般若心経秘鍵

      赤文字が本文です。なお、意訳等は、ちくま学芸文庫『空海コレクション1』を参照しました。)
      読み方は、松本日進堂『真言宗常用諸経要集』、松長有慶『空海ー般若心経の秘密を読み
      解くー』春秋社を参考にしています。

般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん) 

   
原文 解説
題目(だいもく)

 般若心経秘鍵
 はんにゃしんぎょうひけん

 序を併せたり
 じょをあわせたり

 遍照金剛 撰
 へんじょうこんごう せん



 古儀「般若心経の深旨を理解する鍵」

 新義「般若心経について理解する秘密の鍵」


 本文に、序を添える。

 空海がしるす。

帰敬序(ききょうじょ)

 文殊の利剣は諸戯を絶つ
 もんじゅのりけんなしょけをたつ

 覚母の梵文は調御の師なり
 かくものぼんもんなじょうごのしなり

 チクマンの真言を種子とす
 ちくまんのしんごんのしゅじとす

 諸教を含蔵せる陀羅尼なり
 しょきょうをがんぞうせるだらになり



文殊菩薩のするどい剣は、われわれの心に潜む煩悩を断ち切ってしまう。

般若菩薩の梵字の経典は、煩悩をしずめる師である。


この二尊は、「チク」と「マン」の凡字で象徴される。


その凡字は、あらゆる教えを包含した陀羅尼である。

発起序(ほっきじょ)

 無辺の生死、何んが能く断つ
 むへんのしょうじ、いかんがよくたつ

 唯だ禅那正思惟のみ有ってす
 ただ ぜんなしょうしゆいのみ あってす

 尊者の三摩は仁譲らず
 そんじゃのさんまは にん ゆずらず

 我れ今讃述す、哀悲を垂れたまえ
 われいま さんじゅつす、あいひを たれたまえ



限りない生死の苦を、どのように断つことができようか。

それにはただ般若の徳である禅定と、文殊の徳である正しい思考によるのである。


般若菩薩の悟りの境地を説くことを、釈尊は他に譲らず自らがお説きになった

そのように私は、いまからそのことを説き示そう、どうか般若、文殊の両菩薩よ、お慈悲を与えてください。

大綱序(たいこうじょ)

 夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。
 それ、ぶっぽうはるかにあらず、しんじゅうにして、すなわちちかし。

 真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん。
 しんにょ、ほかにあらず、みをすてていずくんかもとめん。


 迷悟我れに在り。則ち発心すれば、即ち到る。
 めいごわれにあれば、ほっしんすれば、すなわちいたる。


 明暗、他に非ず。則ち信修すれば、忽ちに証す。
 みょうあん、たにあらざれば。しんじゅすれば、たちまちにしょうす。


 哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。
     あわれなるかな、あわれなるかな、じょうめんのし。

 苦しいかな、痛いかな、狂酔の人。
 くるしいかな、いたいかな、きょうすいのにん。

 痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。
 つうきょうはよわざるをわらい、こくすいはかくしゃをあざける。


 曾て医王の薬を訪わずんば、何れの時にか、大日の光を見ん。
 かつていおうのくすりをとぶらわずんば、いずれのときにか、だいにちのひかりをみん。

 翳障の軽重、覚悟の遅速の若きに至っては、
 えいしょうのきょうじゅう、かくごのちそくのごときにいたっては、



 機根不同にして、性欲即ち異なり。
 きこんふどうにして、しょうよく すなわちことなり。

 遂使じて、二教輙を殊じて、手を金蓮の場に分ち、
 ついんじて、にきょうあとをことんじて、てをこんれんのじょうにわかち、

 五乗、くつばみを並べて、蹄を幻影の埒に?つ。
 ごじょう、くつばみをならべて、ひづめをげんにょうのらちにあがつ。


 其の解毒に随って薬を得ること、即ち別なり。
 そのげどくにしたがってくすりうること、すなわちべつなり。

 慈父、導子の方、大綱、此れに在り。
 じぶ、どうしのほう、たいこう、これにあり。



そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるのではなく、われわれの心の中にあって、まことに近いものである。

さとりの真理は、われわれの外部にあるものではないから、この身を捨てて、どれにそれを求め得ることができようか。

迷いとさとりは、自分の内部に存在しているのであるから、さとりを求める心を起こせば、それがさとりに到達すること。

明るい世界(さとり)と暗い世界(迷い)は自分にあるのだから、信じて努力すればたちどころに悟りの世界は開ける。

なんと哀れなことか、哀れなことか。悟りの世界を知らずに眠りこけている者よ。

まことに苦しいことよ、痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれているものよ。

酔ったものは、酔わないものをあざ笑い、眠りこけている者は、目覚めているものを嘲るものである。


名医を訪ねて薬を手に入れなければ、いつの日に大日如来のさとりの光明を見ることができようか。


真実を見通す眼をおおい隠す眼病になどには、重い・軽いがあるのだから、さとりを得るにつけても速い・遅いの生まれてきて、


能力や才能は、すべての人が同じでなく、性格ややる気も差がでてくる。

そこで、密教では、金剛界と胎蔵という二つの教えがあって、修行者があとをたどれるようになっていて、


華厳宗・三論宗・法相宗・声聞と縁覚の二乗・天台宗という五つの教えが、おのおの馬の鞍をかけ、幻や影のような仮の教えの柵の中でひずめをかがめている。

いま病気の程度によって薬を与えることは、それぞれ区別があるのである。

慈しみ深い父親が子供を導く方法は、まさにこれから説く顕蜜の区別に基づく説き方の大筋と同じである。

 大意序(たいいじょ)
 
 大般若波羅蜜多心経といっぱ、即ち是れ、
 だいはんにゃはらみたしんぎょうといっぱ、すなわちこれ、

 大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり。
 だいはんにゃぼさつのだいしんしんごんさんまじ ほうもんなり。


 文は一紙に欠けて、行は則ち十四なり。
 もんないっしにかけて、ごうはすなわちじゅうしなり。


 謂うべし、簡にして要なり。約にして深し。
 いうべし、かんにしてようなり。つづまやかにしてふかし。


 五蔵の般若は、一句に?んで飽かず、
 ごぞうのはんにゃは、いっくにふくんであかず、

 七宗の行果は、一行に飲んで足らず。
 しちしゅうのぎょうかは、いちごうにのんでたらず。 

大般若波羅蜜多心経』というのは、実に


般若菩薩の偉大な心髄の真言のさとりの境地を説い
たものである。

文は、一枚の紙にも満たず、たった十四行にすぎない。

一言でいって、簡略で要領を得ている。簡約だが深遠
である。

五種類の経典(経・律・論・般若・陀羅尼)の深い智恵の教えは、「行深般若波羅蜜多」の一句にことごとく含まれていて、

七宗(華厳・三論・法相・天台・声聞・縁覚・真言密教)のそれぞれの修行の成果は「三世諸仏依般若波羅蜜多」から「三菩提」の一行にあますところなく包み込まれている。

 観在薩たは、則ち諸乗の行人を挙げ、
 かんざいさったは、すなわちしょじょうのぎょうにんのあげ、

 度苦涅槃は、則ち諸教の得楽を?ぐ。
 どくねはんな、すなわちしょきょうのとくらっとかかぐ。

 五蘊は、横に迷境を指し、三仏は、竪に悟心を示す。
 ごうんな、おうにめいきょうをさし、さんぶったしゅにごしんのしめす。

 色空と言へば、則ち普賢、頤を円融の義に解き、
 しきくうといえば、すなわちふげん、おとがいをえんゆうのぎにとき、

 不生と談ずれば、則ち文殊、顔を絶戯の観に破る。
 ふしょうとだんずれば、すなわちもんじゅ、かんばせをぜっけのかんにやぶる。

 之を識界に説けば、簡持、手を拍ち、
 これをしきかいにとけば、けんじ てをうち、


 之を境智に泯ずれば、帰一、心を快くす。
 これをきょうちにみんずれば、きいち、こころをこころよくす。




 十二因縁は、生滅を麟角に指し、
 じゅうにいんねんは、しょうめっとりんかくにさし、


 四諦の法輪は、苦空を羊車に驚かす。
 したいのほうりんな、くくうをようじゃにおどろかす。


 況んやまた、ギャテイの二字は、諸蔵の行果を呑み、
 いわんやまた、ぎゃていのにじは、しょぞうのぎょうかをのみ、


 ハラソウの両言は、顕蜜の法教を孕めり。
 はらそうのりょうごんは、けんみつのほうきょうをはらめり。

 一一の声字は、歴劫の談にも尽きず。
  いちいちのしょうじは、りゃっごうのだんにもつきず。


 一一の名実は、塵滴の仏も極めたもうこと無し。
 いちいちのみょうじった、じんてきのほとけもきわめたもうことなし。
    
「観自在菩薩」は、もろもろの教えの修行者を意味し、


「度一切苦厄」「究竟涅槃」は、教えによって得られる喜びを表す。

「五種の構成要素」は空間的にみて迷いの境界を指し、「三世諸仏」は、時間的にみてさとりの心を示している。

「色不異空、空不異色」と説法されると、普賢菩薩が『華厳経』に説くすべてのものが完全に融けあうという教えの立場からほほえみ、

「不生、不滅、不垢、不浄」などと説かれるのは、文殊菩薩が、言葉の虚構を打ち破るという教えの立場からよろこび笑う。

「是故空中無色受想行識」と説法されると、すべてのものは心あらわれるとする唯識思想の菩薩である弥勒は、手を打ってよろこび、

さらに、対象と主観をともに拒否することを、「無智亦無得、以無所得故」と説かれると、教えを聞いてさとる者(声聞)をはじめ三種の教えが仏の唯一のおしえに帰入すると説く、観自在菩薩が満足される。

十二の因縁の連環を説く、「無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽」は、ものの生滅を独自でさとる者(縁覚)に教え示し、

四諦(苦・集・滅・道)の真理の教えは、苦や空など十六の特徴によって、教えを聞いてさとる人(声聞)に知らしめる。

密教の立場に立てば、「ギャーテー」という真言の二字は、もろもろの教えに基づく修行の成果を内包し、


「ハラソウ」という字は、顕教・密教の両種の教えを包んでいる。

一つひとつの声字を説明すると、無限の時間をかけても仏たちも極めることがない。

一つひとつの言葉の名称と意味は、無数におられる仏たちも極められることはない。
この故に、誦持・講供すれば、則ち苦を抜き楽を与え、
 このゆえに、じゅじ・こうくすれば、すなわちくをぬきらくをあたえ、


 修習・思惟すれば、則ち道を得、通を起す。
 しゅじゅう・しゆいすれば、すなわちどうをえ、つうをおこす。

 甚深の称、誠に宜しく然るべし。
 じんじんのしょう、まことによろしくしかるべし。
このように、もしそれを読んで、よく保ち、講説して、供養するならば、あらゆるものの苦しみを取り除いて、楽しみを与え、

もしこの経典の教えを守り行い、思惟するならば、さとりを得るとともに、不思議な力すら身につけるであろう。

その経典の意味が深いと賞賛されるのは、まことにもっともなことである。
 余、童を教うるの次でに、聊か綱要を摂って、かの五分を釈す。
 よ、とうをおしうるのついでに、いささかこうようをとって、かのごぶんのしゃくす。

 釈家多しと雖も、未だこの幽を釣らず。
 しゃっけおおしといえども、いまだこのゆうをつらず。

 翻訳の同異、顕密の差別、並びに後に釈するが如し。
 ほんにゃくのどうい、けんみつのしゃべつ、ならびにのちにしゃくするがごとし。


 或るが問うて云く、
 あるがとっていわく、

 「般若は、第二未了の教なり。何ぞ能く三顕の経を呑まん。」 
 はんにゃは、だいにみりょうのきょうなり。なんぞよくさんけんのきょうをのまん。」


 「如来の説法は、一字に五乗の義を含み、一念の三蔵の法を説く。
 にょらいのせっぽうは、いちじにごじょうのぎをふくみ、いちねんにさんぞうのほうをとく。

 何に況んや、一部一品、何ぞ匱しく、何ぞ無からん。
 いかにいわんや、いちぶいっぽん、なんぞとぼしく、なんぞなからん

 亀卦・爻蓍、万象を含んで尽くること無く、
 きけ・ぎょうし、まんぞうをふくんでつくることなく、


 帝網・声論、諸義を呑んで窮まらず。」
 たいもう・しょうろん、しょぎをのんできわまらず。」



 難者の曰く、
 なんじゃのいわく、

 「もし然らば、前来の法匠、何ぞこの言を吐かざる。」
 もししからば、ぜんらいのほっしょう、なんぞこのことばをはかざる。」


 答う。
 とう。

 「聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、
 しょうにんのくすりをなぐること、きのじんせんにしたがい、

 賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ。
 げんじゃのせつもくは、ときをまち、ひとをまつ。

 吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか、
 われ、いまだしらず、けだし、いうべきをいわざるか、


 言うまじければ言わざるか。
 いうまじければいわざるか。

 言うまじきを之を言えらん。失、智人、断りたまえまくのみ。」
 いうまじきをこれをいえらん。とが、ちにん、ことわりたまえまくのみ。


 

私は、弟子たちに教えるとき、その大筋の概要を抽出して、五つの部分に分けて解釈した。


この経典を注解釈する人の数は多いが、いまだに、その深奥に達したものはいない。

種々の翻訳における同異、顕教と密教の理解の相違などについては、あとで詳しく説明する。




ある(法相宗の)人が質問していう。


「すべての経典が、第一時(有教)、第二時(空教)、第三時(中道教)という三種に分けられるが、『般若経』は、第二の空教にあたるものであり、すべてを論じつくしたものではない。どうして第三段階の中道教までを含みつくすことができようか。」

(答えて)「如来の説法は、わずか一字の中にも、五種の教えに関係する内容を含んでいる。また、一瞬のうちに三種の教えの集成を明らかにしている。

したがって、経文の一句でも、一節でもあれば、とても多くの教えがふくまれているはずだ。

あたかも、亀の甲や草の茎で作られた占いの道具によって、宇宙全体のあらゆる現象がうらなわれるようなものであり、

あるいは、帝釈天宮にかかっている網についている宝珠が互いに映しあっているようなものであり、あるいは、文法書の中のあらゆる言葉の意味が含まれて限りがないようなものである。」

(さらに)論難する人が質問する。


「もしそうであるならば、これまでの仏教の学匠たちは、いったいどうして、『般若心経』が、深遠で広大な経典であることを論じなかったのだろう。」

答えていう。

「すぐれた医者が患者の容態に従って薬を投薬するように、聖人が教えを説く場合には、それを聞く人々の性向にあわせて教えを説くのである。

また、賢者が教えを説いたり、逆に黙って説かなかったりするのは、それは、適当な時期とふさわしい人が現れるのをまっているからだ。

私には説明できない。その内容を先人たちが説くべきだったのにしなかったのか、

説くべきでないとおもって説かなかったのか。

(けれども私は、いまからそれを説こうとしている)このことが、説いてはならないことを説く過失になるかどうか、この点については、智恵ある人の判断をあおぐばかりである。」
経の題号

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」といっぱ、この題額に就いて 二の別あり。
ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょうといっぱ、このだいがくについてふたつのべったり。

 梵漢別なるが故に。
 ぼんかんべつなるがゆえに。

今、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」といっぱ、胡漢、雑え挙げたり。
いま、「ぶっせつまかはんやはらみたしんぎょう」といっぱ、こかん、まじえあげたり。

 「説心経」の三字は、漢名なり、余の九字は胡号なり。
 「せつしんきょう」のさんじは、かんみょうなり。よのくじはこごうなり。


もし具なる梵名ならば、ボダハシャマカハラジャハラミタカリダソタランと曰うべし。
 もしつぶさにぼんみょうならば、ボダハシャマカハラジャハラミタカリダソタランというべし。


 初めの二字は、円満覚者の名、
 はじめのにじは、えんまんかくしゃのな、

 次の二字は、蜜蔵を開悟し、甘露を施すの称なり。
 つぎのにじは、みつぞうをかいごし、かんろをほどこすのしょうなり。

 次の二字は、大・多・勝に就いて義を立つ。
 つぎのにじは、だい・た・しょうについてぎをたつ。

 次の二字は、常慧に約して名を樹つ。
 つぎのにじは、じょうえにやくしてなをたつ。

 次の三は、所作巳弁に就いて号とす。
 つぎのみつは、しょさいべんについてなとす。

 次の二は、処中に拠って義を表す。
 つぎのふたつは、しょちゅうによってぎをひょうす。

 次の二は、貫線摂持等を以て字を顕わす。
 つぎのふたった、かんせんしょうじとうをもってなをあらわす。


 もし総の義を以って説かば、皆、人・法・喩を具す。
 もしそうのぎをもってとかば、みな、にん・ぼう・ゆをぐす。

 是れ則ち、大般若波羅蜜多菩薩の名なり、即ち是れ人なり。
 これすなわち、だいはんにゃはらみたぼさつのななり、すなわちこれにんなり。

 この菩薩に、法曼荼羅・真言三摩地門を具す。
 このぼさつに、ほうまんだら・しんごんさんまじもんのぐす。

 一一の字、即ち法なり。
 いちいちのじは、すなわちほうなり。

 この一一の名は、皆世間の浅名を以て法性の深号を表わす。
 このいちいちのなは、みなせけんのせんみょうをもってほっじょうのじんごうをあらわす。

 即ち是れ喩なり。
 すなわちこれゆなり。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』というのは、経典の題目関して二種類の言語的解釈がある。



それは梵語と漢訳とであって本来別なものであるから。


今、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』というと、梵語と漢訳が混じっている。


「説」「心」「経」の三字は漢語であって、あとの九字は梵語である。


もしすべてを梵語でいうなら、「ブッダ・バーシャー・マハー・ブラジュニャー・バーラミター・フリダヤ・スートラム」というべきである。



最初の二字「ブッダ」(仏)は、さとりに目覚めた人の称号である。

次の二字「バーシャー」(説)は、秘密の教えをさとらしめ、不死の妙薬を与えるいみである。

次の二字「マハー」(摩訶)は、偉大なこと・多いこと・勝れていることの意味である。

次の二字「ブラジュニャー」(般若)は、瞑想によって得られる最高の智慧という意味を要約した言葉である。

次の三字「バーラミター」(波羅蜜多)は、なすべきことをなしおえた、さとりを得たという意味である。

次に二字「フリダヤ」(心)は、空間の中心という意味。

次の二字「スートラム」(経)は、貫いた線、集め持つなどの意味を持って、題名をあらわしている。


もし経題の全体的意味について説くならば、人(尊格)、法(さとりを表す文字)、喩(たとえ)という三項目をもっている。


この菩薩には、さとりを象徴する梵字で表現した法曼荼羅と、聖なる梵語の句である真言による瞑想の境地がある。


それら一つひとつの文字が、まさにさとりを表す文字である。


この一つひとつの名前は、すべて世間の浅い意味解釈になぞられて真実の深い意味を示すのである。


これこそが、たとえである。

説処・聴聞衆

 この三摩地門は、仏、鷲峯山に在して、?子等の為に之を説きたまえり。
 このさんまじもんな、ほとけ、じゅぶうせんにいまして、じゅうしとうのためにこれをときたまえり。



次に、この経が説かれた場所や、教えを聞く相手について説いている。



翻訳の同異
    
 この経に、数の翻訳あり。第一に、羅什三蔵の訳、
 このきょうに、あまたのほんにゃくあり。だいいちにらじゅうさんぞうのやく、

 今の所説の本、是なり。
 いまのしょせつのほん、これなり。

 次に、唐の遍覚三蔵の翻には、題に「仏説摩訶」の四字無し。
 つぎに、とうのへんがくさんぞうのほんには、だいに「ぶっせつまか」のしもじなし。

 「五蘊」の下に「等」の字を加え、「遠離」の下に「一切」の字を除く。
 ごうんのしたにとうのじをくわえ、おんりのしたにいっさいのじをのぞく。

 陀羅尼の後に功能無し。次に、大周の義浄三蔵の本には、
 だらにののちにくのうなし。つぎに、だいしゅうのぎじょうさんぞうのほんには、

 題に「摩訶」の字を省き、真言の後に功能を加えたり。
 だいにまかのじをはぶき、しんごんののちにくのうをくわえたり。

 また法月、及び般若両三蔵の翻には、並びに序分・流通有り。
 またほうがつ、およびはんにゃりょうさんぞうのほんには、ならびにじょぶん・るつうあり。

 また、『陀羅尼集経』第三の巻に、この真言法を説けり。
 また、だらにじっきょうのだいさんのまきに、このしんごんほうをとけり

 経の題、羅什と同じ。
 きょうのだい、らじゅうとおなじ。



この経には、数本の翻訳がある。第一に、鳩摩羅三蔵の訳、


いま私が解説しようとしているのが、この訳である。


次に、唐代の玄奘三蔵の翻訳であるが、これは経題に、「仏説摩訶」の四字がない。


また、「五」の下に「等」の字を加え、「遠離」の下では、「一切」の字が省かれている。


そして、真言の後には、功徳を説いた文章が書かれていない。次に、大周の義浄三蔵の翻訳では、


経題に「摩訶」の字がなく真言文の後に、説法を聞いたものたちが喜んだことなど、(流通文)が説かれている。

さらに、法月と般若の両三蔵の訳した「般若心経」には、序文と功徳を説いた結びの文がある。


また『陀羅尼集経』の第三巻には、この真言法が説かれており

その経題は、鳩摩羅什のものと同じである。



題名の余義

 般若心といっぱ、この菩薩に身心等の陀羅尼有り。
 はんにゃしんといっぱ、このぼさつにしんじんとうのだらにあり。

 この経の真言は、即ち大心呪なり。
 このきょうのしんごんな、すなわちだいしんしゅなり。

 この心真言に依って、般若心の名を得。
 このしんしんごんによって、はんにゃしんのなをう。

 或るが云く、「大般若経の心要を略出するが故に、心と名づく。
 あるがいわく、「だいはんにゃきょうのしんにようをりゃくしゅつするが「ゆえに、しんとなづく。

 是れ別会の説にあらず」と云々。
 これべってのせつにあらず。」とうんぬん。

 所謂、龍に蛇の鱗有るが如し。
 いわゆる、りょうにじゃのうろくずあるがごとし。



「般若心」というのは、般若菩薩に対する真言には、いくつか種類があり。

そのうち、この経に説く真言は、偉大な必要の真言なのである。

この必要の真言という意味から、「般若心」という経題がついた。

ある者が、質問していう。「『大般若経』の重要部分を取り出して要約したものであるから、その意味で、『心』という名前がついているのである。

したがって、別の箇所で説かれた経典ではない。」


その点については、たとえば龍に、蛇のうろこがついているようなもので、それでもって顕教経典とはきめつけられない。
五分の総説

 この経に、総じて五分有り。
 このきょうに、そうじてごぶんなり。

 第一に、人法総通分、「観自在菩薩」というより、「度一切苦厄」に至るまで是れなり。
 だいいちに、にんぼうそうずうぶん、「かんじざい」というより、「どいっさいくやく」にいたるまでこれなり。

 第二に、分別諸乗分、「色不異空」というより、「無所得故」に至るまで是れなり。
 だいにに、ふんべつしょじょうぶん、「しきふいくう」というより、「むしょとっこ」にいたるまでこれなり。






 第三に、行人得益分、「菩薩薩た」というより、「三みゃく三菩提」に至るまで是れなり。
 だいさんに、ぎょうにんとくやくぶん、「ぼだいさった」というより、「さんみゃくさんぼだい」にいたるまでこれなり。


 第四に、総帰持明分、「故知般若」というより、「真実不虚」に至るまで是れなり。
 だいしに、そうきじみょうぶん、「こちはんにゃ」というより、「しんじっぶこ」にいたるまでこれなり。

 第五に、秘蔵真言分、「ギャテイギャテイ」というより、「ソワカ」に至るまで是れなり。
 だいごに、ひぞうしんごんぶん、「ぎゃていぎゃてい」というより、「そわか」にいたるまでこれなり。


この経を、大きく分けて五つの部分がある。


第一 人と法とを全体的に説き示す部分。
「観自在菩薩」より、「度一切苦厄」まで
観自在菩薩 行 深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

第二 もろもろの教えを分類して説く部分。
「色不異空」より、「無所得故」まで。
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是  舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無識無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦無無明盡 乃至 無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

第三 修行した人が得る利益を説く部分。
「菩薩薩た」より、「三みゃく三菩提」まで
菩提薩た 依般若波羅蜜多故 心無む礙 無げ礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 

第四 すべてが真言に帰すことを説く部分。
「故知般若」より、「真実不虚」まで
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

第五 秘密の真言を説く部分。
「ギャテイギャテイ」より、「ソワカ」まで
故 説般若波羅蜜多咒 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
人法総通分

 第一の人法総通分に五有り。
 だいいちのにんぽうそうずうぶんにいっつあり。

 因・行・証・入・時、是れなり。
 いん・ぎょう・しょう・にゅう・じ、これなり。


「観自在」といっぱ、能行の人、即ちこの人は、本覚本覚の菩提を因となす。
 「かんじざい」といっぱ、のうぎょうのひと、すなわちこのにんな、ほんがくのぼだいをいんとす。

 「深般若」は、能所観の法、即ち是れ行なり。
 「じんはんにゃ」は、のうしょかんのほう、すなわちこれぎょうなり。

 「照空」は、即ち能証の智、
 「しょうくう」は、すなわちのうしょうのち、

 「度苦」は、則ち所得の果、果は即ち入なり。
 「どく」は、すなわちしょとくのか、かはすなわちにゅうなり。

 かの教に依る人の智、無量なり。智の差別に依って、時また多し。
 かのきょうによるにんのち、むりょうなり。ちのしゃべつによって、じまたおおし。

 三生・三劫・六十・百妄執の差別、是れを時と名づく。
 さんしょう・さんごう・ろくじゅう・ひゃくもうじゅうのしゃべつ、これをじとなずく。



 頌に曰く、
 じゅにいわく、

 観人智慧を修して
 かんにんちえをしゅして

 深く五衆の空を照す
 ふかくごしゅのくうをてらす

 歴劫修念の者
 りゃっこうしゅねんのもの

 煩を離れて一心に通ず
 ぼんのはなれていっしんにつうず。


第一段の人と法についてには、五つの要素がある。


因(さとりを求める原因)・行(さとりを得る修行)・証(さとりを証すること。)・入(涅槃に入ること。)・さとりにいたる修行にかかる時間である。

まず、「観自在菩薩」という尊格は、よく修行する人で、本来その身にそなわっている仏となるべき可能性を、さとりを求める原因としている。


行深般若波羅蜜多時」は、すなわち奥深い最高の智恵が、対象をよく観察する智恵であり、この智恵を完成することこそが、修行である。

照見五蘊皆空」は、さとりを証する智恵である。


度一切苦厄 」は、その智恵によって得られる結果であり、それは涅槃に入ることである。

この教えに依拠している人々の智恵も千差万別で限りがない。それらの人々の智恵の違いによって、必要とする修行の時間もさまざまである。


華厳の三生・三論や法相の三劫とか、声聞の六十劫、縁覚の百劫とかという区別が生じるのである。


 詩で要約していうと、


 観自在菩薩は、深い智慧を修行して


 五つの構成要素が、実体のないことにさとられた。


 無限の長い間修行している者たちも、

 迷いを離れて、諸物の根源である心に通達するのである。

分別諸乗分(建乗)

 第二の分別諸乗分に、また五つ有り。
 だいにのふんべつしょじょうぶんに、またいっつつあり。

 建・絶・相・二・一、是れなり。
 こん・ぜつ・そう・に・いち、これなり

 初めに、建といっぱ、所謂、建立如来の三摩地門是れなり。
 はじめに、こんといっぱ、いわゆる、こんりゅうにょらいのさんまじもん これなり。

 「色不異空」というより、「亦復如是」に至るまで、是れなり。
 「しきふいくう」というより、「やくぶにょぜ」にいたるまで、これなり。

 建立如来といっぱ、即ち普賢菩薩の秘号なり。
 こんりゅうにょらいといっぱ、すなわちふげんぼさつのひごうなり。

 普賢の円因は、円融の三法を以て宗とす。
 ふげんのえんにんな、えんゆうのさんぼうをもってしゅうとす。



 故に以て之に名づく。
 かるがゆえにもってこれになづく。

 また是れ、一切如来の菩提心行願の身なり。
 またこれ、いっさいにょらいのぼだいしんぎょうがんのしんなり。

 頌に曰く、
 じゅにいわく、

 色空本より不二なり
 しきくうもとよりふになり

 事理元より来同なり
 じりもとよりこのかたどうなり

 無げに三種を融ず
 むげにさんしゅをゆうず

 金水の喩その宗なり
 こんすいのたとえそのしゅうなり


第二の密教以外の五乗・六宗を分類すると、五つある。


建・絶・相・二・一」がそうである。


初めに、「建」というのは、いわゆる建立如来のさとりの境地。


色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 
受想行識亦復如是
」がそれに相当する。

建立如来というのは、普賢菩薩を呼んだ称号である。


普賢菩薩がさとりを得る理由は、『華厳経』の教えで説くように、宇宙万物は絶対的な実在であり、実在と現象は、本来区別あるものではなく、互いに融合しており、現象界はそのまま絶対の世界であるという三種のおしえを旨としている。

そのゆえに、「建」と名づけたのである。

また、この菩薩は、あらゆる如来のさとりを求める心と、修行と本願を本質とする存在である。

 詩に説いていう。


 現象としての物質存在(色)は、実在的在り方である空と、もともと別のものではない。

 現象と理法とは、本来的に同一である。


 現象と理法、理法と理法、現象と現象の三者は、それぞれさまたげあうことなく融合しあっている。

 『華厳経』にある金獅子や水波のたとえは、まさに根本理念を示したものである。
分別諸乗分(絶乗)

 二に、絶といっぱ、所謂、無戯論如来の三摩地門是れなり。
 ふたつに、ぜつといっぱ、いわゆる、むけろんにょらいのさんまじもんこれなり。

 「是諸法空相」というより、「不増不滅」に至るまで是れなり。
 「ぜしょほうくうそう」というより、「ふぞうふげん」にいたるまでこれなり。

 無戯論如来といっぱ、即ち文殊菩薩の密号なり。
 むけろんにょらいといっぱ、すなわちもんじゅぼさつのみつごうなり。

 文殊の利剣は、能く八不を揮って、かの妄執の心をを絶つ。
 もんじゅのりけんは、よくはっぷをふるって、かのもうじゅうのしんをたつ。

 この故に、以て名づく。
 このゆえに、もってなづく。

 頌に曰く、
 じゅにいわく、

 八不に諸戯を絶つ
 はっぷにしょけをたつ

 文殊は是れかの人なり
 もんじゅはこれかのにんなり

 独空畢竟の理
 どっくうひっきょうのりなり

 義用最も幽真なり
 ぎゆうもっともゆうしんなり


第二に、「絶」というのは、言葉の虚構を離れた如来のさとりの境地を指している。


是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」の部分がこれにあたる。


無戯論如来とは、文殊菩薩の密教における呼称である。

文殊菩薩の持つ鋭利な剣は、八種類の否定(八否)に則って、我々の執着の心を断ち切る。


それゆえに、「絶」と名づける。


 詩にいう。


 八否の剣をふるって、もろもろの言葉の虚構によって生み出された煩悩を断ち切る

 それを行うのは、まさに文殊菩薩である。


 あらゆる差別を否定して、ただ空のみを最高の真理とし、

 そこから生ずる慈悲と救済の働きは、まことに奥深いものである
分別諸乗分(相乗)

 三に、相とは、所謂、摩訶梅多羅冒地薩怛ばの三摩地門、是れなり。
 みつに、そうといっぱ、いわゆる、まかばいたらぼうじさとばのさんまじもん、これなり。

 「是故空中無色」というより、「無意識界」に至るまで是れなり。
 「ぜこくうじゅうむしき」というより、「むいしきかい」にいたるまでこれなり。

 大慈三昧は、与楽を以て宗とし、因果を示して誡とす。
 だいじさんまいは、よらくをもってしゅうとし、いんがをしめしてかいとす。

 相性、別論し、唯識、境を遮す。
 そうしょう、べっろんし、ゆいしき、きょうをしゃす。

 心、只だ此れに在り。
 こころ、ただこれにあり。

 頌に曰く、
 じゅにいわく 

 二我何れの時にか断つ
 にがいずれのときにかたつ


 三祇に法身を証す
 さんぎにほっしんのしょうす

 阿陀は是れ識性なり
 あだはこれしきしょうなり

 幻影は即ち名賓なり
 げんにうはすなわちみょうひんなり


第三の「相」とは、弥勒菩薩のさとりの境地がそうである。



是故空中 無識無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界 乃至 無意識界」が該当する。

弥勒菩薩の大いなる慈しみの境地は、楽しみを与えることをその本義とし、行為の因果が正しく相応することをその戒めとしている。

教理的には、現象と本体との区別を論じ、この世界が心からのみ成り、外界の対象は存在しないとする。

すなわち、心だけがここに存在するというのである。


 詩にいう


 個人存在に対するとらわれ(人我)と存在要素に対するとらわれ(法我)の二つの迷いは、いつ断つことができようか。

 無限の長い時間をかけて、真理の存在を体現するのである。

 阿陀那識(アーラヤ識)こそは、認識作用の根底をなすものである。

 幻や影のような現象世界は、名前のみある仮の姿にすぎないのである。
分別諸乗分(二乗)

 四に、二といっぱ、唯蘊無我、抜業因種、是れなり。
 よつに、にといっぱ、ゆいうんむが、ばつごういんしゅ、これなり。



 是れ即ち二乗の三摩地門なり。
 これすなわちにじょうのさんまじもんなり。

 「無無明」というより、「無老死尽」に至るまで、
 「むむみょう」というより、「むろうしじん」にいたるまで、

 即ち是れ因縁仏の三昧なり。
 すなわちこれいんねんぶつのさんまいなり。

 頌に曰く、
 じゅにいわく

 風葉に因縁を知る
 ふうようにいんねんをしる

 輪廻幾の年にか覚る
 りんねいくばくのとしにかさとる

 露花に種子を除く
 ろかにしゅうじをのぞく

 羊鹿の号相連れり
 ようろくのな あいつらなれり

 「無苦集滅道」、此れこの一句五字は、
 「むくしゅうめつどう」、これこのいっくごじは、

 即ち依声得道の三昧なり。
 すなわちえしょうとく どうのさんまいなり。

 頌に曰く、
 じゅにいわく

 白骨に我何んか在る
 はっこつにが いずくんかある

 青おに人本より無し
 しょうおに ひともとよりなし

 吾が師は是れ四念なり
 わがしは これしねんなり

 羅漢また何ぞ虞まん
 らかん またなんぞたのしまん


第四に、「二」というのは、この存在を構成するものは、五つの構成要素(五うん)のみであって、実体的な自我は存在しないとする教えと、迷いのもととなる行為の原因を取り除くとする教えの二つをいう。

これらは、教えを聞いてさとる者と、独力でさとる者の二種のさとりの境地である。

「無無明 亦無無明盡 乃至 無老死 亦無老死盡 無苦集滅道」がそれにあたり、

これは、十二の生起の因縁を独自にさとる者の精神集中の境地である。


詩にいう。

 風に吹かれて落ちる木の葉を見て、物事の因縁の道理を知る。

 無限の生死のくりかえしを、いったいどのくらいの年月をかけてさとるのであろうか。

 露が消え、花が枯れるのを見て、迷いの種子を取り除く。

 羊の車、鹿の車にたとえられる教えを聞いてさとりを得る者と独力でさとるものとは、相並んで小乗と呼ばれる。

 「無苦集滅道」という五字は、


 仏の説法を聞いてさとりを得る者の精神集中の境地を示している。

詩にいう。


 白骨を見よ。どこに固定的な自我が存在しようか。


 青くむくんだ死体を見よ。そこには永遠なる人などいない。

 わが師とすべきは、身体は不浄、感覚は苦、心は無常、存在は無実体という四つの観想法である。

 小乗の聖者(羅漢)は、実に、それらの楽しみにひたるのである。
分別諸乗分(一乗) 

 五に、一とは、阿哩也ば路枳帝冒地薩怛ばの三摩地門なり。
 いっつに、いちといっぱ ありやばろきていぼうじさとばのさんまじもんなり。

 「無智」というより、「無所得故」に至るまで、是れなり。
 「むち」というより、「むしょとっこ」にいたるまで、これなり。

 この得自性清浄如来は、一道清浄妙蓮不染を以て、
 このとくじしょうじょうにょらいは、いちどうしょうじょうみょうれんふぜんのもって、

 衆生に開示して、その苦厄を抜く。
 しゅじょうにかいじして、そのくやくをぬく。

 智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく。
 ちは、のうだっとあげ、とくは、しょしょうになづく。

 既に理智を泯ずれば、強ちに一の名を以てす。
 すでにりちをみんずれば、あながちにいちのなをもってす。

 『法華』『涅槃』等の摂末帰本の教、
 『ほっけ』『ねはん』とうのしょうまっきほんのきょう、

 唯だこの十字に含めり。
 ただこのじゅうじにふくめり。

 諸乗の差別、智者、之を察せよ。
 しょじょうのしゃべっ ちしゃ、これをさっせよ。

 頌に曰く、
 じゅにいわく

 蓮を観じて自浄を知り
 はちすをかんじて じじょうをしり

 菓を見て心徳を覚る
 このみをみて しんとくをさとる

 一道に能所を泯ずれば
 いちどうにのうじょをみんずれば

 三車即ち帰黙す
 さんじゃ すなわちきもくす


第五に、「一」とは、聖観自在菩薩のさとりの境地である。

経文でいえば、「無智亦無得 以無所得故」がそれである。

あらゆるものは本来的に清らかであることをさとっているこの仏は、あたかも美しい蓮華が泥土によって汚されない唯一の清らかな道という教えを人々に説き示し、

衆生の苦しみやわざわいを除き去るのである。


「無智」の「智」は、さとりに達する手段を示し、「無所得故」の「得」は、達せられるさとりのことをいう。

このような境地では、理法と智慧が渾然一体となっているので、あえて「一」と名づけたのである。

『法華経』や『涅槃経』などの枝葉末節をまとめて、根本に帰入させる教えは、

実に「無智亦無得 以無所得故」という十字に含まれる。

もろもろの教えの違いを、智慧ある人は観察しなさい。


詩にいう。


 蓮華を観察して、自らの心がきよらかであることを知り、

 蓮華の種を見て、心にあらゆる徳性がそなわっていることをさとる。

 (法華)一乗の教えにおいて、主体と客体とが一つに溶け合えば、

声聞・縁覚・菩薩という三種教えは、仏という偉大な教えの中に自然に帰入してしまうのである。

行人得益分

 第三の行人得益分に二有り。人・法是れなり。
 だいさんのぎょうにんとくやくぶんにふたったり。にん・ぽうこれなり。

 初めの人に七有り、前の六、後の一なり。
 はじめのにんにななったり、まえのむつ、のちのひとつなり。


 乗の差別に随って、薩たに異有るが故に。
 じょうのしゃべつにしたがって、さったにいあるがゆえに。

 また薩たに四有り。愚・識・金・智、是れなり。
 またさったによつあり、ぐ・しき・こん・ち、これなり。


 次に、また法に四有り、謂く、因・行・証・入なり。
 つぎに、またほうによつあり、いわく、いん・ぎょう・しょう・にゅうなり。

 般若は、即ち能因能行、無げ離障は、即ち入涅槃、
 はんにゃは、すなわち のういんのうぎょう、むげりしょうは、すなわちにゅうねはん、

 能証の覚智は、即ち証果なり。
 のうしょうのかくちは、すなわちしょうかなり。



 文の如く思知せよ。
 もんのごとく しちせよ。


 頌に曰く、
 じゅにいわく

 行人の数は是れ七
 ぎょうにんのかずはこれななつ

 重二かの法なり
 じゅうに かのほうなり

 円寂と菩提と
 えんじゃくとぼだいと

 正依何事か乏しからん
 しょうえ なにごとか とぼしからん


第三に、修行者が得る利益には二つに分かれる。修行者と教えの内容(法)である。


はじめに、修行者には七種ある。前に述べた華厳(建)・三論(絶)・法相(相)・声聞と縁覚(二)・天台(一)と後の一つ、真言乗の人。

それは、教えの違いにしたがって、それを行う人に区別があるからである。

また別に、人には四種ある。六道に流転する凡夫と、声聞と縁覚の二乗と、真言の修行者である金剛薩たと、法相・三論・天台・華厳の大乗仏教の菩薩がそうである。

つぎに、教えの内容に四種ある。さとりを求める原因(因)とさとりに向かう修行(行)、さとりのあかし(証)と涅槃に入る(入)である。

その中で、般若の智慧が、さとりの原因であり、しかも行(「依般若波羅蜜多故」)である。


さまたげなく、さわりのない状態(「無けい礙」)が、涅槃に入ること(「究竟涅槃」)であり、さとりを証する智慧は、そのままさとりの結果(「阿耨多羅三藐三菩提」)である。

詳しくは、『般若心経』の文章にしたがって、かんがえるべきである。


詩にいう。


 修行者の数には、七種類ある。


 修すべき教えの内容は、因・行・証・入の四つである。


 完全なやすらぎと、さとりそのものと、


 身体とそれらの拠り所としての国土世界とがそなわっており、どこに欠けたところがあろうか。
総帰持明分
  
 第四の、総帰持明分に、また三有り。名・体・用なり。
 だいしの そうきじみょうぶんに、またみつあり。みょう・たい・ゆうなり。

 四種の呪明は、名を挙げ、
 よんしゅのしゅみょうは、なをあげ、

 「真実不虚」は、体を指し、
 「しんじっこ」は、たいをさし、

 「能除諸苦」は、用を顕す。
 「のうじょしょく」は、ゆうをあらわす。

 名を挙ぐる中に、初めの「是大神呪」は、声聞の真言、
 なをあぐるなかに、はじめの「ぜだいじんしゅ」は、しょうもんのしんごん、

 二は、縁覚の真言、三は、大乗の真言、
 には、えんがくのしんごん、さんなだいじょうのしんごん、

 四は、秘蔵の真言なり。
 しは、ひぞうのしんごんなり。

 もし通の義を以ていわば、一一の真言に皆四名を具す。
 もしつうのぎをもっていわば、いちいちのしんごんにみなしみょうをぐす。

 略して一隅を示す。円智の人、三即帰一せよ。
 りゃくしていちぐうをしめす。えんちのにん、さんそくきいちせよ。


 頌に曰く、
 じゅにいわく

 総持に文・義有り。悉く持明なり
 そうじにもん・ぎあり。にんしゅ ことごとくじみょうなり




 声字と人法と実相とにこの名を具す
 しょうじとにんぽうとじっそうとにこのなをぐす



第四の、すべての教えが真言に帰す説明に、三つある。真言の名称と本質と作用である。


四種の真言の名称は、「大神呪 大明呪 無上呪 無等等呪」は、名前を挙げ、


真実不虚」は、真言の本質を指し、

能除諸(一切)苦」は、その作用を表している。


真言の名称をあげているなかに、最初の「是大神呪」は、声聞の真言、


第二の「是大明呪」は、縁覚の真言、第三「是無上呪」は、大乗の真言、

第四「是無等等呪」は、秘蔵、すなわち密教の真言である。

もしも全体に通じる意味を用いてようやくすると、一つ一つの真言には、いずれも四種類の名称をそなえている。


省略して、その一面のみを明示しているのである。完全な智慧を備えている人は、一つの真言に、他の三つの名称がそなわっていることを理解しなさい。

詩にいう。


 真言・陀羅尼は、一つの文字に、あらゆる文字を含み(文)、一つの意味にすべての意味をそなえている(義)。すべての存在の不生・不滅を容認すること(忍)と、あらゆる霊験を生み出すもの(呪)が、真言・陀羅尼である。


 声字と人と法と実相とは、この「文・義・忍・呪」の四種陀羅尼にそれぞれ対応するから、おのおのが、いずれも総持(陀羅尼)の名前をそなえているのである。
秘蔵真言分

 第五の秘蔵真言分に、五有り。
 だいごのひぞうしんごんぶんに、いっつあり。

 初めのギャテイは、声聞の行果を顕わし、
 はじめのぎゃていは、しょうもんのぎょうかをあらわし、

 二のギャテイは、縁覚の行果を挙げ、
 にのぎゃていは、えんがくのぎょうかをあげ、

 三のハラギャテイは、諸大乗最勝の行果を指し、
 さんのはらぎゃていは、しょだいじょうさいしょうのぎょうかをさし、

 四のハラソウギャテイは、真言曼荼羅具足輪円の行果を明かし、
 しのはらそうぎゃていは、しんごんまんだらぐそくりんえんのぎょうかをあかし、

 五のボウジソワカは、上の諸乗究竟菩提証入の義を説く。
 ごのぼうじそわかは、かみのしょじょうくきょうぼだいしょうにゅうのぎをとく。

 句義、是の如し。
 くぎ、かくのごとし。

 もし字相義等に約して之を釈せば、
 もしじそうぎとうにやくして これをしゃくせば、

 無量の人法等の義有り、
 むりょうのにんぼうとうのぎあり。

 劫を歴ても尽し難し。
 こうをへてもつくしがたし。

 もし要問の者は、法に依って更に問え。
 もしようもんのものは、ほうによってさらにとえ。


 頌に曰く、
 じゅにいわく

 真言は不思議なり
 しんごんはふしぎなり

 観誦すれば無明を除く
 かんじゅすればむみょうをのぞく

 一字に千理を含み
 いちじにせんりをふくみ

 即身に法如を証す
 そくしんにほうじょをしょうす

 行行として円寂に至り
 ぎょうぎょうとしてえんじゃくにいたり   

 去去として原初に入る
 こことしてげんしょにいる

 三界は客舎の如し
 さんがいはかくしゃのごとし

 一心はこれ本居なり
 いっしんな これほんこなり


第五の秘蔵真言部を細分すると、五ある。


最初の「羯諦」は、教えを聞いてさとる者の修行の結果をあらわし、

第二の「羯諦」は、独自にさとる者の修行の結果をあげ、

第三の「波羅羯諦」は、もろもろの大乗菩薩たちの最もすぐれた修行の結果を指し、

第四の「波羅僧羯諦」は、真言・曼荼羅を完全にそなえた密教の修行の結果を明らかにし、


第五の「菩提薩婆訶」は、うえに揚げたあらゆる教えの究極的なさとりに入る意義を説明している。


真言の各句の表面的な意味は、以上のとおりである。


もし真言の形態的な相や意味内容などに基づいて、詳しく解釈するならば、

計り知れないほどの人・法などの意味がある。


これらについては、どんなに長い時間をかけても、論じつくすことは難しい。

もし疑問のあるものは、密教の適切な修行を経た上で、さらに問い正してほしい。



詩にいう。

 真言というものは、実に不思議なものである。


 本尊を観想しながら、真言を唱えたならば、根源的な無知の闇が除かれる。

 真言のわずか一字の中に、それぞれ千の理法がふくまれる。

 そうして、この身のままで真理をさとることができる。


羯諦 羯諦」と行き行きて、静かな涅槃の境地に至る。

羯諦 羯諦」と去り去りて、根源的なさとりに入る。


いまださとりを開いてないものにとっては、三種類の生存世界は、あたかも仮の宿である。

しかし、実際には、われら衆生がそなえて持っている、ただ一つの心が、本来の拠り所なのである。
問答決疑

 問う。陀羅尼は、是れ如来の秘密語なり。
 とう。だらには、これにょらいのひみつごなり。

 所以に、古の三蔵、諸の疏家、皆口を閉じ、筆を絶つ。
 このゆえに、いにしえのさんぞう、もろもろのしょけ、みなくちをとじ、ふんでをたつ。

 今、この釈を作る、深く聖旨に背けり。
 いま、このしゃくをつくる。ふかくしょうしにそむけり。

 如来の説法に二種有り、一には顕、二には秘なり。
 にょらいのせっぽうににしゅあり、ひとつにはけん、ふたつにはひなり。

 顕機の為には、多名句を説き、秘根の為には、総持の字を説く。
 けんきのためには、たみょうくをとき、ひこんのためには、そうじのじをとく。

 この故に、如来自らア字オン字等の種種の義を説きたまえり。
 このゆえに、にょらいみずからあじおんじとうのしゅじゅのぎをといたまえり。

 是れ則ち秘機の為に、この説を作す。
 これすなわちひきのために、このせつっとなす。

 龍猛・無畏・広智等もまた、その義を説きたもう。
 りゅうみょう・むい・こうちとうもまた、そのぎをといたもう。


 能不の間、教機に在り。
 のうふのあいだ、きょうきにありたくのみ。


 之を説き、之を黙する、並びに仏意に契えり。
 これをとき、これをもくする、ならびにぶっちにかなえり。

 問う。顕密二教、その旨、天に懸なり。
 とう。けんみつにきょう、そのむね、はるかにはるかなり。

 今この顕経の中に、秘義を説く、不可なり。
 いまこのけんきょうのなかに、ひぎをとく、ふかなり。


 医王の目には、途に触れて、皆薬なり。
 いおうのめには、みちにふれて、みなくすりなり。

 解宝の人は、礦石を宝と見る。
 げほうのにんな、こうしゃくをたからとみる。

 知ると知らざると、何誰が罪過ぞ。
 しるとしらざると、たれかざいかぞ。

 またこの尊の真言儀軌観法は、
 またこのそんのしんごんぎきかんぽうは、

 仏、『金剛頂』の中に説きたまえり。
 ほとけ、『こんごうちょう』のなかにといたまえり。

 此れ、秘が中の極秘なり。
 これ、ひがなかのごくひなり。

 応化の釈迦、給孤園に在して、
 おうけのしゃかは、きっこおんにいまして、

 菩薩・天人の為に、画像・壇法・真言・手印等を説きたもう。
 ぼさつ・てんにんのために、えぞう・だんぽう・しんごん・しゅいんとうをといたもう。

 また是れ秘密なり。
 またこれひみつなり。

 『陀羅尼集経』第三巻、是れなり。
 『だらにじっきょう』のだいさんのまき、これなり。

 顕密は人に在り、声字は、即ち非なり。
 けんみつはひとにあり、しょうじは、すなわちひなり。

 然れども猶、顕が中に秘、秘が中の極秘なり。
 しかれどもなお、けんがなかのひ、ひがなかのごくひなり。

 浅深重重まくのみ。
 せんじん じゅうじゅうまくのみ。


質問する者がいう。「陀羅尼は、仏の秘密の言葉である。

そのために、古来の鳩摩羅什や玄奘など仏典に通じた翻訳僧や、もろもろの注釈家たちが、詳しく論じることを避けて、執筆することもなかったのである。

いま、あなたが、この陀羅尼に解釈をほどこしたことは、仏の尊い御心に甚だしく背くものである。」

答えていう。「そうではない。仏の説法に、二種類ある。第一は、顕教であり、第二は、密教である。


顕な教えによってさとる者のためには、多くの言葉や文句を費やして説法し、秘密の教えによってさとる者のためには、奥深い陀羅尼を説くのである。

したがって、仏は、自ら阿字・?(おん)字などのさまざまの意味をお説きになったのである。


これはすなわち、秘密の教えによってさとる者のために、このように説かれたのである。

龍猛・善無畏・不空なども、こうした意味を説いている。



仏が法を説いたり、あるいは説かずに黙っていたりする違いは、ひとえにそれを受け取る側にかかっているのである。

だから、陀羅尼を説くことも、説かないことも、いずれも仏のみ心にかなっているのである。」

再び質問者が問う。「顕教と密教の二つの教えは、その主旨がはるかにかけはなれている。

いま、あなたは、『般若心経』という顕教の経典の中に、秘密の意味を論じているが、それは不可能なことである。」

答えていう。「すぐれた医者の目から見れば、道端の草が、すべて薬草に見える。

鉱物資源を見分ける者には、貴重な鉱石を宝として見る事ができる。

理解できるか、できないかは、誰の罪でもない。


また、般若菩薩の真言や、修法等の手引き、観想の方法については、

仏が『修習般若波羅蜜菩薩観行念誦儀軌』に説かれている。

これは、秘密の中の最高の秘密である。

衆生を救うために、身を現された釈迦牟尼仏は、インドの祇園精舎に滞在されて、


菩薩や天人のために、仏たちの絵像や、曼荼羅の作法、真言、印契なだをお説きになった。

これもまた、秘密の経である。



『陀羅尼集経』の第三巻がそれにあたる。


顕教と密教の相違は、教えを受ける側の人にあるのであって、経文中の声字に、違いはない。

しかし、どれでもなお、顕教の中の秘密、密教の中の最も秘密の教えというように、

浅い教えから深い教えへと、幾重にも教えが重なりあっているのである。」
流通分

 我、秘密真言の義に依って
 われ、ひみつしんごんのぎによって

 略して『心経』五分の文を讃ず
 りゃくして『しんぎょう』ごぶんのもんのさんず。

 一字一文、法界に遍じ
 いちじいちもん、ほうかいにへんじ

 無終無始にして、我が心分なり
 むじゅうむしにして、わがしんぶんなり

 翳眼の衆生は、盲て見ず
 えげんのしゅじょうは、めしいてみず。

 曼儒・般若は能く紛を解く
 まんじゅ・はんにゃはよくふんのとく

 この甘露を灑いで迷者を霑し
 このかんろをそそいで めいじゃをうるおす

 同じく無明を断じて魔軍を破せん
 おなじくむみょうをだんじて まぐんのはせん


私はいま、秘密の教えである真言の深い意味によって、


『般若心経』の五つの部分を解釈し、それを讃嘆してきた。

それらの一つ一つの文字、文章が、さとりの世界にあまねく満ちて

終わりもなく、始まりもなく、我々の心の中に存在しているものである。

真理の眼を閉ざされた人は、それを見ることはできないけれども、

文殊と般若の両菩薩は、よく人々の迷いを断つことができるのである。

この真実の不死の妙薬をそそいで、迷える人々をうるおわせ、

さらには、根源的な無知を断って煩悩の魔軍を打ち破らんことを。
    般若心経秘鍵     はんにゃしんぎょうひけん はんにゃしんぎょうひけん
上表分

 時に弘仁九年の春 天下大疫す
 ときにこうにんくねんのはる てんかたいえきす。

 爰に帝皇自ら黄金を筆端に染め 
 ここにていおうみずからおうごんのひったんにそめ、

 紺紙を爪掌に握って、般若心経一巻を
 こんしをそじょうににぎって、はんにゃしんぎょういっかんを

 書写し奉りたもう。
 しゃしゃしたてまつりたまう。

 予講読の撰に範って 経旨の宗を綴る。
 よこうどくのせんにのっとって、きょうしのむねをつづる

 未だ結願の詞を波か吐かざるに、
 いまだけちがんのことばをはかざるに、

 蘇生の族途に佇む。
 そしょうのやからみちにたたずむ。

 夜変じて日光赫赫たり。
 よへんじて、にっこうかくかくたり。

 是れ愚身が戒徳に非ず。
 これぐしんがかいとくにあらず。

 金輪御信力の所為なり。
 きんりんぎょしんりきのしょいなり。

 但し神舎に詣せん輩、
 ただしじんじゃにけいせんともがら、

 此の秘鍵を誦じ奉るべし。 
 このひけんをじゅじたてまつるべし。

 昔予鷲峰説法の筵に陪って、
 むかしよじゅぶうせっぽうのむしろにはんべって、

 親り是の深文を聞き、豈其の義に
 まのあたりこのじんもんのきき、あにそのぎに

 達せざらんやまくのみ。
 たっせざらんやまくのみ。

                   入唐沙門空海上表
                   にっとうしゃもんそれがしじょうひょう
上表分

 多くの学者が、この上表を空海のものとはみとめていない。おそらく、後の世に付け加えられたものであろう。