよね。

 子供の頃よく口答えする生意気な私でした。母に、「遍照金剛言うな!」と叱られたものです。
 「遍照金剛」とは「なまいきな屁理屈」を言うなということです。(「わけのわからないこと」という訳がいいな。)
 また、マムシがよく出る地域ですので、マムシをみたら襲われないまじないの言葉として、
 「私の前に 鹿の子まだらの 虫がいる アビラウンケンソワカ、アビラウンケンソワカ」
 というのがあります。私のDNAに摺りこまれたお大師さんの信仰は、確実に生きているのだと実感しています。

 よかったと思います。お四国参りの途中です。また室戸岬の神峰寺から続きます。これからも、時々高野山を
 間に入れながら、お参りを続けていこうと思っています。



■遍路三度 家から高野山へ(1) (2) (3) (1番ー16番) (17番ー26番) 
再度高野へ(町石道)  (27番ー32番) (33番ー39番) (40番ー43番、51番) 
(44番ー53番) (54番ー69番)  (70番ー88番、3.2.1番、高野山)